2019年4月11日木曜日

「石油放火女(Pétroleuses)」の謎(2):栗原康『何ものにも縛られないための政治学―権力の脱構成』(角川書店、2018年)における記述に基づいて


ブレディみかこ氏が言及していた栗原氏による記述は、次の箇所であろうと思う。

「ふとあたりをみまわしてみれば、コミューン兵がバシバシとヴェルサイユ軍に虐殺されている。兵隊ばかりじゃない。女も子どもも、おまえもか、おまえもかと、ムダにぶち殺されているのだ。殺戮、殺戮、殺戮だ。ああ、ああ、あああああああああ!!! ああ、ああ、あああああああああ!!! パンパーンッ。ルイズ、覚醒だ。なにをおもったのか、どこからともなく石油をかっぱらってきて、ヴェルサイユ軍がはいっていた建物に、ビシャビシャッ、ビシャビシャッとまきまくった。そして、火を放ったのだ。地獄の炎がいまときはなたれた。オーオーオオッ、オーオーオオッオー、オーオーオオッオー。オーオーオオッ、オーオーオオッ、オーオーオオッオー。ギャア!!! ヴェルサイユ軍がいっせいに焼け死んでいく。それをみながら、ルイズはこうさけんだ。「あの怪物どもを燃やしつくせ! 燃やせ!燃やせ!燃やせ! ヤレ!ヤレ!ヤッチマエー!」。
 それを聞いたパリの女たちが決起する。そうだ、その手があったか。ミルク瓶に石油をいれて、ヴェルサイユ軍が建物にはいると、とにかくまいては火をつけ、まいては火をつけと、ひたすらそれをくりかえした。燃やせ!燃やせ!燃やせ! ヤレ!ヤレ!ヤッチマエー! パリ中に火が燃えさかる。パリが火の海になった。実はこの攻防戦で、ヴェルサイユ軍がいちばんおそれたのが、この女たちだったんだという。どこからともなくやってきて、平然と火をはなってさっていく。こわすぎだ。マジヤベエ。パリの女どもはバケモノだぞと、そんなうわさがはびこった。そしてこの女たちをさして、こんな悪名がつけられることになった。石油放火女(ペトルーズ)。伝説の誕生だ。もちろんこれ、女たちをディスってひろめられたことばなのだが、どうだろう。こんなイカした名前をつけられたら、みんなこうおもっちまうんじゃないだろうか。おら、石油放火女(ペトロルーズ)になりてえ。おらも、おらも!」(栗原、前掲書、200-201頁)。

 栗原氏が、ルイズ・ミシェルとパリ・コミューンについて書く際に参考にしているのは、どうやら、以下の文献のようである。

ルイーズ・ミッシェル、天羽均・西川長夫訳『パリ・コミューン』上・下、人文書院、1972年。

これは、ルイズ・ミシェルが1898年に刊行した、パリ・コミューンに関する回想録である(西川長夫「解説 ルイーズ・ミッシェルとパリ・コミューン」『パリ・コミューン』上、241頁)。

 なお、同書では 「ルイーズ・ミッシェル」と表記されているが、今日、一般的には「ルイズ・ミシェル」と表記されるので、以下では、こちらを使う。

 『パリ・コミューン』には索引がないため、Pétroleusesがどこに出てくるかわからないのだが、同書のフランス語のテキストがウエブ上にアップされているので、それをダウンロードしてPétroleusesを検索すると、4箇所ヒットする。それほど多くはない。
 その箇所に対応したページを、上記の翻訳から探すと、以下の箇所だとわかる(「石油放火女」には下線を引く。また、(ペトロルーズ)は、実際にはルビである)。

1「石油放火女」(ペトロルーズ)にかんする気ちがいじみた伝説がひろめられた。石油放火女など存在しなかったのだ。―女たちは雌獅子のように戦った。しかし、「火を放て!あの怪物どもに火をかけろ!」と叫んでいたのは私くらいのものだった。
 石油放火女だと言いふらされたのは、女性の戦闘員などではなく、占領された地域で、子どもの食物をさがしにいくように見せかけて何か道具(たとえばミルクの罐)をもっていれば安全だと考えた気の毒な母親たちだった。ところが彼女たちは石油を運ぶ放火犯人と見なされ、銃殺された。そして子供たちは母親の帰りを長い間待っていたのだ!
 母親の腕に抱かれた子供たちの幾人かは母親と一緒に処刑され、歩道の両側に死骸が並べられた。
 あたかも子供たちが母親に向かって、灰燼に帰したパリで敗残の身をさらすよりは死をのぞむ、とでも言うことができたかのようではないか!(ルイーズ・ミッシェル、前掲書、下、96頁)。

2)コミューンが陥ちると同時に、殺戮にひきよせられ正規軍のあとについてきたあの屍肉を食らう返り咲きの魔女たちが、墓場の蠅よりさらに早くあらわれた。彼女たちもおそらく遠い昔であれば、血に怒り血に酔ったたんなる気ちがい女にすぎなかったのであろう。
 彼女たちは優雅に着飾り、屍肉の間をうろついた。彼女たちは死者を眺めては楽しみ、死者の血だらけの目を日傘の端でつついた。
 この女たちの幾人かは、石油放火女(ペトロルーズ)と間違えられて、外の人々と一緒に銃殺され、山をなす死骸の上に積み重ねられた(ルイーズ・ミッシェル、前掲書、下、106頁)。

3)わたしたちはシェンチエの監獄でも、いぜんとして故意に私たちの仲間にいれられた手先の女たちを見出した。
 シャンチエは、とりわけこのはじめの時期には、居心地のよい監獄ではなかった。
 昼間、座ろうと思っても、地面の上に座らなければならなかった。ベンチが持ち込まれるのはずっと後である。アペールが私たちの写真をとるときに、中庭のベンチが入れられたのだと思う。この写真は外国で売られ、『イストリック』誌のある号にのせられたが、「石油放火女(ペトロルーズ)と歌う女」という見出しがついていた。アペールの写真には両側に私たちの名前が記されていて、私たちの家族を安心させた(ルイーズ・ミッシェル、前掲書、下、133頁)。

 以上のうち、最も重要な記述は(1)であり、中でも以下の部分である。
「石油放火女など存在しなかったのだ」。
・「石油放火女だと言いふらされたのは、女性の戦闘員などではなく、占領された地域で、子どもの食物をさがしにいくように見せかけて何か道具(たとえばミルクの罐)をもっていれば安全だと考えた気の毒な母親たちだった。ところが彼女たちは石油を運ぶ放火犯人と見なされ、銃殺された。そして子供たちは母親の帰りを長い間待っていたのだ!」
・「母親の腕に抱かれた子供たちの幾人かは母親と一緒に処刑され、歩道の両側に死骸が並べられた」。

 つまり、ルイズ・ミシェルは、女性たちが石油をまいて放火した、という噂話がまったくのデマであるだけでなく、そのデマのせいで、彼女たち、そして彼女たちが抱いていた子供たちも、ヴェルサイユ側の兵士たちによって虐殺されていった、ということを、ここで告発している、ということになる。

 これに対して、栗原氏が描く以下の「石油放火女」のイメージに相当する記述は、ミシェルの著書からは見つけ出すことができなかった。

「どこからともなく石油をかっぱらってきて、ヴェルサイユ軍がはいっていた建物に、ビシャビシャッ、ビシャビシャッとまきまくった」、「それを聞いたパリの女たちが決起する。そうだ、その手があったか。ミルク瓶に石油をいれて、ヴェルサイユ軍が建物にはいると、とにかくまいては火をつけ、まいては火をつけと、ひたすらそれをくりかえした」

 ここで栗原氏は、(1)の記述とは全く逆の「事実」を描いている。これによれば、「石油放火女」は実在した、ということになる。実際、ブレディみかこ氏は、「実際にあったこと」として、この点に言及しているようである。
 しかし、ミシェルが否定するような「事実」を描くこの栗原氏による記述は、一体何を根拠にしているのだろうか? 「石油放火女」の謎(3)に続く)(文責:田中) 

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