2016年5月19日木曜日

1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム 1892-1901: Landauer’s early anarchism

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1892-1901: Landauer’s early anarchism: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.21-25.
Translated by Hikaru Tanaka


ガブリエル・クーン、ジークベルト・ヴォルフ「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」『グスタフ・ランダウアーの革命とその他の著作』PM Press、2011年、21-35頁。

 ランダウアーが社会主義運動に関わり出す前、彼の世界観は、高校で読んだ哲学者の著作、とりわけフリードリヒ・ニーチェの著作によって強く影響を受けていた。ランダウアーが初期に執筆した小説には、このような彼の思想的な背景が読み取れる。小説のタイトル『死の説教師』は、ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこう語った』の中にある一つの章のタイトル「死の説教師について」にちなんでつけられている。このランダウアーの小説は、彼が書いた小説のうちで最も長いものであった。

  『死の説教師』については批評家から注目されなかったが、フリードリヒ・ニーチェの哲学が、ランダウアーが受容した初期のリバタリアン的思想であったという事実は重要である。このようなニーチェからの影響は、1960年代と70年代におけるフランスのポスト構造主義と現代の「ポストアナーキスト」理論を特徴付けているからである(注11)。

 『死の説教師』を執筆している時期にランダウアーはベルリンの若い作家たちや文化的前衛芸術家たちと交流していた。とりわけフリードリヒスハーゲンの詩人たちのサークルの中に彼は加わっていた。このサークルは、自由思想的傾向の詩人、芸術家、知識人たちがベルリンの郊外のフリードリヒスハーゲンで作りだしていた緩やかに結びついたサークルだった(注12)。

 しかしランダウアーは、すぐに、このような耽美主義的で社会から遊離した若いボヘミアンたちとのつきあいにうんざりしてしまい、しだいに「青年派Juungen」と関わり出すようになった。とはいえ、他方では、文化的な闘争が重要であるという信念を、ランダウアーはその後も失うことなく持ち続けることになる。したがって、労働者にとって受け入れやすい教育的・文化的プロジェクトを作ろうという意図のもとで1890年に設立された自由民衆劇場(Neue Freie Volksbu”hne)に、ランダウアーが生涯にわたって密接に関わったのは、驚くに当たらない(注13)。こういった意図を持った演劇団体として、自由民衆劇場は、ドイツでは最初のものだった。ランダウアーは1891年に加わっている。1892年、この劇団から新自由民衆舞台が分離している。二つの劇団は協力し続け、1914年に共同の劇場を持つようになる。これが現在のベルリン民衆劇場である(注14)。

 新自由民衆劇場の設立総会は1892年10月にベルリンで開催され、そこでランダウアーは、最初の妻となる被服労働者のマルガレーテ(通称グレーテ)ロイシュナーとであう。彼らは同年の年末に結婚した。ランダウアーとロイシュナーの間には二人の娘が生まれている。シャルロッテ・クララは1894年に生まれ、妹のマリアンネは1896年に生まれたが、そのわずか二年後、髄膜炎によってこの世を去っている。

 社会民主党という新しい党名で出発した社会民主主義運動からは、ランダウアーが関わっていた青年派Jungenが除名される。彼らは自分たちの新聞『社会主義者Der Sozialist』を創刊する。1893年2月、ランダウアーはこの新聞の出版グループに加わる。「青年派Jungen」はこのあとすぐに解散するが、それはマルクス主義者とアナーキストとの内部対立によるものであり、ランダウアーは、アナーキスト派のなかで中心的な人物であった。『社会主義者』紙の刊行を引き継いだのはアナーキスト派であり、ランダウアーの紙面に対する影響力が、新聞の形態と内容の双方で、次第に強まっていった。1895年以降、新聞がいくつかのバージョンで刊行される中で、サブタイトルとして「アナーキスト」や「アナーキズム」という言葉が入れられたものが出るようになった。1895年に発表した初期のエッセイ「ドイツのアナーキスト」においてランダウアーは、以下のように宣言している。「アナーキストの唯一の目標は、人間同士の闘争を終わらせ、人類を結びつけることにある。そうなれば一人一人の個人が各自の自然に持っている能力を、何ら障害もなく展開できるようになるからだ」と(注15)。

 1890年代の『社会主義者』紙は、1891年11月から95年1月まで刊行された『社会主義』と、1895年から99年12月まで「新編」として刊行された『社会主義者』の「第一期」と「第二期」に分けられることが多い。1895年には警察の監視と弾圧によって何回かの刊行停止があった。
『社会主義者』1895年1月12日巻頭

 1899年おわりには、『社会主義者』刊行グループは、さらなる内紛と分裂の結果解散してしまった。今回の分裂は、「プロレタリア・アナーキストArbeiteranarchisten」、そして彼らと敵対する、ランダウアーを取り巻く人々との間で1897年に起きた。彼らは労働者階級という領域を超越していたからである。ランダウアーは新聞に対する主導権を握り続けたが、対抗する労働者グループは新しい定期刊行物『新たな生 Neuse Leben』を創刊し、これによって『社会主義者』紙は大きな打撃を受けた。ランダウアーと彼の共同編集者たちは『社会主義者』紙を維持するために2年間努力したが、結局、刊行を停止することになった。

 1909年にランダウアーは『社会主義者』紙を再刊するが、今度は社会主義者連合(Sozialistischer Bund) のためのメディアとしてであった(注17)。この「第三期」『社会主義者』は1915年まで、第一次世界大戦による弾圧の増大と経済的な苦境によって刊行継続が不可能になるときまで発行され続ける。その後もランダウアーは常に『社会主義者』の再刊を考えていた。1918年、彼は極めて具体的な計画をマルティン・ブーバー宛の手紙の中で明らかにしている(注18)。しかし彼が死亡することで、この計画は実現されなかったのである。

  『社会主義者』紙の刊行は、ランダウアーによる極めて重要な活動であった。彼は、一方ではいくつかの書籍を刊行し、パンフレットや様々な新聞紙上に多くの記事を寄稿したが、少なくとも彼の評論、記事、翻訳の半分は、『社会主義者』に掲載されている。それに加えて、彼が1890年代に編集グループのメンバーに与えた影響は極めて重要であり、「第三期」『社会主義者』は基本的には彼がすべてを担っていた。その結果、同紙は、ランダウアーが気に入っていた言葉を使えば「アナーキスト・社会主義者」による刊行物として、いくつかの中断があったとはいえ、ほぼ25年間にわたって刊行されたのである。社会主義者連合を含めて考えても、ランダウアーの政治的なアジテーションにこれほど密接に結びついた活動は存在しない。

 1890年代、ランダウアーはドイツのアナーキストたちの間で中心的な人物として急速にみとめられるようになった。1893年は、ランダウアーはラディカルな活動をしてようやく1年経過していた頃だったが、ドイツ警察の資料では、「ラディカルな革命運動において最も重要なアジテーター」と呼ばれていた(注19)。同年、ランダウアーはチューリヒで開催された第二インターナショナルの大会にアナーキストの代議員として参加しようとした。だが、ほかのアナーキストたちとともに会議から排除された(注20)。会議はドイツの社会民主主義者によって牛耳られていた。ランダウアーは社会民主党の著名な指導者アウグスト・ベーベルによって警察のスパイであると誹謗された(注21)。ベルリンに戻るとランダウアーは、以前『社会主義者』に当局を誹謗する記事を書いた罪で、ほぼ一年間の懲役という判決が言い渡されていた。

 1894年に釈放された後(注22)、ランダウアーは、彼の活動を『社会主義者』紙の刊行グループとともに展開された。同紙は当局から弾圧を受け続け、1895年にはしばしば停刊した。ランダウアーはその活動を理由にドイツの大学から閉め出された。『社会主義者』の2回目の停刊の際、ランダウアーは労働者の消費協同組合「解放Befreiung」の設立に加わった。この組織はメンバーの拡大を経験することが一度もないまま数年後に解散した。しかしながら、ランダウアーは協同組合の思想を指示し続け、やがて彼の社会主義思想における中心的な部分を占めるようになる。同様に、1896年にベルリンで実行された繊維産業労働者によるストライキにランダウアーは関与したことにより、政治的な手段としてのストライキというものが彼に強い印象を与えた。その後、ランダウアーはしばしば「積極的なゼネスト」という言葉で表現することになるが、この場合のストライキは、資本家のための労働を単に拒絶するという活動に、社会主義の創造のための自ら決断するという活動を付け加えるという意味で使っていた(注23)。

  1896年、ランダウアーはまたもや逮捕されるが、今回は講演をしているときであり、間もなく裁判もなく釈放された(注24)。そのあと、再び彼はアナーキストの代表として第二インターナショナルの大会に参加するために、ロンドンに赴いた。今回も、チューリヒの時と同じことが繰り返された。アナーキストたちは議場から閉め出され、彼ら独自の会合を組織することでこれに対抗した。ランダウアーによってこのために準備されていた報告「チューリヒからロンドンまで:ロンドン会議におけるドイツ労働運動に関する報告」は、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、そして英語に翻訳され、彼の著作の中で最も翻訳された文章となった。英語のものは『ドイツにおける社会民主主義者』というタイトルを附されたパンフレットとして1896年にフリーダム・プレスから刊行されている。

  チューリヒと同様に、ランダウアーは同席した多くのアナーキストたちに強い印象を与えた。また、革命に農民が参加する必要性について彼が語った演説には、多くの人びとが強い関心を抱いた(注25)。オランダの研究者ルドルフ・デ・ヨングが記しているように「ランダウアーは会議に提出されたアナーキストによる、あるいはアナーキストに反対する、さらにはそれ以外の人々から提出されたすべての報告に言及した」(注26)。

  1897年におけるランダウアーの活動のうちで『社会主義者』紙以外の領域ではほとんどが、スペイン政府によって訴追され、拷問され、殺害されたスペインのアナーキストたちに対する支援であった(注27)。1897年2月、彼はまたもや侮辱罪で告訴される。今回もある警部補に対するものだった。ランダウアーと彼の数名の同志たちのが、警部補はラディカルな運動の中からスパイを雇っている、という事実を暴露したからである。ランダウアーは無罪となった(注28)。

  1899年、『社会主義者』紙の習慣とともに、ランダウアーはもう一つの侮辱罪で訴追された。今回もある警部補が関わっていた。今回は懲役6ヶ月の判決が下り、ランダウアーは刑に服すことになった。この訴追は、ランダウアーが床屋で酒場の店主アルベルト・ツィーテンを擁護する活動を行ったことが原因であった。ツィーテンは妻を殺害した罪で終身刑を言い渡されたが、ランダウアーはツィーテンが無罪であり、ある警部補によって濡れ衣を着せられたということを公にほのめかした。これが訴追された原因である(注29)。

  この裁判の数ヶ月前に、ランダウアーは詩人で翻訳家のヘートヴィヒ・ラッハマンと恋に落ちた。2人が
Hedwig Lachman, 1865-1918
であったのはベルリンで開かれていた詩の朗読会で会った。ランダウアーはすぐに彼女と同居するようになり、1903年、彼はマルガレーテ・ロイシュナーと離婚し、ラッハマンと再婚した(注30)。彼らの間には、1902年にグドゥラ・ズザンネ、1906年にブリギッテというふたりの娘が生まれた。ブリギッテは、のちにアメリカ映画『卒業』などのディレクターとして知られるマイク・ニコルズの母親である。

  1890年代にはランダウアーはドイツ語圏でひんぱんに講演旅行を行っている。チューリヒとロンドンで開催された第二インターナショナルの会議に参加したことにより、彼は著名なヨーロッパの多くのアナーキストたちと知り合った。ピョートル・クロポトキン、マックス・ネットラウ、ルドルフ・ロッカー、エルリコ・マラテスタ、ルイズ・ミシェル、エリゼ・ルクリュなどは、そういった多くのアナーキストの中のほんの数名でしかない。多数の記事の中で、ランダウアーは「連合共同体主義アナーキズム」(注31)、「実践的創造的行為によるアナーキズム」(注32)、国家を破壊することよりも「国家を離脱する」ということを中心にしたアナーキズム(注33)、といった考えの基礎的なものを描き出していた。ランダウアーのアナーキズムを最も良く要約しているのは、その友人であり同志だったエーリヒ・ミューザームであろう。

「ランダウアーはアナーキストだった。全生涯にわたり彼は自らをアナーキストと名乗った。しかしながら、彼の様々な思想を特殊なアナーキズムの潮流という枠組みからだけでみて、彼を個人主義者、共産主義者、集産主義者、テロリスト、平和主義者などと賞賛し、あるいは誹謗するなど全くばかげている。第一に、ランダウアーは、何らかの教義で凝り固まった人物ではないという点で誰とも類似したところがない。アナーキズムに関わってきた30年間の間で発展し、変化してきたのである。第2に、ランダウアーはアナーキズムというものを政治的もしくは組織的に限定された教義であるなどと見なしたことは一度もない。彼はアナーキズムを思考と行動における秩序だれられた自由の表現としてしか見なしてはいなかったのである」(注34)。

 これ以外の文章で、ミューザームは、ランダウアーの中心的な信念について言及している。すなわち、後年になって、明確な「ポストモダニズム」であるとして賞賛されている、そういうことを予感させる概念である。「彼の革命活動は国家の法律と社会システムに対する闘争にのみ限定されてはいなかった。彼の闘争は、生のあらゆる領域に関わっていたのだ」(注35)。

 ミューザームのこの見方は、ランダウアーによる「社会」革命(彼はこれを賞賛した)と単なる「政治的」革命(彼は共産主義者の政治革命や政治革命をプロパガンダするアナーキストを非難していた)との区別からたしかにそうであった、ということがわかる(注36)。ランダウアーは1890年代おわり頃から、フリードリヒ・ニーチェの『この人をみよ』における政治批判に言及しながら、自らを「反政治家」と呼ぶようになる(注37)。ランダウアーは生涯を通じてこの問題を繰り返し取り上げ続けていた。このような主張は、社会的な事柄から撤退せよといっていたわけではなかったのは明らかであった。そうではなく「形式的」で「専門的」な「国家」の政治に対する批判であった。1911年に発表した評論「誰が始めるのか」でランダウアーは以下のように書いている。「政治権力は社会主義の最大の敵である。そして、社会主義の任務は、そういったあらゆる権力に取って代わるような、社会および公共の秩序を確立することである」と(注38)。

注 工事中

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