2019年5月30日木曜日

高橋幸彦「トイレをつまらせろ」について

 関西アナーキズム研究会の、のんきち君の「栗原本」批判を読みました。
のんきち君の意見にとくに異論はありません。私も彼も、もともと個人主義者で考え方は近いので、よくわかります。
 ただ、「トイレをつまらせろ」問題に関しては、話がかみあってないように思いましたので、ひとこと。

「トイレ掃除をする人のことを考えろ」という、のんきち君の意見は、まったく正しい意見です。
「だまってトイレをつまらせろ」が間違っているのは、誰にとっても明らかです。
 ただ、船本さんも栗原さんも、そんなことは百も承知の上で、あえて間違った意見を主張したのだと思うのです。彼らは、その理由を考えてもらいたかったのでしょう。

 一般的な正しい意見、すなわち正論に対して違和感を覚えながら、何一つ反論できない、そんなことを感じた経験はないでしょうか? 私なんか、しょっちゅうそんなことばかりです。口には出せないのでブツブツと独り言を言うか、酔っぱらって深夜にゴミ箱を蹴飛ばすくらいが関の山だ。

 彼らは、「間違っていてもいいから、行動を起こせ」と言っているのではないでしょうか。
 もちろん、間違った行動は批判されます。トイレ掃除をしている方からは、こっぴどく怒られるでしょう。平謝りにあやまるしかありませんけれども、そこには対話が生まれます。
「なぜそんなことをしたのか、日常、どう思っているのか」を話すことになる。
もちろん、相手は理解してくれないかもしれない。たぶん、それがほとんどでしょう。
  でも、そういう立場に追い込まれれば、つたない言葉ででも、自分の考えを話さなければならない。
そんなことを繰り返しているうちに、中には理解してくれる人が出てくるかもしれません。
  あらかじめ、掃除人のことを忖度して何もしないよりも、間違ったことをして掃除人とトラブルになったとしても、そこから新たに始まる関係があるかもしれない。少なくとも、何もしないよりも可能性はずっと開けるのではないか。 
 社会運動って、そういうものなんじゃないでしょうか。
 間違いだらけを、少しずつ反省しながらやっていく。
 無謬の前衛党が指導するのでないのなら、それでいいんじゃないか、というか、それしかないんじゃないかと思うのです。

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