2019年4月18日木曜日

評者のんきちさんへのインタビュー(2):栗原康『アナキズム―一丸となってバラバラに生きろ』の書評(その4)

評者へのインタビュー(2)(評者へのインタビュー(1)の続き):書評(その3)

タ:「アナーキストでもない船本洲治」について言及されることについても、違和感を持ったようですが、のんきちさんにとって、船本洲治が、「トイレ」以外のことで、「アナーキスト」ではない、と思うところがあったら、教えてください。

の:アナーキストかアナーキストではないか?は自称しているか、していないかの違いだと思うのですよね。アナキズム人名辞典なんかにも、どう考えてもアナーキストではないような人名もあったり、例えば奥崎謙三なんかはアナーキストではないし、本人も否定したりしているにアナーキストになっているというか、アナーキストにカテゴライズされている。
ウドコックの『アナキズム』にもシュティルナーとか入ってますが、シュティルナーもアナーキストではないよね。あれも、無理から個人主義的アナーキストにされていたりで…
船本も自称していなかったように思うし、前にぼくらもアナーキストをヘイトする在特会みたいに言われたのですが、他からのレッテルと自称しているのは違うと思うのでトイレがどうたら、みたいな話ではなく、船本は自称していなかったという意味でアナーキストではない、といったのですが。

タ:アナーキズムというのは19世紀末から、「アナーキスト」と自称する人たちが、自分たちの考え方を「アナーキズム」と呼び始めてから始まると思います。「アナーキズム」という言葉の方が、使われるようになるのが「アナーキスト」という言葉が使われるようになるよりずっと遅くて、「アナーキスト」というのは、もともとはむちゃくちゃやる人、という意味でフランス革命ぐらいから、政治的な意味で相手を非難する言葉としてネガティブに使われていましたので。
 その過程で、「アナーキスト」を自称する人たちは、自分たちと似通った考えを持った人たちが、遠い過去にもいた、と考えて、シュティルナー、ゴドウィン、プルードン、農民反乱の指導者などなど、「アナーキスト」と名乗らなかった人たちを「系譜」の中に位置づけていったと思います。ですから、「アナーキストとは言わなかったけど、自分が考えていることと全く同じことを言っている人たちが過去にいた」ということで、老子も荘子も「アナーキズムっぽいことを言っていた人たち」ということになってきたのだと思います。
 そこからさらに、奥崎謙三やいろいろな前衛芸術家にも、「アナーキズムっぽいところ」がある場合、「自分の尺度から見てアナーキストっぽい人たちに見える」という意味で「アナーキスト」という言葉が使われてきたんだと思いますが。あるいは、「自分と全く同じことを考えている人」ということで、シュティルナーを「アナーキスト」と呼んだり。そういう使い方もだめなんでしょうか。
 逆に、「自称したらアナーキスト」で、その人の言っていることが「アナーキズム」になる、ということであれば、例えば、ミュージシャンの山下達郎が、「徒党を組めない、人とつるめない性格。心情的アナーキスト」と自称しているそうなんですが(「ライブに賭ける音の職人 ミュージシャン 山下達郎さん(59歳)」『朝日新聞be』2012年10月6日、1頁)、山下達郎を「アナーキスト」だと思いますか。
 それから、著者の栗原さんが「おいらはアナーキスト」と言ったら、のんきちさんは、栗原さんを「アナーキスト」だと考えますか。このあたりは、人それぞれなのですが、船本が「自称していない」ということで「アナーキスト」ではない、ということだと、そういうことにもなるような気がしますが、どのあたりがのんきちさんの基準なのか、教えてください。
 もう一つうかがいたいのは「アナーキズム」を語る場合、本書ではパリでマクドナルドを破壊する人々のエピソード(3-8頁)や、宣教師の言うことを聞かないで人肉を食べたり戦争をしたりするインディオのエピソード(35-38頁)、山形在住の女性でフルーツだけで数年間生きてきた人のエピソード(28-31頁)、ハイリゲンダムサミットに抗議するために集まった人たちのエピソード(77-80頁)などなど、「アナーキスト」と自称しているかいないかわからない人たちの話がたくさん出てきますが、「アナーキズム」を語る上では、こういう話も排除したほうがいいんでしょうか。それとも、これは「あり」でしょうか。そのあたりは、どう思われますか。

の:これはカテゴライズの問題になると思うのですが、アナーキズムにいい印象を持っている人は「おまえの言っていることや考えていることはアナーキストと一緒だ」と言われても、否定、肯定かはわかりませんが、そんなに怒らないと思います。では、例えば、ぼくらも『アナキズム』誌の「三バカ対談」で、アナーキズムに批判的なことをよくいっていたので、「在特会」と言われたことがあります(笑)。アナーキストをヘイトしているから、って(笑)。この場合はどうなるのでしょうか? 在特会にいい印象を持っていない、ぼくらは当然、反発しました。なんで、ぼくらが在特会やねん、って。奥崎はアナーキストって言われて反発していたように思うし、船本もたぶんアナーキズムよかコミュニズムに近いと考えていたように思います。
山下達郎がアナーキストかアナーキストではないかは、ぼくにはわかりませんが、徒党を組むとか人とつるめないとか、今でいう陰キャな性格とアナーキズムは、あんまし関係ないような気がしますし、彼はブルーズが嫌いじゃないですか? ブルーズが嫌いなアナーキストもなんか違うような…(笑)。だって例えばロバート・ジョンソンなんか、クロスロード伝説にしろ殺され方にしろ、すごくアナーキーじゃないですか?
後半の栗原の書いているエピソードですが、こういう話を排除するとかしないとかは、ぼくにはわかりません。たぶん、栗原がおもしろいと思って書いているわけなので、なるほどと思われるエピソードもあれば、ふーん、くらいのエピソードもあったりですが、なんか、なんでもかんでもアナーキストにするのなら、例えばニューオリンズの洪水でスーパーで略奪する人はアナーキスト? 仮にそのスーパーがウォルマートみたいな労働者から搾取し経営者一族だけが強欲な大金持ちからの再分配と考えれば(強欲からの強奪)アナーキズムに近いのかもですが、ぼくは、そういう人たちをアナーキストと考えません。結局のとこ、適当なレトリックを考えて、これもアナとかいえば、なんでもアナーキストになると思う。上記でも言いましたが、単なるミュージシャンのロバート・ジョンソンだってアナーキストにしようとすれば、それなりにアナなるようにも思うし…

タ:おそらく、山下達郎は、「アナーキスト」と呼ばれたら、自称しているから、きっと怒らないと思うので、のんきちさんの基準から見たら、「アナーキスト」だと思うんですが。逆に、ロバート・ジョンソンやスーパーの略奪をした人は、「アナーキスト」と呼ばれたら、アメリカでは、19世紀以来、「アナーキスト」は人殺しで犯罪者というイメージで定義されていますから、きっと怒るのでは、とも思いますが・・・、次の質問にすすみます。
 本書『アナキズム』で出てくる船本洲治の話と「だまってトイレをつまらせろ」という主張ですが(170-173頁を参照)、著者(=栗原康)のこれ以前の著作で最初に出てくるのは、「だまってトイレをつまらせろ」『はたらかないで、たらふく食べたい―「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス、2015年、190-215頁)だったと思います。のんきちさんは、本書(『アナキズム』)の170頁以降を読んでから、2015年の「だまってトイレをつまらせろ」のほうを読んで、船本洲治の主張に関する著者の理解を知った、ということだと思いますが、『アナキズム』を読むのと、2015年の文章を読むのとでは、著者の主張について、印象は変わりましたか。それとも同じですか。ちなみに、朝日新聞の記者が、「トイレ」の話を好意的に取り上げたこともあり、知られることになったような気もしますが(深沢明人「だまってトイレをつまらせろ?」)。

の:同じですね、書いていることに、そんなに差異はないように思いました。ただ、「生の負債…」のほうの、生まれてはじめて山谷にいくの体験談は、事実なんでしょうが、よくある運動に入った経緯、みたいなのでつまらないです(笑)。
あと、朝日新聞のえらい人は、きっと自分の使っている社内のトイレを掃除したことはないと思いますよ(笑)。朝日新聞を長いあいだ購読していましたが、最近、購読をやめたのですが、やめてよかった、(笑)。

タ:「アナーキストの若宮正則」とお書きになっています。若宮正則はもともと赤軍派で1970年代には爆弾闘争のようなことをやっていたひとですよね。出獄して1980年代には釜ヶ﨑で労働者食堂をやっていた、ということです(高幣真公『釜ケ崎赤軍兵士 若宮正則物語』彩流社、2001年を参照)。若宮のことを「アナーキスト」を呼ぶのはどうしてですか。「反逆的で攻撃的で行為の宣伝的」な船本の方が「よりアナーキズムの考えに近いのかもしれませんが」とも書いていますよね。でも、「若宮の黙ってトイレの掃除をしている行為のほうが感銘を受けたし影響も受けた」のはどうしてですか。

の: 若宮さんは、ぼくがあったときにはアナーキストって自称されていたしアナ連にも参加されていたので、アナだと思っただけで、それ以上の他意はありません。
若宮さんは、赤軍時代は爆弾闘争なんかもしていたのでしょうが、ぼくらが出会った頃は、思想的なこともあまり話さず、釜ヶ崎赤軍の本に書かれていたような印象とはまったく違った感じでした。

タ:「つまらないイデオロギー(アナーキズム)にとらわれて、いつもそのトイレなどを掃除している人たちのことを、まったく思慮に入れず、サポタージュ?はいはい、えらいですね、さすがアナーキスト」という感想を持った、ということですが、著者(=栗原康)が「つまらないイデオロギー(アナーキズム)にとらわれて」いる、という点について、なぜそう思ったのか、もうちょっと説明できませんか。

の:あ、これは誤解があると思います。イデオロギーがつまらないとか、くだらないとか思っているのは、ぼくであって、栗原は思っていないと思います。だから、大杉や野枝の話を改ざんしてまで、自分の都合のいいように捻じ曲げる*(注)のでしょうから。栗原はアナーキズムに縛られるな、と言いながらアナーキズムに縛られているよね。
*(注)この点については、あとの質問で出てきます

タ:「いつもそのトイレなどを掃除している人たちのことを、まったく思慮に入れず」ということは、著者は書いていませんが、そういう意図が、著者の記述から感じられた、ということであれば、その点について、もう少し説明してください。

の:これは、ぼくが勝手に思ったことで、トイレをつまらせるのはトイレットペーパーをおかない経営者に対する反逆ですよね。でも、それとは別のベクトルで、そのトイレを掃除している人もいる可能性もあります。仮に掃除をしている人がいる場合には、その人に対してどうなの?みたいな…人として同じような労働環境にいて、その人に対して失礼では?と思うのです。最近、ぼくの職場でも問題になっている事例なんですが、何人かの職員が自分たちもトイレを使っているのに掃除をしないのですよね。なんで掃除しないかというと 1、特に汚れていても気にならない 2、したい人がすればいい 3、掃除をすることに思い至らない、などですが、これが掃除をしている人からしたら、かなりむかつくのです。
それで「おめえら何様やねん?」って電話でどなりました、(笑)。
あと、3の「思い至らない」のはどうしてかというと、家庭では母親や女性のパートナーなんかがやっていることが多いので、トイレ掃除に対して理解がないというか、わからないのだと思います。トイレをつまらせる発想自体が、かなり男性原理なんだと思うのですが…
これと同じで、船本の思想にはトイレを掃除する人の視点がないし仮にあっても自分の闘争のほうが大事なんでしょう。ぼくはこういった考え方や、オルタナティブな視点に対して思い至らない奴らが大嫌いです。ルンプロからの異議申し立てをしているのなら、トイレ掃除労働者の視点も入れろよ、と思います。そもそも、このトイレ話の始まりは、弱者はどうするねん?から入っているのですが、なぜ、その弱者にトイレ掃除する人は入れてもらえなかというと、単に上記の3の思い至らないのだと思います、栗原も船本も朝日の高橋もです。あと、船本が活動していた70年代には、すでにポケットティッシュを街頭で無料に配り始めているのですよね。なので、それもらえばすむ話では?と思うのですが…経営側もわざわざトイレ2個作るより安くつくのでポケットティッシュをもらってくればいいのにと考えてしまいます(笑)。

タ: 著者は「相互扶助」についても第5章「あらゆる相互扶助は犯罪である」で書いていますが、若宮の「相互扶助」と、著者の描く「相互扶助」の違いがあるとお考えでしょうか。

の:若宮の相互扶助は相互扶助ではなく、ほぼ一方的扶助だったと思います。栗原の「あらゆる相互扶助は犯罪である」はアナーキズム革命みたいなのが構築できた中では犯罪はない、みたいなパラドックスなんですかね?なんかいくら読んでも、なにがいいたいのかわからないのですよね。相互扶助に対してダブルミーニングみたいに書いているのですかね?なんでコミュニズムが相互扶助なのかもよくわかりません。

タ:「自分が勤務しているガッコや、この新書を出している岩波書店のトイレをつまらせて、逮捕されたら警察や拘置所のトイレをつまらせ、ついでに裁判所のトイレをもつまらせるくらいのことをしてくれれば、かなり有効なのかもしれません」と書いていますが、著者が本気で「だまってトイレをつまらせろ」と読者に要求している、と感じましたか。

の:栗原は船本の「トイレをつまらせろ」を引用し、それをシンボリックに語っているのでしょう。トイレ闘争のようなことを職場とかガッコみたいな場でやっていけば、なんらかの自由みたいなものが得れるのか、あるいは得れないのかは知りませんが、なんか、違うよね?みたいな印象しかありません。上記にも書いたアナ系の飲み会で聞いた話ですが、ある友人の職場にいるアナーキストが、栗原の本を真に受けてトイレはつまらせていないそうですが、いいかげんなことばかりするので、〇〇〇〇〇〇を導入され、それも壊せとかいって大変迷惑していると言っていました。結局のとこ、トイレを壊せ的なのを実践していけば、労働強化につながり周りの人にも迷惑をかける可能性もあるわけですが、これを単に経営側が悪いからというレトリックにもっていくことも可能ですが、それもなんだか違うように思うのです。結論的にいうと、その違いって船本州治と若宮正則の違いなんだと思いますが、これはどちらがすごいとかではなく、スタンスの違いとは思います…。ちなみに、若宮と一番関係があった知人は文献センターの書評で、この栗原の本をほめています。なんか、それがぼくにはなんでなのかはよくわかりませんでした(高橋幸彦「書評『アナキズム』栗原康/岩波書店」『文献センター通信』45号、2018年12月31日、12頁を参照)。(評者へのインタビュー(3):書評その5に続く)

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