2016年5月20日金曜日

1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死 1918-1919: Revolution and Landauer’s Death


Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1918-1919: Revolution and Landauer’s Death: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.37-41.
Translated by Hikaru Tanaka

「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

G.クーン、S.ヴォルフ「1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死」『グスタフ・ランダウアー 革命とそれ以外の著作』PM Press, 2011, 37-41頁

 ドイツが第一次世界大戦で破滅的な敗北を喫することが確実になると、国民は大混乱に陥った。1918年10月、11月11日に休戦条約が結ばれ、戦争が公式に終了する数週間前に、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍兵士たちが反抗を始め、1918年から19年まで続くドイツ革命を開始した(11月革命としても知られている)。兵士と労働者は国内のあらゆるところで蜂起し、11月9日には社会民主党が、大衆からの信頼を失わないための試みとして、しかし、指導者たちの意志に反して、ドイツ共和国成立を宣言する。これがドイツ帝国の終結をもたらす。しかしながら、ラディカルな人びとは組織的抵抗を続け、ブルジョワの議会主義ではなく、直接民主主義と自決という原則に依拠した社会主義共和国を要求した。すべての権力を評議会へというスローガンはどこでも叫ばれるようになった。社会民主党はすぐに反抗を弾圧するあらゆる手段を講じた。その中には義勇軍(フライコール)という反動的軍事力も含まれていた(注126)。この義勇軍は、あらゆる反抗による脅威を打破することに大いに役だった。粉砕されたのは、1919年1月に起きたベルリンのスパルタクス団の蜂起も含まれる。義勇兵たちはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクというスパルタクス団の中でも最も著名な2人を虐殺した。月末には、2ヶ月前に評議会共和国樹立を宣言したブレーメンの評議会共和国も軍事力で粉砕された。

 バイエルンでは1918年11月7日に、後のドイツ独立社会民主党(USPD)の指導者となるクルト・アイスナーにより共和国の樹立が宣言された。USPDは戦争継続に反対して社会民主党から分裂したメンバーによって1917年4月に創設された政党であった。これがいわゆるバイエルン革命のはじまりである(注127)。

 アイスナーはグスタフ・ランダウアーの友人の一人であり、ランダウアーはミュンヒェン革命の支援のためにアイスナーから招聘された。11月14日付けの手紙でアイスナーはランダウアーに次のように書いている。「君に希望することは演説家として人びとの魂の変容を促進することだ」と(注128)。ランダウアーは、デュッセルドルフの劇場から演劇の指導者として招聘を受けたところであり、すでに劇場の雑誌『仮面Masken』(注129)の臨時編集者として働いてもいた。

 革命の展開についてランダウアーが興奮したのは当然のことである。革命は、彼にとって第一次世界大戦の恐怖のなかで唯一の希望であった。マルガレーテ・ズスマンへの1917年3月24日付けの手紙で彼は次のように書いている。「かつてドイツを通り過ぎてしまった革命が、今回はいくつかの場所で起きている。戦争は第一段階なのだろうか。外的な力が、これまでドイツ人だけではできなかったことをドイツ人にやらせているのではないだろうか」(注130)。

 ミュンヒェンでランダウアーは、革命の手段であり革命を防衛するためのいくつかの評議会のメンバーになった(注131)。彼は、すでに1909年にミュンヒェンに移住したミューザームと再会した(注132)。それ以外にも多くのアナーキストとラディカルな人びとが希望を持ってバイエルンに集まってきた。その中にはエルンスト・トラ-、オットー・ノイハウス、ジルヴィオ・ゲゼル、B.トラーヴェンとしてよく知られているレット・マルートなどがいた。

 独立社会民主党が共和国最初の選挙で敗北した1919年1月12日に革命の展開は大きな転換点を迎えた。数週間後の2月21日、アイスナーは、首相を辞任する手続をするために向かっていた途中で右派の学生に殺害された。ランダウアーは彼の葬儀でアイスナーを賞賛する言葉を述べている(注133)。

 アイスナーが死亡した後に、社会民主党の「多数派」が、新政府を保守派の支持のもとで組織した。ミュンヒェンにおける野党は激高し、1919年4月7日、独立社会民主党とアナーキストによってバイエルン評議会共和国樹立を宣言した。共産党はこの独立宣言の時期は適当ではないと考えていた。ミューザームによるバイエルン革命に関する私的報告『アイスナーからレヴィーネまで』によれば、このことが最初から評議会共和国に敗北の要因を作り出した(注135)。しかしこの宣言は明らかにランダウアーの主張に基づくものであり、共産党の分離があったにもかかわらず、発表されたものである(注136)。ミューザームによれば、ミュンヒェン革命労働者評議会の会合のあと、4月4日の夜、ミューザームとランダウアーは酒場に入って評議会共和国の宣言文の草案を起草したという(注137)。

 なぜランダウアーは単なる「政治的」革命に対してあれほど長い間懐疑的であったにもかかわらず、バイエルンにおいて評議会共和国を支持したのかは不明確なままである。最も可能性が高いのは、自律的な社会主義という自分の構想を広範な規模で実現できる機会がついに到来したと確信した、ということである。ランダウアーは文化・教育人民代議員として指名された。

 一週間後、4月13日、社会民主党政権はバイエルン北部のバンベルクに逃れ、ミュンヒェンに軍を派遣した。共産党赤軍が評議会共和国を防衛するために攻撃を撃退した。ミュンヒェンから反革命家たちが追い出される前に、彼らは夜の会合に出席していたミューザームを含む重要人物を逮捕した(注138)。逮捕された人びとはバイエルン北部に連行された。グスタフ・ランダウアーは危うく逮捕を逃れた。というのも彼はその会合を早めに退出したからである。このときには誰も知らなかったが、これが彼に死刑判決を下す理由となっていた(注139)。

 
1919年ミュンヘン市内のランダウアー(右から二人目)
共産主義者は評議会共和国を統制することになった(歴史家たちはこれを「第二次」バイエルン評議会共和国の開始としている)。ランダウアーは、この一週間、執務室で学校と劇場の遠大な改革の輪郭を描く作業を始めている(注141)。共産主義者の左派の人びとは彼の役割について疑いの目で見ていた。4月16日、彼は、最後の、発送されなかった娘宛の手紙の中で次のように書いている。「お父さんは、ここでは元気にやっています。でも自分が役に立たないように感じ始めています」(注142)。


 2週間後、社会民主党連邦政府はベルリンから軍隊を派遣した。この軍隊は右翼の義勇軍部隊とミュンヒェン郊外で合流した。彼らはともにベルリンのスパルタクスとブレーメンの評議会共和国に攻撃を仕掛けてきた軍隊である。赤軍による必死の抵抗もむなしく、バイエルン評議会共和国は5月1日に敗北した。その代表的なメンバーは、ランダウアーも含め拘禁された。

 ランダウアーは翌日兵士たちによって虐殺される。ルドルフ・ロッカーは、この出来事をいかのように記述している。

「ランダウアーは、第1評議会共和国にその優れて豊富な知識と能力を提供した。共和国が崩壊した後、彼は良き友人だったクルト・アイスナーの未亡人とともに住んでいた。彼が逮捕されたのは5月1日の午後、彼女の家であった。親しい友人たちは数日前に彼に対してにげるように強く求めた。その頃はまだ比較的簡単だったからである。しかしランダウアーはとどまることを決意した。他の囚人たちとともに彼はトラックに乗せられてシュタルンベルクの刑務所に送られた。一日後、そこから他の数名とともに、シュターデルハイムに移送された(注143)。その途中で、人間的な精神を失った兵士どもは、上官からの命令を受け、ランダウアーを身の毛もよだつようなやりかたで虐待した。そのような上官の人であるフォン・ガーゲルン男爵は(注144)、鞭でランダウアーの頭を殴りつけた。これが無防備な犠牲者を殺害するサインであった。ある目撃者が後に語ったところでは、ランダウアーは最後の力を振り絞って殺人者に叫んだという。「やってみろ。人間らしく」。彼は文字通りけり殺された。まだ虫の息であることがわかると、無慈悲な拷問者たちの一人が彼の頭に銃弾を放った。これがランダウアーという、ドイツにおける最大の思想家にして優れた人物の一人の、恐ろしい最後であった」(注145)。

 5月17日、ランダウアーの長女のシャルロッテがやっとミュンヒェンへの旅行を許可された。彼女のねばり強い活動で、ランダウアーの遺体(集団墓地の墓の中で腐敗していた)と没収された彼の原稿は家族に返却された。ランダウアーの遺体は荼毘に付された。遺骨は1923年まで地下納骨堂に安置されていた。その年、主にバイエルンのアナルコサンディカリストたちの努力の結果、ミュンヒェンのヴァルト墓地に墓石が建立された。5月1日、ランダウアーの遺骨はここに移し替えられた。1925年、ドイツ自由労働者連合の募金活動を通じて、ランダウアーの記念碑が墓石に付け加えられ建立された。しかし計画されていた祈念式典は警察によって禁止された。

 1933年、ナチスはランダウアーの墓を祈念碑も含めて破壊した。その遺骨はミュンヒェンのユダヤ人共同体に送られ、第二次世界大戦終結まで、新ユダヤ人墓地の壁に無名の状態で安置された。1946年、ランダウアーの娘グドゥラがランダウアーの墓の再建を主導した。この墓は今日、新ユダヤ人墓地でクルト・アイスナーの墓地と同じ場所にある。墓石は1925年の記念碑の残部を利用したものである。
ランダウアーとアイスナーの墓


注 工事中


「1870~1892年 出生から青年期まで」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

「ランダウアーの死」Ernst Toller, Ein Jugend in Deutschland, Rowolt, 1978, p.142より

「ランダウアーだ、ランダウアーだ」と怒鳴りながら、バイエルン兵とヴュルテンベルク兵からなる一隊がグスタフ・ランダウアーを連れてきました。尋問室の前の廊下で将校がランダウアーの顔を殴りつけました。
  その間、兵隊たちはどなっていました。「扇動家消え失せろ、殴り殺しちまえ」。ランダウアーは銃床でこづかれて、調理場の前を通って中庭まで歩かされました。
 彼は兵隊たちに言いました。「私は扇動家ではない。君たち自身は自分がどんなに扇動されているかわかっているのか」と。中庭でランダウアーと兵隊たちに出くわしたガーゲルン男爵は、棍棒でランダウアーを殴りつけたので、彼は崩れ落ち、倒れましたが、再び起きあがり、話し始めようとしました。
 軍曹が銃を撃ち、一弾が彼の頭に命中しました。まだ呼吸していました。すると軍曹は言いました。
ミュンヒェン市内Amalienstrase 52にある記念プレート
「下種野郎ほどしぶといものだ。まだ生きていやがる」。
 親衛連隊の軍曹が怒鳴りました。「やつの外套をはぎとれ」。

 外套が脱がされました。ランダウアーはまだ息がありました。
 連中が彼を腹ばいの格好にしました。「下がれ、もう一発くれてやる」とどなって、軍曹はランダウアーの背中を撃ちました。体がまだぴくぴく動いているところを、軍曹は足で踏みつけて息の根を止めました。それからランダウアーは着ているものを全部はぎ取られ、死体は洗濯場へ放り込まれました。

1914年から1918年まで: 第一次世界大戦中のランダウアー 1914-1918: War by G. Kuhn, S. Wolf

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1914-1918: War: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.36-37.
Translated by Hikaru Tanaka

「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」
「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」

1914年から1918年まで: 第一次世界大戦中のランダウアー

 社会主義連合設立と『社会主義者』紙を再刊した当初の高揚感のあと、すぐに軍事紛争の危険性がますます高まっていくと、運動には戦争の長く暗い影が覆い被さるようになった。戦争の阻止がランダウアーの主要な活動となった(注115)。1911年9月初旬、ベルリンにおいてランダウアーは訪れつつある漠然とした恐怖について警告している。ドイツ労働者に対しては、戦争が不可能になるように「積極的なゼネスト」を採用するように呼びかけている。この講演は「自由な労働日について」というタイトルで刊行され、英訳は本書に「自由な労働者評議会」というタイトルで収録されている。

 平和主義者としてのランダウアーの遺産については議論が分かれている(注116)。しかし、ヘートヴィヒ・ラッハマンとともに彼は当初から戦争に反対していた数少ないドイツ人だった。多くの左翼とアナーキストたちでさえ戦争を、いかに難解な革命概念を彼らが抱いていたかに関わりなく、自分たちの政治的な評価や支持を獲得するための機会として歓迎した。ランダウアーもラッハマンもこれには驚かされた。あいまいなナショナリズムを主張する者さえいた。社会民主党はほとんど完全に戦争支持で一致団結していた。その中には「ラディカル」な派閥さえ含まれていた。その後スパルタクス団を結成して1919年にスパルタクス団による蜂起を実行したカール・リープクネヒトは、著名人の中での例外であった。ジークベルト・ヴォルフは、1914年に戦争が勃発したときに、「ヘートヴィート・ラッハマンとグスタフ・ランダウアーは、自分たちの反軍国主義的な立場を友人や知人に対して理解してもらうことがほとんど不可能な状態であった」(注117)。ランダウアーにとって、戦争を仕掛けているのは常にドイツである(注118)。1913年、彼は『社会主義者』紙に掲載された評論を、「ドイツ人は恥を知るべきだ」という印象深い言葉で締めくくっている(注119)。

 ランダウアーは失望と孤独のなかにいた。しかしこれによって彼は、反軍国主義のアジテーションを終わらせることはなく、倦むことなく活動を続けた。この時期に刊行された反戦と反ナショナリズムに関して発表された文章は、向こう見ずな野蛮と虐殺に対する緊急の警告であり、人類の分断ではない、団結への情熱的な訴えであった(注129)。

 1913年、戦争勃発の危険性がますます高まったときに、社会主義者連合は解散した。あらゆる危険性に抵抗しながら、新聞の植字工であるマックス・ミュラーが徴兵に取られた1915年までランダウアーは『社会主義者』を継続した。『社会主義者』の最後の号は3月15日刊行されている。ランダウアー自身は1915年5月に徴兵検査があったが、不適格とされた。

 ランダウアーは戦争の間ずっと反軍国主義者の友人たちとコンタクトをとり続けた。1914年彼はベルリンのフォルテ・クライスにおいて活動するようになった(組織の名前は、会議をする予定していたトスカナ州にあるフォルテ・デイ・マルミという町の名前から取られている)。彼らはマルティン・ブーバーを含むヨーロッパの知識人による小グループであり国境を超えた相互理解を目指す運動を展開していた。しかしながら、戦争開始時に数名のメンバーが愛国主義的な感情を吐露すると、ランダウアーはすぐに組織から脱退した。フォルテ・クライスはそのあとすぐに解散した(注121)。

 1915年、ランダウアーは平和主義を支持するドイツ人芸術家たちと文筆家たちとスイスで会っている。このときスイスには、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、リヒャルト、ヒュルゼンベック、そしてそれ以外にも著名なダダイストや表現主義的平和主義者が移り住み、あるいは、亡命していたからである。自分と同じ考えを持ったこれらの人びととともにいることはランダウアーにとって慰めになった。ベルリンに戻ると彼は「出発Aufbruch」という若いユダヤ人学生エルンスト・ヨエル(注122)を中心とするサークルに加わる。そして定期刊行物『出発』にいくつかの評論文を寄稿した。ランダウアーは「新しい祖国連合」という組織でも活動した。「新しい祖国連合」は、ドイツにおいて最も影響力のある平和主義者の組織であり、初期のメンバーには、アルベルト・アインシュタイン(注123)、クルト・アイスナーがいた。その数年後、アイスナーはランダウアーに対して、ミュンヒェンに来るように要請することになる(注124)。その間、『社会主義への呼びかけ』は発禁処分を受ける。

 1916年、ラッハマンとランダウアーは、もう一つの平和主義組織である国際法センター(Zentralstell Vo"lkerrecht)の設立運動に加わる(注125)。ランダウアーはこの組織のベルリン支部の議長となる。1917年、ランダウアーとラッハマンはラッハマンの家族の住むクルムバッハに転居することを決意する。クルムバッハはバイエルンのシュヴァーベン地方に位置する小都市である。

 1918年2月、戦争がいまだ継続しているときに、ヘルトヴィート・ラッハマンは肺炎によって死亡する。誰も予期しなかった死だった。ランダウアーが悲しみから立ち直るために数ヶ月を要した。彼は『ヘルトヴィート・ラッハマンはどのようにして死を迎えたのか』というパンフレットを刊行した。この冊子は、幾人かの友人にだけ送られている。


注 工事中
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」
「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」

1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望 1908-1914: Socialist Hopes: ‘Introduction of Gustav Landauer

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1908-1914: Socialist Hopes: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.31-35.
Translated by Hikaru Tanaka 

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1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望 

 1907年の『革命』の刊行は、ランダウアーが政治的なアジテーションと運動に復帰するきっかけとなった。同年、彼は「社会主義の30の命題」(注73)を発表している。これは数年後に『社会主義への呼びかけ』のなかで形作る主張の輪郭を描いている。

 1908年5月、ランダウアーは社会主義連合 Sozialistischer Bundの設立を主導した(注74)。連合の目標は「社会主義の実現を真剣に考えるあらゆる人びとを結びつける」(注75)というものだった。「社会主義者連合の解説」という文書においてランダウアーは、「私はどうすれば社会主義連合のメンバーになれるのですか」という質問に対して「自分の周囲にいて同じ考えを持っている人びとを探して下さい。そして、その人たちと一つのグループを作ってください」と回答している(注76)。

 社会主義連合の中心的な思想は、知識人による活動、職人による活動、芸術家による活動を結合させ、小規模で独立した様々な組織と様々な共同体(協同組合、居住地など)を創設する、というものであった。これらが新しい社会主義の文化と社会における基本的な細胞になる、というのが連合の考えであった。社会主義連合は中心的指導者や指導部を作らないで、ドイツとスイスで結成された自律的な様々なグループから構成されていた組織だった(注77)。オーストリアでは、ピエール・ラミューのような著名なアナーキストからの支援を受けることができず、ランダウアー本人も、オーストリアへの入国を禁じられていた(注78)。マルティン・ブーバーとエーリヒ・ミューザームは連合の初期のメンバーであった。その最盛期には加入者は約800名を数えた。

 連合を支援するために1909年、ランダウアーは『社会主義者』紙を再刊したが、今回は「社会主義者連合の機関紙」という副題がつけられていた。同紙の刊行は2週間に一度であり、ランダウアーは基本的に一人で編集に従事した。ただし再刊から数年間は、スイスのサンディカリストであるマルガレーテ・ファース=ハルデッガーから強力な援助を受けていた(注79)。

 1908年の夏、ランダウアーはファース=ハルデッガー[1882-1963]と出会い恋に落ちた。ヘルトヴィート・ラッハ
Margarethe Faas-Hardegger
マンとのとじられた生活のことがあったので、ランダウアーはファース=ハルデッガーのことを「世界への架け橋」と呼んだ(注80)。ランダウアーは共に生活し続けた自分の家族とのロマンティックなつながりを追及し、家族はこれを受け入れた(注81)。ファース=ハルデッガーとランダウアーとの関係は、核家族に疑問を呈し、共同体による育児に関する彼女の論説を(注82)、ランダウアーが批判した1909年4月に、極めて冷却することになった。1913年、ふたりの関係は完全に終結した。

 こういった情熱的な関係を除けば、ファース=ハルデッガーへのランダウアーの手紙は、高慢な態度によって特徴付けられていた。ランダウアーは、自分から関わっていく一方で、人との協同作業をすることが難しい人物であるとしばしば見なされている。1909年6月、ランダウアーはファース=ファルデッガーが彼から繰り返し批判されていることに動転しているという手紙に対して次のように答えている。「あなたは私を残酷なまでに厳しいというが、あなたは私に対して同じことを十分やってきたのです」と(注84)。

 ランダウアーが参加した共同の行動を除けば、社会主義連合や「第3期」『社会主義者』紙の刊行のような活動のように、自分がほぼ統制権を独占している活動において、ランダウアーは極めて優れた役割を演じた。1916年にミューザームに当てて出された手紙の中で、ランダウアーは次のように認めている。「私には、他人の考えと計画を受け入れて実行することが常に難しいのです」と(注85)。このような彼の性格から考えれば、ランダウアーが共同体や居住地の革命的な重要性を常に主張していたにもかかわらず、それえらの設立に決して加わらなかった、ということが説明できるかもしれない。ミューザームはこのような明確な矛盾について次のように要約している。「決然として恐れを知らない闘士で、日常的な関係ではやさしく柔和で、寛大である一方で、重要な問題に関して尊大な態度を示すところでは、不寛容で厳しく頑固である、というようにランダウアーを見ている人しか、彼が本当にどういう人物だったのか、ということを理解できない」(注86)。

 しかし一般的には、ランダウアーは礼儀正しく平和的で熟慮する人として描かれる。アグスティン・ズーシーは次のように描いている。「グスタフ・ランダウアーの人格は、彼の本や評論集を読んでから思い描いたイメージと一致していた。彼の長くやせた姿と細面の顔はキリストのような髭に覆われ、精神を感じさせる額、洞察力のあるまなざしは遠くにあるユートピアを展望していた。こういう彼の容貌は極めて特徴的なものであり彼を見た者には強い印象を残した」(注87)。

 ランダウアーの人格や友人との関係、彼の愛人に関してより深く語っている資料は驚くほど少ない。彼の手紙はそういった彼の人格の片鱗を見せているが、さらなる検討の余地があり、多くの手紙は散逸してしまった。ブーバーがランダウアーの基本的な手紙を集め出したのは1899年であり(注88)、ランダウアーの私的なメモや日記における記述に関しては、今後の専門的な分類や分析が待たれるところである。こういったランダウアーの文書のほとんどは、アムステルダムの国際社会主義研究所に保管され、それよりもずっと少ない分量の資料はエルサレムにあるユダヤ人国立大学図書館に保管されている(注89)。

 ランダウアーはこの時期に「社会主義」について検討し始めたが、それは、アナーキズムの理想を放棄したということではない。ヴァルター・フェーンダースとハンスゲオルク・シュミット=ベルクマンは以下のように指摘している。「社会主義とアナーキズムはランダウアーの言語の中では道義である」と(注90)。1908年9月にランダウアーからファース=ハルデッガーに宛てた手紙の中でこのことが確認できる。この手紙の中では『社会主義者』の編集者グループで提案された呼び方について述べられていた。「次に挙げるどれでも好きな呼び名を選んだらどうか。「社会主義・アナーキスト(これが私が一番好きな表現である)、「社会主義者」、「アナーキスト」、あるいはもっと簡単に「同志」というのもある」(注91)。(ファース=ハルデッガーは「革命サークル」を選んだ(これはすぐに新聞の見出しからなくなった)。ランダウアーはアナーキズムと社会主義を「社会主義連合の12命題」の第二版の中で最も明確に述べている。「アナーキーとは社会主義の別名である。アナーキーは、残念ながら、否定的な意味あいがあることと、しばしば誤解されることで、使い勝手が悪い言葉だ」(注92)。

 ランダウアーが活動を再開したとたんに、昔から敵対していたドイツアナーキスト連合(AFD)との衝突がまたもや始まった。AFDは1903年に1890年代の『社会主義者』紙刊行グループの中の「プロレタリアアナーキスト」派によって創設されている。このグループは、階級闘争が革命の重要な手段であるといまだに考えていた。これに対して、革命的主体としての労働者の役割に対するランダウアーの懐疑は、これまでの数年の間にますます強まっていくばかりであった。ランダウアーが、AFDの機関紙『自由な労働者』に『社会主義者』の広告が掲載されていたにもかかわらず、『自由な労働者』の広告を『社会主義者』に掲載することを拒否したときに対立は頂点に達した(注93)。

 プロレタリアートに関するランダウアーの評価は混乱しているように見える。『社会主義への呼びかけ』の中で彼は「今日存在する社会グループのほうが、工業プロレタリアートなどよりも、革命が起きたときに何をすべきかをずっとよくわかっている」と記載しているのはよく知られているところである(注94)。しかしながら、この記述が、ドイツの労働者階級の多くが陥っている無気力に対するいらだちの表現である一方で、ランダウアーはその重要な評論文で(「自由な労働者評議会」として本書で収録されている)「自由な労働時間」という文章の中では次のように述べているのである。「活発な社会的で文化的な発展に関していえば、我々は他の社会階級に比べて労働者階級に期待することはない。しかしながら怒り、拒絶、感情、力強さという点からみれば、異なる評価をすることになる。こういった特徴は、効果的な抵抗のために必須条件だからである」(注95)。

 ランダウアーのプロレタリアートに対する批判は常に、労働者たちが特権化された革命の前衛であるという抽象的で理想化された考え方に焦点を当てていた。しかしそのような批判は、労働者の窮状について深刻に受けとめていなかった、ということではない。労働者による闘争に関与することをランダウアーはやめはしなかったし、効果的な民衆蜂起において労働者が重要な役割を果たすということをランダウアーが否定していた、ということではない。ランダウアーは労働現場での運動を支持していた。それはそういった運動がマルクス主義、アナーキスト、あるいはその例外の狭量な教義に結びついていない、と感じていれば、そうしていたのである。一例を挙げれば、1913年に、彼はオーストリアのアナーキストのヨーゼフ。ポイケルトの『あるプロレタリアの革命的労働運動についての回想録』を刊行するために社会主義者連合の資金を使い、情熱的な序文を書いている、という事実がある(注96)。

 「プロレタリアアナーキスト」とランダウアーの違いは、「アナーキスト社会主義」の中心的な考えにある。ランダウアーによれば、プロレタリアも含め、いかなる人も単なる政治と経済状況の「外的」な変容だけで解放されはしない、彼らは「内的」変容と新しい共同生活の創造のための活動を通じて自己を解放するのである。

 ランダウアーは、『社会主義者』で使われる言葉がプロレタリアの読者向けではない、と常に非難された。1909年にファース=ハルデッガーに宛てた手紙の中でランダウアーは次のように書いている。「『社会主義者』に掲載された記事は労働者に全くわからないというわけではありません。目の前にあるものをみるために努力が必要だということを労働者が理解しなければいけないというそれだけのことです」(注97)。マックス・ネットラウは、そのような要求は社会主義者連合を拡大する上ではランダウアーにとって利益になるとは限らないと考え、次のように述べていた。「投票や募金以上のことを要求せずに大衆を綱領の周囲に集めるのは簡単であるが、それが不可能である場合、個人として本当に独立した行動を遂行していくことは、極めて困難である」(注98)。

 ランダウアーは、あまねく敵意に満ちた左翼的な環境の中で厳格でありなおかつ孤独な声を代表していたことが良くあった。このことはたしかに真実である。しかしながら、いくつかのイメージは誇張されているようである。とくに1901年から1906年まで、そして、妥協のない反軍国主義を堅持した第一次世界大戦中は、ランダウアーが相対的に孤立していた時期であったのはたしかである(注99)。同時に彼は決して尊敬と支援を失わなかったのまた事実である。チューリヒとロンドンにはアナーキストの代議員として旅行をし、マルティン・ブーバーから『革命』執筆依頼をされ、そしてクルト・アイスナーが彼を1918年にミュンヒェンに招聘した。このように、ランダウアーを理解し同じ考え方を共有した人びとはいたのである。

 皮肉なことではあるが、実際にはランダウアーに魅了されていたのは、対立する「プロレタリア・アナーキスト」たちではなく、労働者階級であった。ランダウアーの思想はリバタリアンの知識人に訴えるものがあった、という指摘が良くあった。しかしながら、バイエルン革命の期間、ランダウアーの思想について労働者たちの間でかなりの支持があった。ウルリヒ・リンゼが指摘するように、バイエルンで「ブルジョワの背景を持つランダウアーとミューザームという文字通りの友人であった2人は、アナーキストの行動という可能性を作り出したが、プロレタリアアナーキストは孤立していたのは明らかであり自己中心的なセクトでしかなく、いかなる運動に加わることもできず、そのことすら望んでいなかったのである」(注100)。ランダウアーの死後、彼の遺産をドイツで引き継いだのは、アナルコサンディカリストのドイツ自由労働者連合であり、ミュンヒェンのアナルコサンディカリスト協会が提案することで1925年に彼の墓所に記念碑を建設することになったのである(注101)。

 ランダウアーは自らの社会主義思想について最も分かりやすいパンフレットとして1911年に『社会主義への呼びかけ』を刊行した(注102)。同書の英訳『社会主義のためにFor Socialism』は、はミヒャエル・パレントによる英訳でテロス・プレスから刊行されている。ランダウアーの社会主義は以下の中心的原則を基礎にしている。a)内的再生と「共同の精神」との同一、b)直接で即時の行動。ミューザームは、この点について、「「はじまり」「実現」「行動」という言葉は、それ以外の学術適用後よりも革命家ランダウアーにとってずっと重要であった」(注103)と要約している。ディエゴ・アボバド・デ・サンティリヤンにいわせれば、ランダウアーの要求は「あらゆる瞬間における下からの革命」であった(注104)。c)協同組合や居住地その他の形態による共同組織(注105)。

 おそらくラディカルな思想史の文脈の中でみれば、ランダウアーの思想で最も際立っているのは、そして最も核心的な部分は、国家と資本を「ひっくり返す」のではなく「離脱する」ことで克服しなければならない、という彼の信念である(注106)。このことは、社会主義とは行動である、というランダウアーの考えを強調することになる。1909年、彼は次のように書いている。「社会主義は求めることや待つこととは全く関係ない。社会主義は行うことを意味するのだ」(注107)。
 
 ランダウアーは、自らの必要と能力に従って社会主義共同体を創造する人びとの能力に信頼を置いていた。「アナーキズム共産主義に関する一通の手紙」という論説でランダウアー発議のように述べている。「社会主義連合に集う私たち社会主義者と共産主義者との違いは、未来社会について異なるモデルを描いている点にはない。両者の違いは、我々がいかなるモデルも持っていないという点にある。私たちは未来の開放性を重視し、未来を決めつけることを拒否するのだ。私たちが望むのは社会主義の実現であり、そのためにできることは、その実現のために、今、行動することである」(注108)。
 
 研究者たちは、ランダウアーのこのような社会主義を表現するために様々な言葉を使ってきた。幾人かの研究者たちは、彼の社会的な展望の基盤に焦点を当てて「協同組合社会主義 Genossenschafts-Sozialismus」と呼んだ(注109)。あるいは、「自治社会主義 Gemeindesozialismus」、「農業社会主義」(注111)などと呼ぶ人びともいる。(『社会主義への呼びかけ』の中でランダウアーは「社会主義への闘争は土地に向けた闘争である。社会問題は農業問題である」と述べている(注112))。それ以外の研究者の中には、「実現の社会主義 Verwirklichungssozialismus」という言葉に結びついたランダウアーの即時性や日常的行動の強調に焦点を当てている(注113)。さらに、「マルクス主義の「科学的」社会主義に対抗しているランダウアーの社会主義にみられる「ユートピア的」な性格を強調している者もいる。しかし、もっともよくある評価は、「文化的社会主義 Kultursozialismus」である。『社会主義への呼びかけ』の中で、「社会主義は文化運動である。美しさ、偉大さ、豊かさを求めた民衆の戦いである」というランダウアーの言葉が良く取り上げられている(注114)。

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1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々 ‘1901-1908: Retreat and Reflection' of Gustav Landauer by G. Kuhn & S. Wolf

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1901-1908: Retreat and Reflection: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.26-30.
Translated by Hikaru Tanaka


「1892-1901:ランダウアーの初期のアナーキズム」へ 

1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々

 ルース・リンク・ザーリンガーは、1900年から1919年の時期を「ランダウアーの生涯における成熟期」と呼んでいる。成熟とはなにかという問題はここで問わないとしても、たしかに19世紀から20世紀に転換する時期に、ランダウアーは重要な転換を経験している。この時期に、彼はアナーキストと社会主義者という自らの考え方を放棄しなかったが、他方で、これらの考え方を新たな哲学に基づいて変えていった。階級に関する過度に単純化された分析、教条主義、政治的手段としての暴力を軽い気持ちで受け入れる人びとに対する繰り返し示される不満には、そういった彼の思考の新たな傾向を見て取れる。第2に、この時期にランダウアーは、社会の変化が個人の「内的」な変容なしには達成できない、と確信するようになったということがわかる。

 彼の周囲のアナーキストのほとんどは、彼のそういった見方を拒否していた。これが、次第にランダウアーの孤独感を強めていった。ルドルフ・ロッカーによる以下の記述は、当時のドイツのアナーキストたちの中でランダウアーがどのような位置にいたかを明らかにしている。

「グスタフ・ランダウアーは疑いもなく、ドイツにおけるあらゆるリバータリアンな社会主義者の中でも最大の思想家であった。ある意味では、それこそが、ランダウアーが生き活動したドイツにおけるあらゆる場所で彼を悩ましたことでもあった。当時のドイツにおけるアナーキストの大多数は彼をほとんど理解していなかった。多くの人びとは彼がいかに優れた人物であるかがわかっていなかった。ランダウアーは、彼に最も親密であったはずの人々の間でさえ孤立していたのである」(注40)。

 国際的にもランダウアーは、ルドルフ・デ・ヨングの言葉で表現すれば「アナーキストたちの世界での孤立」をしばしば味わっていた(注41)。1890年代にランダウアーは何度か国際的な社会主義者の会議に出席するために旅行をしているが、1901年以降は、国際的で大規模なアナーキストの会合を避けるようになった。彼は1900年にパリで開催された国際革命的労働者会議(後に国際反議会会議として知られる)にも1907年にアムステルダムで開催された国際アナーキスト会議にも出席していない。1910年になっても、その頃までにはドイツにおいて彼の活動は再開されていたが、それにもかかわらずランダウアーは、「すべての国におけるアナーキズム運動は極めて愚鈍だ」と述べている(注42)。

 ランダウアーの隠棲と、自省を求める態度は「個人主義」への転換であるという理解があるのなら、それは誤解である。むしろ、「神秘主義的アナーキズム」(注43)への転換という表現がより適切であろう。ランダウアーが「内的存在」の探求において発見しようとした個人というものは、個人主義の要素ではなく、すべてを結びつける精神であった。ランダウアーにとってこれは共同生活の基盤であった。こういった確信は、友人のフリッツ・マウトナーの懐疑的哲学に起源を持ち、同時に、中世のキリスト教神秘主義、そのなかでもっとも重要だった、マイスター・エックハルトの説教と聖典に起源を持つものであった。このことは1903年に発表されたランダウアーの著書『懐疑と神秘Skepsis und Mystik』で最も明確であるが、その後のランダウアーによるすべての著作をみれば、それらを特徴付けているのが神秘主義的な要素であることがわかるのである。『神秘主義とアナーキー マイスター・エックハルトとグスタフランダウアーの思想におけるその意味』という優れた研究の著者トルステン・ヒンツは、ランダウアーの神秘主義を「制度のない宗教」(注45)と呼んでいる。

 1900年、ランダウアーは「離脱を通じて共同体へ」というタイトルの講演の中で、濃密な表現方法により、彼の新しい思考の方向性を明確に示した。ランダウアーがこの講演を行ったのは、同年6月18日に新たに創設された「新しい共同体 Neue Gemeinschaft」という組織の会合においてであった。この講演は1901年に「新しい共同体」が刊行した雑誌『達成のための王国 Das Reich der Erfu"llung』の第2号に収録されているが、本書にも収録されている(注46)。この論説を読むと、政治的行動と社会的変容に関してランダウアーの理解が世紀転換の時期に変化したことがわかる。トルステン・ヒンツが呼ぶところの最も明瞭なのは「多層的な人生の危機・・・哲学的で・・・・政治的で・・・個人的な」というものである(注47)。2年後、このテキストはほとんどすべて『懐疑と神秘』に収録された。

 「新しい共同体」という組織は、ハインリヒ・ハルトとユリウス・ハルトの兄弟によって率いられた哲学的にはあいまいで政治的には不明確なグループだった。ハルト兄弟は自然の法則と精神が調和した、新たな共同体の創造の手段として、農村に居住地を設立することを提唱していた。この考えはランダウアーに訴えかけるものがあった。ハンガリー系オーストリア人で経済学者テオドール・ヘルツかが、1890年に刊行した『自由地 ある一つの社会的な未来像』という書物から、ランダウアーは深い感銘を受けていたからである。同書でヘルツカは、アフリカにおける理想主義的な社会主義者の居住地に関する計画の概観を描いている。ヘルツカの『自由地』は、ドイツ語圏の社会主義者の間で極めてよく読まれ、1890年代には「自由地」設立を目指す様々なグループが設立されていた(注48)。その後ランダウアーが描く社会主義理論においても社会主義者による居住地のイメージは中心的なものとなっている。

 ランダウアーは、ハルト兄弟および「新しい共同体」の他のメンバーについて、すでにフリードリヒスハーゲンの詩人グループに関わっていた時から知っていた。ベルリン郊外の南西にあるシュラハテンゼーに設立された共同体に、ランダウアーは加わらなかったとはいえ、グループには、楽観的な気持ちで加入した。しかし彼は1年後には「新しい共同体」を脱退している。それはハルト兄弟の思想的な内実を信用することができず、社会的変容と誤って彼らが理解していた逃避主義に幻滅したからである。ランダウアーはドイツのアナーキズム運動に対して批判的であったが、彼は「新しい共同体」が主催する放埒で自堕落なイベントに対して、具体的で政治的な干渉をせざるをえなかった(注49)。

 ランダウアーがこのグループに加わっていた時期は短かったが、このグループには彼の生涯において決定的な人物が含まれていた。まず、ランダウアーはこのグループでマルティン・ブーバーと出会った。ブーバーは著名なユダヤ系オーストリア人の哲学者であり、ランダウアーの生涯の友人であり支援者となった。ここでであったもう一人の重要な人物は、若く情熱的でラディカルな、ボヘミアンな生活への奇妙な情熱をもつアナルコ共産主義者エーリヒ・ミューザームであった。ランダウアーとミューザームは、自分たちがともに「新たな共同体」とそりが合わないと感じ、同じ信念を共有する人物にであった、と感じた。そこで彼らはすぐにグループを去った。「新たな共同体」は1904年に解散した。

 ランダウアーとミューザームが、ドイツ20世紀史における最も影響のあるアナーキストであることは疑いの余地はない。これにルドルフ・ロッカーを加えることができるかもしれないが、彼はその人生の多くをドイツ国外で過ごしている。2人のうちで年下で政治的経験が少ないミューザームは、年配で経験のあるランダウアーを尊敬した。彼らの長期的でダイナミックな関係性は、教師と生徒との関係に似通っていた(注51)。しかしながらミューザームは、独自の思想を持っていたため、相手に対する影響という点においてもすぐにランダウアーと対等になった(注52)。

  ミューザームは、共産党という政党による共産主義運動を支持していたのに対して、ランダウアーがそのような考え方を決して共有しなかった(注53)。これら両者の大きな違いの第一点目である。第二点目として、性格の相違が挙げられる。ランダウアーはしばしば哲学者で聖人として見なされるようなところがあったが、ミューザームは向こう見ずなところで悪名が高く、感情的になりやすい性格だった。そして、両者の最も大きな違いは、個人的な倫理観と生活様式にあった。ランダウアーは「保守的革命家」(注54)と呼ばれるように、他者に対する評価についてはあまりに厳しく、しかも決してほのめかすというレベルのものではなく、ベルリンのボヘミアンたちと交友関係を結んでいたのは20歳の時に短い期間だけであった。これに対してミューザームは、反ブルジョワ的な思考を持つ人物の典型であり、「浮浪者」「どろぼう」「ルンペンプロレタリア」、そして彼の評論のタイトルになっている「第五階級」の革命的潜在能力を強調するリバタリアン的アナーキズムを扇動する人物だった(注55)ミューザームが自由恋愛あるいは同性愛者の権利についての議論において熱心に語るのに対して、ランダウアーはそういった問題については注意深く、むしろ、社会主義社会を建設する上で基礎となる共同体のひな形として、結婚と家族が重要であると考えていた。ランダウアーは高尚な芸術に強く関心を持ち続け、少なからぬ評者から、ランダウアーの芸術観が「完全に伝統的な芸術の概念」(注57)であるとされている。これに対してミューザームは多くの進歩的な「民衆」の詩人であり脚本家だった。それにもかかわらず、ランダウアーの著作における「美の優先(政治よりも)」(注58)があるという示唆を拒絶したのは、他ならぬミューザームその人であった。彼は倦むことなくランダウアーの「強く、恐れを知らない精神、常に行動するための準備」(注59)、そしてランダウアーの性格を「ブルジョワの倫理による万人と万物への愛という甘ったるい話に解消」(注60)してしまうことに反対した。ランダウアーの死後に発表した追悼文で、ミューザームは、「ランダウアーはブルジョワではなかったということは明確にいうことはできず、むしろ、彼は社会変革を文化変容の必要条件として常に考えていた革新者であった」(注61)と述べている。

 1901年から06年までランダウアーはラディカルな運動のシーンから姿を消す。1901年から02年まで、彼と新しい恋人ヘートヴィート・ラッハマンはイギリスに住み、数ヶ月はブロムリーに居を構えるクロポトキンのすぐそばで生活していた。ランダウアーは時々クロポトキンを訪問し、彼から強い印象を受けた。ランダウアーはクロポトキンのいくつかの最も重要な著作を翻訳し始め、『相互扶助論 進歩の要因』『田園 工場 仕事場』『フランス大革命 1789-93』のドイツ語訳を刊行することになる。またランダウアーは、当時イギリスに住んでいた、キューバ生まれのカタロニア人アナーキストであるタリダ・デ・マルモル、ルドルフ・ロッカー、マックス・ネットラウとも交流した。

 ベルリンに戻るとランダウアーは翻訳に専念し続けた。クロポトキンの他に、オスカー・ワイルド、ホイットマン、そして、最初のアジア人として1913年にノーベル文学賞を受賞したラビンドラナ・タゴールの作品をドイツ語訳した。ランダウアーは自分自身のテキストも翻訳し、それ以外のテキストもラッハマンと共同で翻訳した。さらに文学に関する評論集を刊行し、1903年に『懐疑と神秘』を出版した。

 ランダウアーがこの時期に政治的活動に戻ったときに彼が最も密接に関わったのはドイツ田園都市協会である。この組織はイギリスの田園都市運動から刺激を受けた人びとによって設立され、社会的な視点から都市計画を検討する組織だった。ランダウアーが田園都市協会に関わったのは、それほど長い間ではなかったが、フリードリヒスハーゲンの詩人サークルの時に友人だったパウルとベルンハルトのカンプフマイヤーの兄弟と旧交を温めた。田園都市協会は1910年代に解散した。

 1904年から06年まで、生活のためにランダウアーはベルリンのある書店で働いた。1906年7月、彼はもう一つの人生の転機になる手紙を受け取った。この手紙は、フランクフルト・アム・マインの出版社リュッテンとレーニングが刊行する魅力的な出版シリーズ「社会Die Gesellschaft」の編者に選出されたマルティン・ブーバーからものもだった。このシリーズの目的は、社会生活におけるすべての側面について創造的な視野を提示することにあった。ランダウアー宛の手紙の中でブーバーは、率直に次のように述べている。「親愛なるランダウアーへ 「社会」の刊行については、次のような状況です。出版社は「革命」という高度な需要があり興味が持たれているテーマに関する本を刊行したいと思っています。どのように考えても、あなた以外に適任の人物はいないと思っています」(注63)。1年後、ランダウアーの著書『革命 Revolution』が「社会」シリーズの第13巻として刊行された(ブーバーはこのシリーズで40巻の刊行に携わった。最終巻は1912年に刊行された)。

グスタフ・ランダウアー『革命』1907年
 『革命』はそう簡単に理解できる本ではない。ルース・リンク=ザーリンガーは同書を「拙速に執筆され」「文章構成がよくない」(注65)と評している。これに反論することは難しい。同書の中での「革命」という言葉の使い方は一貫していない。これが多くの読者を混乱させてきた。一般的に、ランダウアーは「革命」を社会主義のための永続的な歴史的闘争という意味で用いていて、革命は、精神、個性、共同体の革新と結びついている(ランダウアーの神秘主義ではこれらはすべてが一体のものである)。このような哲学的な革命の解釈は、同書における重要な点である。ただし、ランダウアーはそれと同時に、革命という言葉をより一般的な意味でも用いており、個人が実行し、あるいは試みた、ラディカルな社会変容を「革命」と呼んでいる。通常は文脈がその意味を明らかにするとはいえ、語義の相違をより明確にすれば、読者はもっと容易に読むことができたかもしれない。

 『革命』で最も厳しく批判されたのは、おそらくランダウアーの中世についての概念であろう。これはピョートル・クロポトキンからの強い影響によるものである。ランダウアーの支持者たちでさえ中世を理想化しすぎている、と論評している(注66)。ランダウアーによる歴史的な紛争に関する解釈にも問題がある。ラディカルなカトリック教徒の反抗が17世紀における温和なフランス王に対する「人民の蜂起」として描かれているのがその一例である(注67)。

 しかしながら、それでもなお、『革命』はアナーキストによる歴史と革命に関する最も重要な分析の一つであることに変わりはないのであり、極めて特徴のある研究の一つであることも間違いない。ジークベルト・ヴォルフは、「歴史に関する画期的なアナーキスト哲学」であると評価している(注68)。ルドルフ・ロッカーにとっては「光彩を放つ」「予言者の警告」である(注69)。エーリヒ・ミューザームは、同書を次のように描いている。一方で『革命』は、革命の問題を科学的に分析するランダウアーの能力を証明すると同時に、抽象、科学、批判的分析を、最も重要であることを強調するための手段としてランダウアーが見なしていた、ということを証明している。すなわち扇動を準備し、人びとに行動を起こすように呼びかけるためのものと考えていた、ということである、と(注70)。『革命』では、ランダウアーの想定するユートピア、すなわち、彼の思想の中で最もよく知られた点の一つが、もっともまとまったかたちで要約されている(注71)。ランダウアーはユートピアをあらゆる革命的行動の原動力であると考えていた。しかしながら、ランダウアーにとって革命は「永続的な行動」(注72)である。そしてランダウアーによればユートピアとは、われわれが永遠に追い求める遙か彼方の夢ではない。むしろ、真の社会主義とは、我々の日常生活の中でうごめき続けている力なのである。

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2016年5月19日木曜日

1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム 1892-1901: Landauer’s early anarchism

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1892-1901: Landauer’s early anarchism: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.21-25.
Translated by Hikaru Tanaka


ガブリエル・クーン、ジークベルト・ヴォルフ「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」『グスタフ・ランダウアーの革命とその他の著作』PM Press、2011年、21-35頁。

 ランダウアーが社会主義運動に関わり出す前、彼の世界観は、高校で読んだ哲学者の著作、とりわけフリードリヒ・ニーチェの著作によって強く影響を受けていた。ランダウアーが初期に執筆した小説には、このような彼の思想的な背景が読み取れる。小説のタイトル『死の説教師』は、ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこう語った』の中にある一つの章のタイトル「死の説教師について」にちなんでつけられている。このランダウアーの小説は、彼が書いた小説のうちで最も長いものであった。

  『死の説教師』については批評家から注目されなかったが、フリードリヒ・ニーチェの哲学が、ランダウアーが受容した初期のリバタリアン的思想であったという事実は重要である。このようなニーチェからの影響は、1960年代と70年代におけるフランスのポスト構造主義と現代の「ポストアナーキスト」理論を特徴付けているからである(注11)。

 『死の説教師』を執筆している時期にランダウアーはベルリンの若い作家たちや文化的前衛芸術家たちと交流していた。とりわけフリードリヒスハーゲンの詩人たちのサークルの中に彼は加わっていた。このサークルは、自由思想的傾向の詩人、芸術家、知識人たちがベルリンの郊外のフリードリヒスハーゲンで作りだしていた緩やかに結びついたサークルだった(注12)。

 しかしランダウアーは、すぐに、このような耽美主義的で社会から遊離した若いボヘミアンたちとのつきあいにうんざりしてしまい、しだいに「青年派Juungen」と関わり出すようになった。とはいえ、他方では、文化的な闘争が重要であるという信念を、ランダウアーはその後も失うことなく持ち続けることになる。したがって、労働者にとって受け入れやすい教育的・文化的プロジェクトを作ろうという意図のもとで1890年に設立された自由民衆劇場(Neue Freie Volksbu”hne)に、ランダウアーが生涯にわたって密接に関わったのは、驚くに当たらない(注13)。こういった意図を持った演劇団体として、自由民衆劇場は、ドイツでは最初のものだった。ランダウアーは1891年に加わっている。1892年、この劇団から新自由民衆舞台が分離している。二つの劇団は協力し続け、1914年に共同の劇場を持つようになる。これが現在のベルリン民衆劇場である(注14)。

 新自由民衆劇場の設立総会は1892年10月にベルリンで開催され、そこでランダウアーは、最初の妻となる被服労働者のマルガレーテ(通称グレーテ)ロイシュナーとであう。彼らは同年の年末に結婚した。ランダウアーとロイシュナーの間には二人の娘が生まれている。シャルロッテ・クララは1894年に生まれ、妹のマリアンネは1896年に生まれたが、そのわずか二年後、髄膜炎によってこの世を去っている。

 社会民主党という新しい党名で出発した社会民主主義運動からは、ランダウアーが関わっていた青年派Jungenが除名される。彼らは自分たちの新聞『社会主義者Der Sozialist』を創刊する。1893年2月、ランダウアーはこの新聞の出版グループに加わる。「青年派Jungen」はこのあとすぐに解散するが、それはマルクス主義者とアナーキストとの内部対立によるものであり、ランダウアーは、アナーキスト派のなかで中心的な人物であった。『社会主義者』紙の刊行を引き継いだのはアナーキスト派であり、ランダウアーの紙面に対する影響力が、新聞の形態と内容の双方で、次第に強まっていった。1895年以降、新聞がいくつかのバージョンで刊行される中で、サブタイトルとして「アナーキスト」や「アナーキズム」という言葉が入れられたものが出るようになった。1895年に発表した初期のエッセイ「ドイツのアナーキスト」においてランダウアーは、以下のように宣言している。「アナーキストの唯一の目標は、人間同士の闘争を終わらせ、人類を結びつけることにある。そうなれば一人一人の個人が各自の自然に持っている能力を、何ら障害もなく展開できるようになるからだ」と(注15)。

 1890年代の『社会主義者』紙は、1891年11月から95年1月まで刊行された『社会主義』と、1895年から99年12月まで「新編」として刊行された『社会主義者』の「第一期」と「第二期」に分けられることが多い。1895年には警察の監視と弾圧によって何回かの刊行停止があった。
『社会主義者』1895年1月12日巻頭

 1899年おわりには、『社会主義者』刊行グループは、さらなる内紛と分裂の結果解散してしまった。今回の分裂は、「プロレタリア・アナーキストArbeiteranarchisten」、そして彼らと敵対する、ランダウアーを取り巻く人々との間で1897年に起きた。彼らは労働者階級という領域を超越していたからである。ランダウアーは新聞に対する主導権を握り続けたが、対抗する労働者グループは新しい定期刊行物『新たな生 Neuse Leben』を創刊し、これによって『社会主義者』紙は大きな打撃を受けた。ランダウアーと彼の共同編集者たちは『社会主義者』紙を維持するために2年間努力したが、結局、刊行を停止することになった。

 1909年にランダウアーは『社会主義者』紙を再刊するが、今度は社会主義者連合(Sozialistischer Bund) のためのメディアとしてであった(注17)。この「第三期」『社会主義者』は1915年まで、第一次世界大戦による弾圧の増大と経済的な苦境によって刊行継続が不可能になるときまで発行され続ける。その後もランダウアーは常に『社会主義者』の再刊を考えていた。1918年、彼は極めて具体的な計画をマルティン・ブーバー宛の手紙の中で明らかにしている(注18)。しかし彼が死亡することで、この計画は実現されなかったのである。

  『社会主義者』紙の刊行は、ランダウアーによる極めて重要な活動であった。彼は、一方ではいくつかの書籍を刊行し、パンフレットや様々な新聞紙上に多くの記事を寄稿したが、少なくとも彼の評論、記事、翻訳の半分は、『社会主義者』に掲載されている。それに加えて、彼が1890年代に編集グループのメンバーに与えた影響は極めて重要であり、「第三期」『社会主義者』は基本的には彼がすべてを担っていた。その結果、同紙は、ランダウアーが気に入っていた言葉を使えば「アナーキスト・社会主義者」による刊行物として、いくつかの中断があったとはいえ、ほぼ25年間にわたって刊行されたのである。社会主義者連合を含めて考えても、ランダウアーの政治的なアジテーションにこれほど密接に結びついた活動は存在しない。

 1890年代、ランダウアーはドイツのアナーキストたちの間で中心的な人物として急速にみとめられるようになった。1893年は、ランダウアーはラディカルな活動をしてようやく1年経過していた頃だったが、ドイツ警察の資料では、「ラディカルな革命運動において最も重要なアジテーター」と呼ばれていた(注19)。同年、ランダウアーはチューリヒで開催された第二インターナショナルの大会にアナーキストの代議員として参加しようとした。だが、ほかのアナーキストたちとともに会議から排除された(注20)。会議はドイツの社会民主主義者によって牛耳られていた。ランダウアーは社会民主党の著名な指導者アウグスト・ベーベルによって警察のスパイであると誹謗された(注21)。ベルリンに戻るとランダウアーは、以前『社会主義者』に当局を誹謗する記事を書いた罪で、ほぼ一年間の懲役という判決が言い渡されていた。

 1894年に釈放された後(注22)、ランダウアーは、彼の活動を『社会主義者』紙の刊行グループとともに展開された。同紙は当局から弾圧を受け続け、1895年にはしばしば停刊した。ランダウアーはその活動を理由にドイツの大学から閉め出された。『社会主義者』の2回目の停刊の際、ランダウアーは労働者の消費協同組合「解放Befreiung」の設立に加わった。この組織はメンバーの拡大を経験することが一度もないまま数年後に解散した。しかしながら、ランダウアーは協同組合の思想を指示し続け、やがて彼の社会主義思想における中心的な部分を占めるようになる。同様に、1896年にベルリンで実行された繊維産業労働者によるストライキにランダウアーは関与したことにより、政治的な手段としてのストライキというものが彼に強い印象を与えた。その後、ランダウアーはしばしば「積極的なゼネスト」という言葉で表現することになるが、この場合のストライキは、資本家のための労働を単に拒絶するという活動に、社会主義の創造のための自ら決断するという活動を付け加えるという意味で使っていた(注23)。

  1896年、ランダウアーはまたもや逮捕されるが、今回は講演をしているときであり、間もなく裁判もなく釈放された(注24)。そのあと、再び彼はアナーキストの代表として第二インターナショナルの大会に参加するために、ロンドンに赴いた。今回も、チューリヒの時と同じことが繰り返された。アナーキストたちは議場から閉め出され、彼ら独自の会合を組織することでこれに対抗した。ランダウアーによってこのために準備されていた報告「チューリヒからロンドンまで:ロンドン会議におけるドイツ労働運動に関する報告」は、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、そして英語に翻訳され、彼の著作の中で最も翻訳された文章となった。英語のものは『ドイツにおける社会民主主義者』というタイトルを附されたパンフレットとして1896年にフリーダム・プレスから刊行されている。

  チューリヒと同様に、ランダウアーは同席した多くのアナーキストたちに強い印象を与えた。また、革命に農民が参加する必要性について彼が語った演説には、多くの人びとが強い関心を抱いた(注25)。オランダの研究者ルドルフ・デ・ヨングが記しているように「ランダウアーは会議に提出されたアナーキストによる、あるいはアナーキストに反対する、さらにはそれ以外の人々から提出されたすべての報告に言及した」(注26)。

  1897年におけるランダウアーの活動のうちで『社会主義者』紙以外の領域ではほとんどが、スペイン政府によって訴追され、拷問され、殺害されたスペインのアナーキストたちに対する支援であった(注27)。1897年2月、彼はまたもや侮辱罪で告訴される。今回もある警部補に対するものだった。ランダウアーと彼の数名の同志たちのが、警部補はラディカルな運動の中からスパイを雇っている、という事実を暴露したからである。ランダウアーは無罪となった(注28)。

  1899年、『社会主義者』紙の習慣とともに、ランダウアーはもう一つの侮辱罪で訴追された。今回もある警部補が関わっていた。今回は懲役6ヶ月の判決が下り、ランダウアーは刑に服すことになった。この訴追は、ランダウアーが床屋で酒場の店主アルベルト・ツィーテンを擁護する活動を行ったことが原因であった。ツィーテンは妻を殺害した罪で終身刑を言い渡されたが、ランダウアーはツィーテンが無罪であり、ある警部補によって濡れ衣を着せられたということを公にほのめかした。これが訴追された原因である(注29)。

  この裁判の数ヶ月前に、ランダウアーは詩人で翻訳家のヘートヴィヒ・ラッハマンと恋に落ちた。2人が
Hedwig Lachman, 1865-1918
であったのはベルリンで開かれていた詩の朗読会で会った。ランダウアーはすぐに彼女と同居するようになり、1903年、彼はマルガレーテ・ロイシュナーと離婚し、ラッハマンと再婚した(注30)。彼らの間には、1902年にグドゥラ・ズザンネ、1906年にブリギッテというふたりの娘が生まれた。ブリギッテは、のちにアメリカ映画『卒業』などのディレクターとして知られるマイク・ニコルズの母親である。

  1890年代にはランダウアーはドイツ語圏でひんぱんに講演旅行を行っている。チューリヒとロンドンで開催された第二インターナショナルの会議に参加したことにより、彼は著名なヨーロッパの多くのアナーキストたちと知り合った。ピョートル・クロポトキン、マックス・ネットラウ、ルドルフ・ロッカー、エルリコ・マラテスタ、ルイズ・ミシェル、エリゼ・ルクリュなどは、そういった多くのアナーキストの中のほんの数名でしかない。多数の記事の中で、ランダウアーは「連合共同体主義アナーキズム」(注31)、「実践的創造的行為によるアナーキズム」(注32)、国家を破壊することよりも「国家を離脱する」ということを中心にしたアナーキズム(注33)、といった考えの基礎的なものを描き出していた。ランダウアーのアナーキズムを最も良く要約しているのは、その友人であり同志だったエーリヒ・ミューザームであろう。

「ランダウアーはアナーキストだった。全生涯にわたり彼は自らをアナーキストと名乗った。しかしながら、彼の様々な思想を特殊なアナーキズムの潮流という枠組みからだけでみて、彼を個人主義者、共産主義者、集産主義者、テロリスト、平和主義者などと賞賛し、あるいは誹謗するなど全くばかげている。第一に、ランダウアーは、何らかの教義で凝り固まった人物ではないという点で誰とも類似したところがない。アナーキズムに関わってきた30年間の間で発展し、変化してきたのである。第2に、ランダウアーはアナーキズムというものを政治的もしくは組織的に限定された教義であるなどと見なしたことは一度もない。彼はアナーキズムを思考と行動における秩序だれられた自由の表現としてしか見なしてはいなかったのである」(注34)。

 これ以外の文章で、ミューザームは、ランダウアーの中心的な信念について言及している。すなわち、後年になって、明確な「ポストモダニズム」であるとして賞賛されている、そういうことを予感させる概念である。「彼の革命活動は国家の法律と社会システムに対する闘争にのみ限定されてはいなかった。彼の闘争は、生のあらゆる領域に関わっていたのだ」(注35)。

 ミューザームのこの見方は、ランダウアーによる「社会」革命(彼はこれを賞賛した)と単なる「政治的」革命(彼は共産主義者の政治革命や政治革命をプロパガンダするアナーキストを非難していた)との区別からたしかにそうであった、ということがわかる(注36)。ランダウアーは1890年代おわり頃から、フリードリヒ・ニーチェの『この人をみよ』における政治批判に言及しながら、自らを「反政治家」と呼ぶようになる(注37)。ランダウアーは生涯を通じてこの問題を繰り返し取り上げ続けていた。このような主張は、社会的な事柄から撤退せよといっていたわけではなかったのは明らかであった。そうではなく「形式的」で「専門的」な「国家」の政治に対する批判であった。1911年に発表した評論「誰が始めるのか」でランダウアーは以下のように書いている。「政治権力は社会主義の最大の敵である。そして、社会主義の任務は、そういったあらゆる権力に取って代わるような、社会および公共の秩序を確立することである」と(注38)。

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2016年5月18日水曜日

どうすれば国家を破壊できるのか? グスタフ・ランダウアー「弱々しい政治家たち。それよりももっと弱い民衆!」(1910年)より How can we destroy the state? from Japanese Translation of Gustav Landauer, "Schwache Staatsmänner, schwächeres Volk!", 1910.

グスタフ・ランダウアー「弱々しい政治家たち。それよりももっと弱い民衆!」『社会主義者Der Sozialist』(1910年6月)より(詳細は、田中ひかる「グスタフ・ランダウアーの描く国家と権力、そして「革命」の描き方」『アナキズム』第13号、2010年、123-134頁を参照)。

Gustav Landauer, “Schwache Staatsmänner, schwächeres Volk!”, in: Beginnen: Aufsätze über Sozialismus, ed. Martin Buber, Köln: Marcan-Block-Verlag, 1924, pp.51-53. First Published on 1910 June of Der Sozialist) Translated by Hikaru Tanaka  

English Translation: Gustav Landauer, "Weak Statesmen, Weaker People!, in: "Revolution and other Writings, Edited and translated by Gabriel Kuhn, PM Press, 2010, pp.213-214. 

 一人の男が仕事机に向かい、黙々と楽譜を書いている。顔色は悪く、神経質そうだ。とても病弱かつひ弱な感じがする。彼は交響曲を作曲しているところである。男は、この作曲に懸命に取り組み、これまで自分が学んできたあらゆる技法をこの交響曲で表現しようとしていた。やがてこの曲の初演を迎えることになる。オーケストラは150名の大編成だった。第3楽章になるとティンパニ110台、金床15台、そしてオルガン1台が加わる。最終楽章には、500人のコーラス隊が歌う八重唱、そして、笛と太鼓によるオーケストラがさらに加わる。聴衆はこの交響曲の大音響に魅了され、迫力に圧倒された。

 ここで描いたような今風の作曲家に見られる特質、すなわち、力強さも人間的な魅力も一切感じられないのに、膨大なパワーを意のままに操ることができる、そういう特質は、現代の政治家、そして現代の支配階級全てに属するあらゆる人々のことを想起させる。彼らは、人間としては軟弱かつ無力であり、何かを創り出す力もなく、やることといえば詐欺まがいのことばかりである。だが、そういう支配階級の背後には、彼らの命令には何でも従う巨大なオーケストラが控えている。武装する国民、すなわち軍隊である。

 政府は様々な政党から非難を浴びせかけられ、ブルジョワと労働者からは誹謗中傷されるが、反撃の握り拳を背中に隠しつつ、そういった非難の言葉をまともにうけとらない。政府を非難する人びとが自分にとって危険であるなどとも考えていない。

 国民の中で最も過激であるはずの20歳から25歳までの成年男子が、無能な政府の背後で隊列を作り、いかなる命令でも、何ら疑問を持つことなく従順に実行する準備ができているからである。そういうわけで、国の内外を問わず、およそ政府というものは、自分がやっている政治が恥さらしなものだなどとは思わない。

  これに対して私たち社会主義者は、これまでの社会主義が100年以上にわたってそうであったように、特権階級が虚偽で人々を攪乱して維持する支配というもの、すなわち政治というものに対して立ち向かってきた。


  なぜなら、人びとが自由と偉大なる調和を獲得する、という事態が今後生まれ得る、ということを確信させるような力強い潮流が歴史の中に見て取れるからだ。私たち社会主義者は、人びとの精神を覚醒し、様々な現実的なものを建設することによってこのような潮流を支えていきたい、と考える。だから、およそ国政というものには一切関わろうとはしないのである。

  これまで私たちは、空疎なイデオロギーと暴力的な政治を実行する諸権力がいまだ相当に力を持っている、ということ、また、政治家の中には、強い個性を持ち、目標と活力をいまだ失っていない人々がいる、ということを認めざるを得ないのではないだろうか、と考えることもあった。そして、私たちが敵対するそういった人々に、わずかながらも敬意を払うべきではないのか、そして、彼ら支配者たちの権力はまだこれからも長期にわたって存続するのではないか、と考えることもあった。

 ところが私たちは、ドイツでもそれ以外の各国に関しても、次第に次のようなことに気づくようになっている。


  国家の力というものは、国家を代表する政治家の精神と生身の肉体に宿っているのではない。国家の力というものは、最も不満を抱く、プロレタリア化した大衆、人びとの中にあるのだ、と。ところが、彼らは、国家から分裂して新しい何ものかを、国家に代えて打ち立てる、ということが自らの任務であることを理解していない。

  一方に国家権力と無力にされてバラバラにされた大衆がいるのなら、これに対抗する、社会主義に基づく組織がなければならない。数々の社会がつながりあって創り出す社会、数々の連合が形作る連合、すなわち人民が形作る社会がなければならない。現実の中で創り出すべき対立とは、これである。

 国家権力、政府の正統性、これらを代表する人間の特性が弱まっていけば、そして人びとが、国家から分離して何ものかを形作れば、旧来の体制は破滅することになる。

 しかし人びとは、国家には果たすべき役割があり、国家がいまだ必要だ、と言われてしまうと、そのことが否定できない。それは、国家に置きかえられるべき社会主義的現実がいまだ存在しないからである。だが、人びとは、この点を理解していない。

 机は転倒させることができる。窓ガラスは割ることができる。国家もそういった何か実体のあるモノであるかのように、あるいは呪術で用いられる物神(Fetisch)であるかのように語り、「国家を破壊することができる」などと主張する人々がいる。

 だが、彼らはそう言って見栄を張っているか、言葉を実体と取り違えて言葉そのものを崇拝しているだけなのだ。
 国家とは、人と人との間にある関係であり、人と人との間にある行動や振る舞いのあり方である。人びとが、今とは異なる関係を取り結び、今とは異なる行動や態度を取ることによって、国家を破壊できるのである。

「朕は国家なり」と絶対君主が言うのなら、絶対的な国家に自らすすんでとらわれの身になっている私たちもそれにならって、「私たち自身が国家なのだ」という真実を認識しなければならない。人間にとって真の共同体と社会を創り出さない限り、国家とは私たち自身であり続けるのである。