原爆投下を喜んだ人々と広島との関係
広島への原爆投下によって「これで戦争が終わる」と喜び、8月11日には「日本が降服した」と闇市情報までが飛び交ったのは、他でもないこの広島に拠点があり、1941年12月8日以降、陸軍第5師団によって侵略された、マレーシア(マライ)、シンガポールの人々でした。
1946年に描かれた劉抗(リュウカン)さん『チョプス』(めこん出版 中原道子訳/解説)に第5師団が何をしたのかが描かれています。
1941年12月8日未明、マレー半島の東側のコタ・バルに上陸した日本陸軍の最終目的地はシンガポールでした。1942年2月3日から開始されたシンガポール攻撃によってイギリス軍は降伏しました。
この戦闘で日本軍が勝利する可能性も考慮したシンガポールの人々が行ったのは港や石油基地、ゴム農園の産業の破壊や通貨の焼却、そして、何よりも東アジア全域に供給できるほどあった酒類を破棄することでした。
すでに中国や朝鮮などで日本軍は、虐殺や女性への強姦などで世界中を震撼させていました。このことを知っていた人々は、シンガポールでもそのような暴力が起きることに恐怖を感じました。
そのために、日本軍に酒類を渡してはならないと考えたのです。マライ、シンガポール侵略は、第25軍司令官山下泰文の指揮によって展開しました。
なお、後に山下は、フィリピンに転戦し、敗走することになりますが、1945年2月、フィリピンにあった山下の邸宅の倉庫には、スコッチウイスキーが山積みされており、下級兵士に持って逃げさせるためにドラム缶2本に流し込んでも、まだ残っていたほどでした。戦争の最中に、これだけの量のスコッチウイスキーをどこから持ってきたのでしょうか。
1941年以降、当然、マライ、シンガポールでも拷問や虐殺、略奪、強姦などのありとあらゆる暴力が吹き荒れました。
マレーシアやシンガポールに「ロームシャ」、「トナリグミ」、「キヲツケ」、「バカヤロ」、そして、「オンナ」という第5師団が持ち込んだ言葉が、そのままマレー語、あるいはインドネシア語として今でも使われています。中原道子さんによれば:
・・・日本では昔も今も当たり前となっているビンタですが、マライやシンガポールの人々にとって、人の顔をひっぱたくというのは粗暴であり無礼極まりない行為であり、こんなことは見たことも聞いたこともない行為だったのです。第5師団の兵士たちが人の顔をひっぱたき、平気でバスから立ちションベンをするくせに「服のボタンがちゃんとはまっていない、行儀作法は重んじられるべし!」と言って鼻を引っ張ってビンタをするというめちゃくちゃな日本人の行儀作法は戦争が終った後も記憶されました。
このような軍隊を送り出した広島に原爆が投下されたのです。
マライ、シンガポールの人々に暴行を加え、虐殺したのだから、その分我慢しろ!と言いたいわけではありません。
しかし、なぜ広島に原爆が投下されなければならなかったのか、また、なぜ、マライ、シンガポールの人々が「これで戦争が終わる」と喜んだのか、ということについては、真摯かつ丁寧に考えなければならないでしょう。
広島平和記念式典の欺瞞性
これに対して、毎年行われている「広島平和祈念式典」は、原爆が広島になぜ投下されなければならなかったのか、という、誰もが持っている疑問については、何も答えようとはしません。
たとえば、「過ちは繰り返しません」の「過ち」とは一体だれがだれに対して行った「過ち」なのか?という疑問です。そして、現憲法の9条が、しばしば言われるように「戦争の反省」から生まれたものであるなら、その「戦争の反省」とは一体だれがだれに対して行う「反省」なのか?という疑問です。
その一方で、ここ数年、そして今年も言われるであろう「戦争体験、被爆体験の風化」が懸念されながらも、現実には「戦争法」が成立し、「核兵器禁止条約」に背を向け、憲法改悪が着々と進んでいるではありませんか。
一体、何に「過ち」を感じて「反省」して、何の「風化」を懸念しているのでしょうか。
1985年、第二次世界大戦終結40年の式典で、当時のドイツ大統領ヴァイツゼッカーは、「 過去に目を閉ざす者は現在に対して盲目になる」という名言を発しました。
では、私たちは、1945年8月6日の原爆投下という過去を、毎年どのように回想しているでしょうか。
毎年8月6日、平和記念式典では、1945年8月6日の広島が想起され、全世界に向けて、「核と人類は共存できない」というメッセージが出され続けています。
そのような「想起」を通じて「ヒロシマ」が「国際平和都市」であるということがアピールされてきました。
それと同時に、私たちは、日本が戦争をしていないし、ある日、突然、原爆が落ちてくるような気配もない、そのような「平和な時代」として現在の日本をみてしまうことを毎年8月6日に繰り返しています。
しかもこの「想起」は、明治以降、日清、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、中国、アジア太平洋各地に出兵して行った1945年8月5日までの過去は想起しない、という身勝手な「想起」なのです。
このような「想起」をすればするだけ、わたしたちは「現在」に対して「盲目」になってしまうのではないでしょうか。
戦後のヒロシマが「平和都市」として全世界に核の恐ろしさを訴え続けた一方で、同時にそのヒロシマは、アメリカのABCC[原爆傷害調査委員会:Atomic Bomb Casualty Commissionの略称]が被爆者のデータをせっせと集めてはアメリカ本国に送るという米ソ冷戦構造の最前線でもあった、ということに、どれだけの人々が問題意識を持ってきたのでしょうか。
そもそも、あの戦争屋の安倍首相が、「平和記念式典」に出席して、全世界に向けて「平和の尊さ」を高らかに宣言すること自体がすでに問題です。
こうやってみてくると、「平和」とは「戦争がない」ということではなく、「一見するとあたかも平和な時代に見える今現在」「現に今ここにあるこの日常の平和な暮らし」の中に「戦争」がある、という状態のことをいっているだけだ、ということがわかってくるのです。
こういったことに疑問を持たないばかりか、8時15分に黙祷をしたりダイインをしたりすることは、「死者の前では居住まいや襟を正すべき」という場合の「死者」であるところの原爆犠牲者をタテにしたごまかし以外の何ものでもありません。
「平和」を祈ってやっているようなそういった行為は、実は、「平和」を祈っていると宣言しながら戦争を推進している、あの、戦争屋の安倍による欺瞞と何ら変わるところはないのです。
どうやって死者を追悼すればよいのか
広島への原爆投下によって14万人が死んだわけですが、ここで問われなければならないことは、亡くなった一人一人にはきちんと顔と名前があったにも関わらず、それを単に「原爆犠牲者14万人」として一塊の数として束ねていることです。わたしたちはこのことにあまりにも無自覚になっているのではないでしょうか。
原爆で死んだのは日本人だけではありません。日本に強制連行された中国人、朝鮮人もいましたし、アメリカ軍の捕虜もいました。その死は「原爆犠牲者14万人」として黙祷できるものですか。原爆で死んでしまったら、原爆を落とした側も落とされた側も同列にしていいものですか。
こういった問題を忘れて、8時15分になればダイインや黙祷をするというのは、死者に対する冒涜ではないでしょうか。
原爆犠牲者14万人の一人一人の顔を思い浮かべることも、名前を呼ぶことも、死んだ子の歳を数えることもできない、何よりも原爆犠牲者と今生きている自分との間にある断絶を、心底思い知らされることを抜きにして、一体どのような原爆犠牲者に対する向き合い方があると言うのでしょうか。
紀貫之は、我が子の死に対する自身の断絶感を『土佐日記』に書きました。しかし、死んだ子がどうやっても生き返ってくることはない以上、忘れな草も忘れ貝も、そして、あけても暮れても書き綴る日記さえも、何のなぐさめにならないばかりか、ごまかしにしかならないと思い知りました。
死者に向き合うとは、こういうことではないでしょうか。
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