書評(その2)からの続き:評者のんきちさんへのインタビュー(1):書評(その3)
では、のんきちさんに、私(タナカ)から、以上の感想について、もうすこし細かく説明をしてもらうようにしていくつか質問をしていきます。
タ:「アナキズムにも縛られるな」という点についてです。のんきちさんは、「常にぼくが思っていたこと」とお書きになっていますが、それはどうしてでしょう。もうちょっと説明してもらえませんか。
の:アナーキズムに限らず、すべてのイデオロギーがクソだと思うのですよね。思想や宗教なんかが人と人の対立を呼び、こんなので命までかけて、ほんとバカとしかいいようがない。
それに同じイデオロギーでも些細な違いで対立したりしているじゃないですか。これって、なんですかね?
アナーキズムには、なんていうか、そういうくだらない対立構造から逃れられる唯一の思想ではないか?とか考えていましたが、最近は他のイデオロギーと同じだったんだなあ?とか思っています。今回の栗原の「アナキズム」の宣伝文みたいなのに「アナキズムにも縛られるな」みたいなのがあったので、それなりに期待したのですが、なんというか、今までのアナキズムのくだらねえとこを凝縮したような内容でがっかりです。
タ:のんきちさんにとって「イデオロギー」とはなんでしょうか。「人と人の対立」や「命までかけて」という考え方、みたいなことでしょうか。それから、アナーキズムは「くだらない対立構造から逃れられる唯一の思想」ということですが、例えばどういうところで、そのように思っていますか。本書が、「今までのアナキズムのくだらねえとこを凝縮したような内容」だということですが、たとえば、それはどういうところでしょうか。
の:イデオロギーって考えかたですよね? 単なる考え方なのに、いろんな概念を作って、そこから様々なルールを作って、最後は神や王様まで作ってしまうのですよね。それで少しの差異をみつけだし、最終的には殺し合いまで発展していく。権威や権力的なものの構築が支配、被支配になると思うのですよね。で、アナーキズムって、ぼくが勝手に思っているだけなんですが、萩原朔太郎が書く「辻潤と低人教」*(注)みたいな感じで、教祖といえども権威や権力的にならず、反対に信者からボコられていたりで、あらゆる権威・権力から自由になれるように考えていたのですが、アナーキズムも実際には、いろんな権威な人がいたり、とにかく上からもの言う人が多いですよね。ちなみに辻はアナーキストではないです(笑)。*萩原朔太郎「辻潤と低人教」
タ:そうなると、本書でも、概念やルールを作り出して権威や権力的なものを構築する考え方に「縛られている」というように思えた、ということなんですね。では、そういう「考え方」を前提にしながら、「上から」ものを言っている「上から目線」のところがありますか。
の:「上から目線」っていうのは、163ページの質問(「あんたら、たのしそうにアナキストがあばれたはなしをしているけど、ボクみたいな弱者はそんなことできないんですよ。あんたら、自分たちだけ好き勝手にやっていればいいんですか? もっと弱者によりそうべきじゃないんですか? みんなでいっしょに行動できないようなことをするのは、強者の論理なんじゃないですか?」)を受けても「めんどくさい」とか言っているところですかね? これあえて言っているだけです。そもそもこの本自体が、擬音やひらがなの多用でごまかされているのですが、説教くさいのですよね。なんでかというと、「めんどくさい」といいながら、ていねいに答えようとしているからなんですよね。アナーキスムのエバンジェリストみたいな感じでうざいですね。
タ:「エヴァンジェリストevangelist」というのは、キリスト教の伝道者で説教師のことですね。「これを信じろ」みたいなところがある、ということでしょうか。
の:たとえば、アナーキストのステレオタイプ像、どうなんですか? 83ページの「アナキストっていうのは、集会でえらい人がしやべってっても興味なんてないから、ビール飲んでるだけなんだけど、警官がきたらテンションがあがっちまうんだ」って書いてあるけど、ぼくも、いろんなとこで、それなりにデモとか集会、スクワットにも参加してきたけど、栗原のいうようなステレオタイプなアナもいるけど、どんな人が発言していても熱心にきいているアナもいれば、おまわりさんがきても特に関心をしめさないアナもいるよ(笑)。っていうかアナだけで、なんかやっているのって、あんまないように思うのですが…
タ:本書の著者が、現実と矛盾するような「ステレオタイプ」なアナーキストのイメージを描いて広めようとしている、というご意見でしょうか。では、それとは違う点についてご質問します。感想文の中にある、「ベタなお笑い、しょっぱいプロレス」「寒々しい読後感」というのは、どういうところから感じたんでしょうか。具体的な記述があったら、ところどころでいいので、挙げてもらえませんか。それから、私は「ベタなお笑い、しょっぱいプロレス」という言葉の意味が、今ひとつよくわからないので、できたら説明してください。
の:ベタなお笑いは、自分ではおもしろいと思っているのでしょうが、見事にすべっていているようなのです。笑いを強要されて、聞いているこっちが恥ずかしくなるようなのです。
しょっぱいプロレスは、プロレスの試合が作れない人ですね。例えば一方的に攻撃して勝ってしまうとかです。プロレスができないプロレスラーっていうか、ようは相手との抗争に物語を作れないプロレスラーです。
それで具体的って引用するのもイヤなんですが「ビバ、エコ・アナキズム!えっ、人類死滅だって?アツチョンブリケ。そいじゃ、またつぎの章でおあいしましょう、チャオ!」(『アナキズム』66頁)って引用していて恥ずかしくなります(笑)。よく、こういうイタイ文章が書けるよね。
タ:「ひらがなが多い」というのは、評価している、とお書きになっていますが、もう一方では、「文体がうざすぎる」ということもお書きになっていますね。それから、「時々出てくる、擬音みたいなのが気になって読みづらい」ということも。これは、前のお笑いとかプロレス、という話とはちょっと違っていて、日本語の表記や表現の問題だと思いますが、どのあたりが、「うざすぎる」「読みづらい」と感じたのか、具体的な記述があったら、一部でいいので教えてください。
の:具体的って…(笑)。上記でも一部、書き写しましたし、書き写して思ったのですが、一つは、この意味のない擬音がアナーキズムの象徴なんですかね?あと、もう一つの意味はトラップ?とか考えてしまいます(笑)。
この擬音のせいで何を書いているのか、文章がなかなか頭に入ってこなくって、変な誤解をさせて、その誤解のもとに批判したら「残念でした、この文章の趣旨はこういうことでした」みたいなトラップ(笑)。でも、あと、少し前に田中さんとか、そのほかアナ系の人たちと飲んだときに、一人称で「おいら」とか使っているのにロクな奴はいない(笑)みたいな発言を誰かがしていましたが、なんか、わざとらしいというか、こっちが赤面するような文章ですね。(インタビューその2:書評その4に続く)
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