2022年7月8日金曜日

広島集会の開催決定について August 6 th Anarchist Gathering will be held in Hiroshima

 2022年8月6日に、2年ぶりの広島集会を開催します。

スケジュールは以下の通りです。

1.8時前に原爆ドーム前で宣伝活動

2.10時から、デモ行進

3.13時から17時頃まで 広島市内で集会。参加を希望する方は、以下までメールで連絡をください。joh.most@gmail.com  あるいは、自由労働者連合までご連絡を。https://federaciodechifonproletoj.wordpress.com/

今年の集会のテーマ(仮):原爆投下後の「復興」と被災者・避難者による自立的コミュニティの可能性を考える

 広島市は、原爆が投下されたにもかかわらず、人びとの努力で急速に「復興」した、と考えられてきた。実態として「復興」は、行政主導であり、連合軍による占領下という状況の中で、莫大な予算を獲得することを通じて実現されたものである。
 しかしながら、このような「復興」のストーリーの中では、原爆投下後、がれきの中に家を建て、生活を始めた人びとが多数存在し、広島による「復興」という計画に基づき、彼らがその場所から退去させられたことや、それにも関わらず、1970年代に至るまで、のちに「原爆スラム」と呼ばれる、被災者や避難民たちを中心とする巨大なバラックの集落があった、という事実は忘れ去られてきた。
 今年の集会では、この問題に関してこれまで検討してきた仲間たちによる報告を通じて、これまで見過ごされてきた、バラック生活によって自立的なコミュニティを形成した、被災者・避難民に光を当て、彼らが行政の支援抜きで自立的な生活と相互扶助の実践を展開したという事実を明らかにし、戦後の広島における「復興」の歴史そのものの再検討を行う。
 今日、日本も含め、世界各地では、戦争・内戦・自然災害あるいは行政主導の都市再開発により、住居と生活を失う人びとが無数に存在する。今年の集会では、原爆投下後の「復興」という従来の物語からは見えない、一人一人の被災者・避難民の姿と、彼らの自立的な生のあり方に光を当て、行政主導ではなく、その土地に生きる人びとの主体性に基づく生活の再建とは一体何であるのか、という問題をとらえなおし、今日、グローバルな規模でアクチュアルになっている資本と国家による排除と抑圧に抵抗する「生活」という課題に、多くの示唆を与えることを目指す。

 以下は、「1」で配布予定のビラの内容です。それでは、今年の8月6日は、広島でお会いしましょう。--------------------------------------------------------------------------------------------

皆さん、ごきげんよう!

 健やかな毎日をお過ごしでしょうか。うどんそばよりあなたのおそばの『8.6広島集会実行委員会』です。ハチロクさんって呼んで下さいね。ハチキュウさんではありませんよ!! ビラを捨てずに最後まで読んで下さい!!
 さて、私たちは毎年8月6日の平和祈念式典のあり方について異議を唱えてきました。それには次のような理由があります。

ポイント1 言っているそばから戦争が進められていること

 私たちはこの平和祈念式典で強調される核兵器の廃絶、世界平和を聞くたびに不思議に思うことがあります。

 核兵器をなくした方がいい、世界中から戦争がなくなって欲しいと言っているのに、じゃあなんで呉基地があるのでしょうか。岩国基地がなんで拡張されるのでしょうか。さらには今年の2月にはじまったロシアとウクライナの戦争に乗じて改憲の機運が高まっています。憲法9条が広島・長崎への原爆投下と戦争への痛苦の反省の上にあるとされるのならば、改憲はありえないのではないでしょうか。

 今年も広島選出の岸田首相はこの広島から全世界に向けて平和アピールを発信します。みなさんもご存じのように核兵器禁止条約に後ろ向きの態度をとる岸田首相のアピールが何か言ってる感だけの中身のないものであることは明らかではないでしょうか。皆さんは岸田首相のアピールに共感できますか。

ポイント2 死者を束ねてはいけない。

 1945年8月6日の原爆投下によって約11万人、資料によっては約14万人とも20万人とも言われる人々が死亡しました。諸説ありますが、私たちはアウシュヴィッツ強制収容所150万人、南京虐殺30万人の犠牲者と言われると、まずその数の大きさに耳目を奪われてしまうことが多々あります。
 ここが重要なところなのですが、本当はそこで生きていたはずの一人ひとりの顔や名前が大きな数の中に隠蔽されてしまうことになるのではないでしょうか。

 さらに付け加えるならば、この当時広島にいたアメリカ人捕虜も日本にむりやり連れて来られた朝鮮人や中国人も、そして日本人も全部ひとまとめにしてしまうことになりはしないでしょうか。原爆投下の前ではアメリカ人も日本人も朝鮮人も中国人もみんな同列にしてもいいものなのでしょうか。

ポイント3 広島の歴史を忘れてはいけない。

 これは非常に悲しいことですが、広島に原爆が投下された時、シンガポールの人々は「これで戦争が終わった!」と歓喜の声をあげました。

 というのは、1941年12月8日未明のハワイの真珠湾攻撃と同時に広島に拠点を置く陸軍第5師団はイギリス領マレー半島に上陸します。翌年の2月15日にシンガポールを陥落させ『昭南島』に改名、時計は1時間30分進められて東京時間に合わせられました。

 4分割されたシンガポールの中部を第5師団が管轄したのです。日本軍の捕虜となり泰緬鉄道建設の強制労働を強いられた元オーストラリア兵士のアスピナル氏はこのように語ります。

「私の日本人に対する気持ちは…依然、嫌悪の一言に尽きる。もし日本人が道を歩いてくるのを見たら、ぶん殴るか、顔に唾を吐いてやりたいという抑え切れない怒りがこみあげる。もちろんそんなことはしたことがないけれど、激しい憎しみを持っていることは確かだ。それは自分でもどうにもならない気持ちだ。この憎しみは、彼らの私に対する個人的な仕打ちに対する怒りというよりは、東南アジア全域で、日本人がしたことに対する怒りである。私は日本人が嫌いだ。この気持ちが変わるとは思えない。日本語が聞こえたら私はそこから立ち去るようにしているし、日本人がいそうなところは避けるようにしている」

 平和祈念式典では広島への原爆投下の惨劇を主張することはあっても広島の軍隊によって暴力を振るわれた人々の姿に思いをはせることはありません。今もアジア各地には『Rōmusha』という言葉が残っていますが、これは日本軍が強制労働で使った『労務者』が語源です。

まとめ
 このビラもあともう少しです。最後までがんばって読みましょう。今日のビラでは3つのポイントをあげて書いてみましたが、では皆さんはこれから具体的にどのようにしていけばいいのでしょうか。
 その一つ目は言ってる感だけの岸田首相に断乎抗議しましょう!あやまちは繰り返しませんというのならば、核兵器禁止条約に後ろ向きの態度を取り、改憲を言う岸田首相に抗議しなければなりません。 
 二つ目は原爆犠牲者というような大きな言葉で死者に向き合うことはやめることです。繰り返しますが、原爆で死亡した人たちには一人ひとり顔があり名前がありました。死んだ者の顔を思い出し、名前を呼ぶ、そして歳を数える。それが死者に向き合うことではないでしょうか。そこをうやむやにしたところで死者に向き合って何の意味があるのでしょうか。      

 三つ目はそもそもなぜ広島に原爆が投下されたのかについて問うことでしょう。先にお伝えしたように今も岩国基地や呉基地がある広島は、近代以降一貫して軍事拠点です。日清戦争の時には大本営が置かれて臨時の首都にもなった軍都そのものでした。

 このように広島の歴史をたどってみるなら原爆投下がたまたま偶然によるものではないことは明らかです。戦後、日本政府は広島・長崎を強調しながらアメリカの核兵器を黙認してきました。

 今回のロシアとウクライナの戦争で核兵器の使用がいまだかつてないほどに緊張が高まっています。自分たちのことは棚上げしてロシアを非難することは、来年の広島でのG7サミットの開催は国際平和都市広島の本性・実態を現わした行事だといえるのではないでしょうか。

今日のビラはここまでです。それではこの次にお会いする時まで健やかな毎日をお過ごし下さい。
 

 

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