2019年4月11日木曜日

「石油放火女(Pétroleuses)」の謎(1):栗原康『何ものにも縛られないための政治学―権力の脱構成』(角川書店、2018年)における記述に基づいて


はじめに
  栗原康氏の『何ものにも縛られないための政治学―権力の脱構成』(角川書店、2018年)についての書評で、ブレディみかこ氏が、次のように述べているのを読んだ。

「著者に女を書かせると行間からぎらぎらと後光が射してくる。今回は、[中略]ルイズ(・ミッシェル)の生きざまが際立つ。パリ・コミューンでの武闘派ぶりもあっぱれながら、銃撃戦の最中に女子の友だちに会い、あらお久しぶりー、と武装姿で無理やりストリートのカフェを開けさせてコーヒーを飲みながら駄弁ったとか、ごっついけどチャーミングな逸話で笑わせてくれる」。「しかもこのルイズ、ばたばたと死んでいく同胞を見て覚醒し、『ヴェルサイユ軍に火をつけ、白痴になれ』とばかりに石油を撒いて放火攻撃を行い、それを見たパリの女たちがあちこちで放火して「石油放火女」とヴェルサイユ軍に恐れられる存在になったという。」ブレディみかこ「長渕剛とセックス・ピストルズ――【書評】『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』」

 このように、ルイズ・ミシェルが「石油を撒いて放火攻撃を行い、それを見たパリの女たちがあちこちで放火して」「石油放火女」とおそれられるようになった、と書かれてあった。
 「石油放火女」の語源は、フランス語のPétroleusesで、パリ・コミューンから10年以上経過した1885年に刊行されたドイツ語の百科事典では、コミューン側の女性たちが石油をまいて「石油放火女」と呼ばれたのは「伝説」であると書かれてあったと記憶している。現在、手もとに事典のコピーがないのだが、かつて、この事典の「石油 Petroleum」の記述を見て、次のように書いたので、多分そうだと思う。

「パリ・コミューンの最終局面で、パリ市内に火災が発生したのは、コミューン派の女性が石油を用いて放火したのだ、というまことしやかなうわさが、パリ・コミューンの崩壊直後に流れ、その後、石油は社会主義者などによる放火の象徴となった」(田中ひかる「描かれたアナーキスト―19世紀末のアナーキスト像に見られる近代市民層の時代認識に関する考察」『歴史研究』392001年、115-162125ページを参照)。
 
  当時、同時に参考にした、リサガレー、喜安朗・長部重康訳『パリ・コミューン―1871年コミューンの歴史』上・下(現代思潮社、1969年)でも、次のように述べられていた。
 
 「リサガレー氏はすでに600ページにのぼる、『1871年コミューンの歴史』を著された。したがって氏に長々とインタビューをする必要はなかった。われわれは、まずいくつかの小さな話を聞くことにする。
「女性たちは一定の役割を演じたのでしょうか」
「バリケードの後ろには多くの女性の姿が見受けられました。石油放火女(ペトロルーズ)についてはこれまでサラマーンドル[火の中に住むと信じられていた伝説の火とかげ]やエルフ[北欧神話にある、火や空気や地を象徴する小妖精]などと同じように、全く架空の存在にすぎなかったのです。軍事法廷は、ペトロルーズなるものの1人すらも人前に連れ出すことはできませんでした。この軍事法廷は多数の女性に有罪判決をいい渡しました。はっきりとした事件をあげて問われた者は誰もいなかったのです。ただ1人、ルイズ・ミシェルだけは例外でした。法官たちを前にして彼女は挑発的な態度で論争を挑み、告発者にたちむかっていきました」。」[『ルヴュ・ブランシュ』誌(1887)による「パリ・コミューンに関するアンケート」に対してリサガレーが寄せた回答より]リサガレー『パリ・コミューン』下、328頁。

 こういった記述を読んできた私にとって、「石油放火女」というのは、「井戸に毒をまいた朝鮮人」「井戸に毒をいれたユダヤ人」「井戸に毒をいれた女」と同じで、根も葉もない噂話でしかなかった。
 だから、これまでこう思ってきた。
 この「伝説」は、パリ・コミューンに参加した女性たちを放火の下手人であると決めつけ、彼女たちをおとしめると同時に、コミューンそのものをもおとしめるために使われた「伝説」ないしは「イメージ」である、と。
 ところが、ブレディみかこ氏による上の記述から、そうではない、ということを、栗原氏が書いているようであることがわかった。
 私の認識が間違っていたのだろうか? これは、人間の尊厳に関わることなので、調べることにした。

1.一般に共有されている「石油放火女」に関する理解
 まず、一般に、「石油放火女」ということばについて、現状ではどのような認識が広まっているかを確認するために、英語のウィキペディアの「Pétroleuses」にある記述を見ておきたい。

1870年代に書かれたマキシム・デュ・カン[Maxime Du Camp]によるパリ・コミューンの歴史、およびロバート・トムス[Robert Tombs]とゲイ・グリクソン[Gay Gullickson]を含むパリ・コミューンの歴史家による最近の研究は、「石油放火女」による放火はなかったと結論付けている。コミューンの終結後、コミューン派だという容疑で、ヴェルサイユで何千人もの人々が裁判にかけられたが、そのうち、ほんの一握りの人々だけが、何らかの犯罪に関わったという理由で有罪判決を受けたが、そういった有罪判決の根拠は、ヴェルサイユ軍を射撃したという行為であった。公式の裁判記録によると、放火で有罪判決を受けた女性は誰もいなかったこと、放火で告発された場合でも根拠がないことがすぐに証明されていたことがわかる。コミューンの最終局面で破壊された建物は「石油放火女」によってではなく、コミューンの兵士たちによって全焼されたのである。市役所、 司法宮、チュイルリー宮殿、その他の政府の建物や権威の象徴は、退却するコミューン軍によって焼かれた。 リヴォリ通り沿いのいくつかの建物は、コミューン軍とヴェルサイユ軍の戦闘中に全焼した。グリクソンの説が示唆しているのは、「石油放火女」の伝説が、ヴェルサイユ側の政治家による宣伝キャンペーンの一部であり、彼ら政治家たちは、パリ・コミューンに加わったパリの女性たちを、異常で破壊的で野蛮なものとして描くことで、「異常な」コミューン派に対して共和政府側の軍隊が道徳的に勝利したと主張した、ということである。」

 歴史的な図像に関してフランス語で解説しているサイト「イメージの歴史」でも、2016年に書かれた記事で、当時、図像として広まった「石油放火女」は「神話」であると述べられている。

では、栗原氏は、どのように描いているのか。「石油放火女」の謎(2)につづく)。(文責:田中)

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