書評(その1)からの続き
以下、書評の本文
栗原康の岩波新書から出ている『アナキズム』ですが、内容紹介のとこに「アナキズムにも縛られるな」と、常にぼくが思っていたことを書いてあったので読んでみました。この手のアナキズム入門書のような本は、たいていつまらないし事実、ちくま新書からでていた浅羽通明の『アナーキズムー名著でたどる日本思想入門』もくだらなかったっていうか、どうでもいい。
で、栗原の『アナキズム』ですが、簡潔にいうと、ベタなお笑い、しょっぱいプロレスを見せられているような寒々しい読後感しかありません。栗原から言わせると、こういった批判も「ああ、めんどくせえな」なんでしょうが、それなりに期待し本を購入して、それがこんな体たらくな新書なら、めんどくさいのを押して批判するのも、かなりめんどくさいのです(それならするなよ、笑)。
たぶん意識的にやっているのでしょうが、やたらとひらがなが多いし(ぼくも漢字が嫌いなので実は評価してます、笑)文体がうざすぎるというか、時々出てくる擬音みたいなのが気になって読みづらい。
栗原はなぜかアナーキストでもない船本州治の「黙ってトイレをつまらせろ」の話を紹介しています。黙ってトイレをつまらせろ、の話がよほど好きなようで、他にも同じようなことを書いています。つまりルンペン・プロレタリアートの方法論からは、サンディカリズムは市民社会の論理になるそうで(御用組合であろうが、戦闘的サンディカリストであろうが)サポタージュの哲学としてのトイレをつまらせろ!になるのだそうです。
同じく寄せ場で活動していたアナーキストの若宮正則はトイレを詰まらせることなどしないばかりか、労働者が汚したトイレを黙って掃除をしていた。この場合、アナーキズムの論理なんかからしたら、船本なんかのほうが反逆的で攻撃的で行為の宣伝的なので(っていうほどのこともないですが)よりアナーキズムの考えに近いのかもしれませんが、ぼくは若宮の黙ってトイレの掃除をしている行為のほうが感銘を受けたし影響も受けた。つまらないイデオロギー(アナーキズム)にとらわれて、いつもそのトイレなどを掃除している人たちのことを、まったく思慮に入れず、サポタージュ?はいはい、えらいですね、さすがアナーキスト、としかの感想しかありません。
もっとも、若宮もアナーキストになる前には、よくあるアナーキスト的イメージの爆弾を使用していましたが、ペルーでSendero Luminosoに殺されるまで、破壊やサポタージュではなく相互扶助的なアナーキズムを実践していたように思う。
…っていうようなことを飲みながら、知人に話していたら「トイレはTAZ(一時的自律ゾーン)なのにそこを汚すってアナーキストとしてどうなの?」みたいな反論をしていた、笑。
確かに最近のガッコなんかではトイレは食事する場であったり避難する場でもあるので、船本が想定していないトイレの使用法もあるわけで、そういうのも含めて、トイレをつまらせるって本気でいっているの?みたいな感想しか出ないのですよね。せめて栗原が実践して自分が勤務しているガッコや、この新書を出している岩波書店のトイレをつまらせて、逮捕されたら警察や拘置所のトイレをつまらせ、ついでに裁判所のトイレをもつまらせるくらいのことをしてくれれば、かなり有効なのかもしれませんが…
最後に某通信で栗原の本を検証している人がいるのですが、その人によると栗原は伊藤野枝や大杉の言っていることを、自分の都合のいいように改ざんしていて、その通信によると『野枝も大杉もただセックスをしたいという人物にされてしまっているのだ』。これ笑いました。ほんとに、ただセックスがしたいだけだったのなら、2人とも虐殺されることもなかっただろうに…(書評その3に続く)
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