2016年4月18日月曜日

対談:フィリピン・アナキズムについて ~Jong Pairez(ジョン・パイレズ) & Bas Umali(バス・ウマリ) Interview with Jong Pairez and Bas Umali about Anarchism in the Philippines



対談:フィリピン・アナキズムについてJong Pairez(ジョン・パイレズ) & Bas Umali(バス・ウマリ)~
本インタビューは、元々ドイツの書籍»Von Jakarta bis Johannesburg: Anarchismus weltweit« 掲載用に2010年に行われた対談です。本文がオリジナルの英語版となります。Translated by K.

Q. ここ10年ほどの間で、フィリピンにおいてアナキズム・ムーヴメントが急激に活発化してきたようですが、その概要を教えてください。

Jong:近年、フィリピンにおけるアナキズムについていくつか文章が発表されています。そのほとんどは主要フィリピン左派の伝統とは異なる方向にある闘いと組織化のオルタナティヴな形態についての考察と見込みという内容になります。特記すべきものとしては、Bas Umaliの『フィリピン・アナーキズムの再生 群島連合、すなわち代表制と国家政治を超えたオールタナティヴな政治構造や、Marco Cuevas-Hewittの『植民地終了後の従属に関する群島の詩論についての素描(Sketches of an Archipelagic Poetics of Postcolonial Belongingあたりでしょうか。これらの書物はともに、統合国家の建設を目指して連帯する左派と政府の両方により見過ごされがちな多種多様性、および、分散された横型政治形態の重要性を謳っています。Marco氏は「ここで言うところのナショナリズムは「内的帝国主義」とも捉えることができるであろう」と指摘しています。

こうした素晴らしい論理展開がなされる一方で、必ずしもいつも実践に移されるというわけではない。ただ単に、フィリピン社会の様々な領域でアナキスト的な思考態度を発信し得るムーヴメントはまだまだ初期段階にあるということを付け加えておきたい。この状況に中で、真摯に受け入れ、考察しなければならない短所や欠点は確かに多く存在する。しかしまた一方で、これらの短所や欠点は、勃発期にあるアナキスト・ムーヴメントにとってポジティヴな強味としても捉えることができる。というのも、創造的に実験を繰り返し、間違いから学ぶ機会を多く与えてくれるものと信じているからです。

Q. あなた方の視点から見て、アナキスト的な側面がある歴史的ムーヴメントはこれまでフィリピンに存在したことがありますか?

Jong:ヨーロッパや東アジア、とりわけ日本のアナキスト・ムーヴメントと比較してみると、フィリピンは近代アナキズムの慣習や、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアナキスト・ムーヴメントは皆無だったと言っても過言ではないでしょう。

19世紀末、そして20世紀初頭にかけて展開されたスペインとアメリカの帝政に対する反植民地闘争の頂点において、革命的な政治グループは国家解放の思想に取り付かれていました。しかし、ベネディクト・アンダーソンは著書「三つの旗のもとに」中で、当時、マドリードに留学中のフィリピン知識人層は18世紀ヨーロッパにおいて勢力のあったアナキスト・ムーヴメントから大きな影響を受けたと記している。その留学生の一人、Jose Rizal(ホセ・リサール)はフィリピン革命の歴史にとって重要文献と目されるフィクション小説を書き記した。リサールの著書「エル・フィリブステリスモ」の主人公はどこかラヴァショルを想起させるところがある。ラヴァショルはフランスのアナキストであり、抑圧されていた労働者達のための復讐として権力関係者に対して爆弾攻撃を仕掛けたことで知られている。リサールは主人公を通して象徴的に、フィリピン人の植民地解放に対する絶望感を表現しようと試みたのです。

しかし、アナキスト思想とその実践はフィリピンにおいて植民地主義に対抗する有効な革命的オルタナティヴとして増殖するには至りませんでした。しかし、日本と同じように、明治と大正時代にアナキズムは既にその種が蒔かれていたのです。日本のアナキストは闘争的な組合運動と反戦・反天皇運動の構築に重要な布石を投じた。当然、日本とフィリピンの間には文脈上の違いはあれど、フィリピンには反権力的な闘争の歴史が全く無かったというわけではない。

フィリピンの平和論者、特に不満を抱く町村貴族層は植民地支配者からの国家的独立を望んでいた一方で、先住民は山間部やその他地方において彼ら独自の平等主義的な生活様式を守ろうと常に植民地支配と闘い続けていた。フィリピン史における準宗教的な蜂起についても自主自律を尊重したその性質から、反権力的な闘争と結び付いて捉えられている。

Bas:ホセ・リサールの小説は抑圧的な植民地支配と、その永続的な状況に対する解決策を描いている。ランプに忍ばせたニトログリセリン(ダイナマイトの原料)で植民地支配者のエリート層全体を一掃するアイディアをリサールが一体どこから得たのでしょうか?リサールは長期に及ぶヨーロッパ留学生活の中で、アナキストによって実行された「行為によるプロパガンダ」のメッセージをしっかりと受け取っていた。同時に、自由への主たる鍵の一つとして教育を挙げている点は、フェレールとスペインのアナルコ・シンジカリズムの主張に合致するものとなっている。

1901年、イサベロ・デ・ロス・レイエスがスペインのモンジュイックにあった刑務所からフィリピンに戻ると、マニラ湾に浮かぶ近代的な戦艦に象徴される新たな敵と直面した。デ・ロス・レイエスの闘争の枠は、今日英雄として知られるナショナリスト達の闘争とは全く異なるものだった。まず第一に、彼の批判の矛先は帝国主義だった。彼はアメリカ企業に抗議し、マニラにて労働者や貧困者のコミュニティを組織した。

デ・ロス・レイエスはスペインで投獄中にアナキスト仲間(例えば、ラモン・センパウ)から学んだアナルコ・シンジカリズムを実践に移し、群島で初の労働者組合となるUnion Obrera Democratica (UOD) を組織した。特にトンド地方にて労働者やコミュニティによって行われた創造性溢れるピケ抗議やストライキといった直接行動は植民地政府とその提携企業や地元エリート層の足元を揺るがした。

Q.あなた方の多くの活動の中でフィリピンにおける伝統的な社会組織化にアナキストの思想を関連づけて提示しているようですが、もう少し詳しく教えてください。

Bas:個人的な視点から言えば、群島には太古の時代からアナキズムは存在していたように捉えられます。海岸沿いから高地に至るまで、多くの原始社会は自主自律と非中央集権的な政治形態を採り、結果、非常に多種多様な文化や生活様式の拡散が見られました。

そうした原始社会組織は、社会的階層化が進み、制度と化すまで継続的に発展し続けていました。群島には独自のアイデンティティ、文化、そして社会政治的組織を持つ多様な部族で形成されています。権威主義が群島の革命ムーヴメントを腐食させる前にも既に直接行動は実践されていたのです。一つの例として、1872220日に起こった事件が挙げられます。7人のスペイン人警察官がカヴィテ海軍基地での暴動中に死亡する事件が起こりました。その結果、スペイン権力はクリオール人、メスティソ人、教区付き聖職者、商人、弁護士、そして植民地管理局のメンバーまでをも次々と逮捕していきました。人々の心に恐怖を植え付けるため、不正規法廷による簡略式の裁判が行われ、3人の教区付き聖職者が4万人の前で絞首刑に処されたのです。その6か月後、1,200人の労働者がストライキを行い、これが群島初のストライキとなったのです。多数が逮捕されましたが、管理局はリーダーを割り出すことができなく、ゆくゆくは全員が解放されました。イスキエルド将軍は当事件について次のようにコメントしたそうです。「インターナショナルはその黒い羽根を広げ、最も僻地の土地までに極悪非道な影を落とした」。

Q.独立運動に対して伝統的な形態や組織はどのように見ていたのでしょうか?

Bas:基本的に地元エリート層の知識人で構成されたプロパガンダ・ムーヴメントはヨーロッパの啓蒙運動によってもたらされた枠組みを採用しました。歴史上の大物、例えば、リサール、アグイナルド、ハシント、ボニファシオ、ルナ、マビーニ、デル・ピラールといった面々は被抑圧者の連帯を目指す基礎としてナショナリズムに深く傾倒していました。

エリート層は多種多様な文化を融合する抽象的で大規模なコミュニティのアイディアを創出することに成功しました。プロパガンダ・ムーヴメントによる扇動活動の頂点を表す出来事として、西欧のナショナリズムを模した群島初の政府、Katipunan(カティプナン)の設立がありました。こうして中央集権の高圧的で父権主義的な制度が群島の社会関係を支配するようになり、相互扶助と多種多様性の伝統的なテーマが影を潜めていったのです。奴隷制はPolo(強制労働)という形で存在し、かつては繁栄し、自由な生活を営んでいた地域共同体には貧困と細分化が蔓延するようになっていきました。

辺境の地やミンダナオ島南部に移っていった部族や共同体以外の群島全体が王権主義とスペインの階層社会の一部と化していきました。

Q.フィリピンの現在のアナキスト・ムーヴメントについてはいかがですか?

Bas:現在、より広範な無階層の社会組織は伝統的な生活を効率的に維持する先住民の共同体に限られています。一般的なところにおいて、UODの解散の後、反権力運動が休止状態に陥りました。それでも尚、ルソン島、ヴィサヤ島、ミンダナオ島においてはアナキズムはそれなりに活発だと言えるでしょう。先住民共同体の活性は彼らの自主自律的な伝統を通してもたされています。彼らは国家の一部としてではなく、国家と共存して存在しているという意識になります。

アクティヴィズムやムーヴメントという意味においては、アナキズムと反権力運動は1980年代初期にパンク・シーンの中で復活を遂げました。反権力的な政治思想は元々、フィリピン社会の保守的な性質に対する批判として取り上げられた所以があります。

1990年代初期において、パンク・ハードコア・シーン界隈の反権力主義者達は反階級の思想を露わにし始め、アナキスト的なプロパガンダを積極的に提示するようになりました。このパンクのムーヴメントは継続的に多くの個人を惹きつけ、現代版の行為によるプロパガンダとも言えるブラック・ブロックによるシアトルでの反WTO闘争後に特に火が付いたのです。

多数のコレクティヴがマニラ周辺、ダバオ、セブ、ルセナなどで結成されています。Food Not Bombs、コミュニティに根差したワークショップ、ピケ抗議、フォーラム、出版、ライヴ、グラフィティなど、ヒエラルキーに対抗する手段として多くの直接行動がこれらのコレクティヴによって実践されています。

Jong21世紀の幕開けより、フィリピンではアナキストを自称するアクティヴィストのグループやコレクティヴが野生のキノコのように瞬く間にあちこちに生え始めました。ただ、彼らの歴史的背景としては19世紀末期のアナキズムよりは1980年代のパンク現象に根差すものです。この現象については、活性化を見せる現在のフィリピン・アナキスト・ムーヴメントにおける重要性という観点からもう少し突っ込んで話してみたいと思います。

パンクというサブカルチャーがフィリピンに舞い込む理由となったのはフィリピン人の離散による結果でもありました。1970年代後半にBalikbayanbalik=帰る、bayan=故郷)と呼ばれる富裕層のフィリピン人がヨーロッパやアメリカからこぞって帰国してきた時、フィリピンにパンク・ロックを持ち帰り、DZRJ-810 AM "Rock of Manila”というラジオ番組を通してフィリピン国内に広められました。この間、当時の大統領、フェリディナンド・マルコスの軍事独裁がピークを迎えていました。メディアは政府によってコントロールされていましたが、幾つかの小さなラジオ局は政府の監視外のところでなんとか運営を果たしていました。セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、ブームタウン・ラッツなどのパンク・ロックが、唖然と聴き入るマニラのリスナーの耳に届き、”Pinoy Punk”シーンが生まれたのです。

以後、パンク・ロック・ミュージックは1980年代初期の保守的なフィリピン社会に対する若者の不満を代弁するムーヴメントとなった。そのごく初期においては単に一つの音楽形態に過ぎず、政治色はほとんどなかったのだが、後にフィリピン社会の権威主義に対抗するラディカルなアプローチへと発展していった。若者はこぞって、パンク・ロック・ミュージックと関連のあるアナキズムやDIY文化を探求するようになったのです。

しかし、フィリピンでのパンク・ロック黄金期は西欧でのパンク衰退期とちょうど時期を同じくしていました。メインストリーム社会への脅威として存在した約10年が過ぎたあたりから、マスメディアはパンクのイメージを取り上げ始め、多国籍企業の新たなマーケティング戦略の目玉となっていきました。フィリピンでは、ペプシ・コーラといった多国籍企業がマルコス独裁政権の衰退が始まった1980年代中期にフィリピンのテレビでパンク・バンドのコンテスト番組のスポンサーを務めたりもしていました。その後何年かして独裁政権が民主主義的なアキノ政権に取って代わると、当時の政権によって画策されたメンディオラの虐殺事件を隠匿する手段として、地元マスメディアは地元パンク・シーンをこき下ろすために悪魔崇拝カルトとレッテルを貼ってパンクの悪いイメージをでっち上げたのです。

その後、ニュー・ウェーヴやヒップ・ホップといった他の音楽スタイルや、クロスオーバー・サブカルチャーなどもフィリピンに上陸し、パンクとその他、というシーン分けがなされました。地域のパンク・シーンの中においてさえも分裂が激しく、音楽的趣向の違いに起因するギャング同士の大乱闘が巻き起こったりもしていました。この分裂の傾向は毛沢東左派にも見られました。

Q.フィリピン左派は激しい内輪モメが取り沙汰されてきましたが、アナキスト・ムーヴメントの台頭と何か関連がありますか?

Jong:1990年代初期は「左派大分裂時代」と呼ばれています。この分裂は、フィリピン共産党(CPP)がマルコス独裁を転覆させる動きの的確なリーダーシップを取れなかったという失敗に基づきます。かつて勢力があり団結していた左派は、党員同士や大きな党組織の中の派閥や内輪モメの結果、みるみるうちに弱体化していきました。最悪の事態としては、EDSA(エデュサ)革命の際に的確なリーダーシップを取れなかったという失敗に関連して思想的な違いから殺人まで起きてしまったのである。この暴力的な分裂は台頭するアナキスト・ムーヴメントの短所や欠点の原因の一つとも言えるであろう。その短所・欠点とは、誰がよりアナキストであるか否か、というつまらない主張のぶつかり合いを指します。

私の唯一の願いは、お互いの違いを受け入れ、多種多様性の共存という考えに立ち返ることです。この欠点を克服するためのもう一つの手段として、群島に生きる先住民の兄弟姉妹の生活や体験から多くを学び取ることかと思います。パンク・シーンの外にも学びの場は実は数多く存在するものです。特に、交流に対してオープンでありたいと願うならば。

Q.フィリピンにおいて権威主義的左派の勢力は継続的に強いものがありますよね。あなた方がお話ししてくれた歴史的基準点にも関わらず、何故アナキストの政治思想は限られた領域でしか広まっていないのでしょうか?

Bas:権威主義的左派の影響は、UOD解散後にフィリピンにやってきました。UODの残党から、政治権力を掌握しようとする階層的な党が設立されました。こうしてボルシェヴィズムに大きく影響されたフィリピン初の権威主義的労働者党が設立されたのです。

その後、フィリピンの革命的ムーヴメントの中心となったのは毛沢東派でした。フィリピン社会についての半植民地的、半封建的な分析からすると、毛沢東派は地方農民を中心とした人民闘争戦略を打ち立てたのです。

マルコス独裁時代に左派ネットワークの中で最大勢力を誇っていたのは民族民主前線(National Democratic Front, NDF)でした。NDFはフィリピン共産党(CPP)の直接指導を受け、共産党の武装勢力である新人民軍(New People’s Army, NPA)によって強化されました。NPAはルソン島、ヴィサヤ島、そしてミンダナオ島にある戦略地域において部隊を形成していきました。

権威主義的左派によって提示された過激主義は数多くの若者をも含め、あらゆるセクトからの個人を惹きつけました。ファシストへの対抗勢力として団結したNPAはどんどん肥大化し、影響を増していったのです。

武装闘争によって政治的権力を掌握しようとするCPP-NPA-NDF連合は、無血革命によってアキノ政権を樹立させたエリート層指導による対抗勢力によって押しのけられました。1990年代半ば、最大左派の党分裂が巻き起こり、ゆくゆくは左派同士がお互いに銃を向け合うような抗争へと発展していきました。「大分裂」後、様々な左派系グループが形成され、NGOとして市民社会の中で発展をし続けています。権威主義的左派の中での最大勢力は再確認主義者(Reaffirmist, RA)と呼ばれるブロックであり、現在においても最も活発な武装勢力を含む最大勢力の母体となるブロックとして存在しています。

Q.あなた方はアジア太平洋地域のアナキストを繋げる活動もしているようですが、ネットワーキングの活動の効果とそれに期待できることについて教えてください。

Jong:インターネットなどの新時代メディアテクノロジーは非断片的な形態の組織化を実現するために非常に有効な手段となっています。自分達の闘いを推し進めるために他地域の多くのネットワークが絡み合うという形の可能性も見い出せます。現在、アジア太平洋地域だけに留まらないより広範な地域の闘争を共有できるジャーナルを作り上げようとしています。このジャーナルをオンラインと印刷物の両方で提供しようと考えており、様々な体験を共有し、連帯したネットワークを構築するツールとして活用したいと思っています。

Q.アナキスト・ポリティクスの全体に対してどのような期待を持っていますか?

Bas:環境は人類の生存にとって大変重要です。原始時代においては自然資源は良好で完全な状態にあり、相互扶助と多種多様性というテーマのもとで共同体によって持続可能な状態で管理されていました。人口的な観点からは、共同体の人口数が小さければ小さいほど、環境に対するインパクトも少なく済む、という主張も聞こえる。また、原始の技術は資源の搾取にまでは至らないほどのレベルに留まっていた、などとも。しかし、自然生息地とどのように向き合うかという利用者の姿勢によっても環境の状態は違ってくるとも言えるでしょう。共同体の社会文化的需要を維持し、持続させたい希望のもとであれば、決して資源を過大搾取する必要はないのです。特に、生き残るための持続性を意味するならば。

メジャー経済システムは生産と売上を常に増加させることで無限の成長を達成するように設計されています。しかし、地球全体の環境にとって必要不可欠な原料は有限であり、その量には明らかな限度があります。莫大なインセンティブを求めることを奨励する経済システムにおいては自然資源と人間の労働力(精神的および肉体的負担)の莫大な搾取に必ず繋がります。このことは、生産手段や自然資源へのアクセスを持たない大多数の人々の貧困を意味することになります。

人間の可能性を表すこととして、数人の原始人は石と棒だけで大型動物の一群を仕留める能力を持ち合わせているのです。しかし、富や私有財産を得るためではなく、共同体のニーズを確保するために狩猟するため、必要なだけの頭数の動物だけを狩ります。現代においてはこのようなバランスはほとんど皆無となってしまっています。漁業に依存する小島の小さな共同体を例にとってみると、漁業に必要な船を作るために小島の高地に生えている木を利用していました。ところが、市場で木材が高値で取引されると、共同体は小島の森林資源を全て伐採するよう勧められたのです。結局、小島のエコシステムと暮らしは破壊されてしまいました。

フィリピン群島の先祖達は確かに交戦することもありました。しかし、支配するためではありませんでした。確かに、奇襲や急襲や伝統的な戦を行っていましたが、決して群島を全体として支配する中央集権的な権力を確立するためではありませんでした。先祖達の戦は、貸し借りや仇討ちや未解決の領土問題を解決するための手段でしかなかったのです。

フィリピンの原始共同体に見られる自主自律摘な政治形態と、無階層の社会関係から知恵を拝借することは、私達自身の未来の社会関係を再構築するための重要なプロセスなのです。これまでのフィリピン史における政治的実践はどれも、貧困、政治的細分化、奴隷制、そして資源の低落といった重要事項について解決の糸口を探ることもできませんでした。

ベトナム、カンボジア、中国、キューバ、ロシア、ドイツ、北朝鮮、そしてその他の社会主義国家における権威主義的左派の歴史を辿れば、中央集権的な体制は権力にアクセスのある数人のみに特権を与えることしか意味しないことを証明しているようなものです。

私達は人間として、多様な地球エコシステムの一部としか存在していません。決して、地球より優位な存在ではないのです。たった一人の利害関係者にとって有利なシステムを構築することは抑圧にしか繋がりません。アナーキーというのは共同体が直接参加する社会プロセスなのです。多彩な利害関係、視点、考え方、そしてアイデンティティに全て順応する横型のシステムは意識的な努力によって生まれるでしょう。自主的な生産プロセスと、同時に自然資源の共同的、直接的なコミュニティ・マネジメントを実現するための相互扶助に基づいたシステムがきっと生まれることでしょう。

エコシステムと調和する生活様式を実践しながら、貧困、抑圧、奴隷制、そして父権主義から解放された無階層の社会を確立させることは簡単なことではありません。しかし、地球上の至る所の様々な共同体における確固たる経験と実践によって裏付けされた希望ではあります。

きっと、上記のような社会は私の生きている間には見られないかもしれません。というのも、現状維持と中央集権制度の維持のために、全て利用し得る手段と資源を、特権階級はきっと使い果たしてしまうことでしょう。個人と社会の解放への鍵は教育です。中央集権を強化する国家、そしてその他の制度に対する気付きと意識は新社会秩序を創造するために必要不可欠なのです。

*Jong PairezBas Umaliの両氏ともマニラ出身です。Anarchist Initiative for Direct Democracy(直接民主主義のためのアナキスト・イニシアチブ)や、South East Asia Autonomous Network(東南アジア自主自律ネットワーク)など、様々なアート・プロジェクトや政治ムーヴメントに関わり活動を展開しています。

Bas Umali, The re-emergence of philippine anarchism バス・ウマリ『フィリピン・アナーキズムの再生 群島連合、すなわち代表制と国家政治を超えたオールタナティヴな政治構造、そして、自由な諸会議とバランガイおよびコミュニティから成る独立の機関を通じて生み出される市民による真の政治について』



バス・ウマリ『フィリピン・アナーキズムの再生 群島連合、すなわち代表制と国家政治を超えたオールタナティヴな政治構造、そして、自由な諸会議とバランガイおよびコミュニティから成る独立の機関を通じて生み出される市民による真の政治について』レッド・ライオン・プレス、2007年、全16頁(原文PDFファイル:The re-emergence of philippine anarchism)。

まえがき
 この10年の間に、かつてアナーキズムが弾圧されたか、あるいは、すでに忘れ去られた多くの国々で、アナーキズムが再生している。フィリピンは、そのうちの一つである。アナーキズムはフィリピンにおける初期の反帝国主義闘争に影響を与えた。それにもかかわらず、その後、国家社会主義とマルクス・レーニン主義によって排除されてしまった。だが、現在、同志たちが再び集まり、自分たちの現状を分析する上で有益な新しいアナーキズムを作り出している。このような、フィリピンにおける新しいアナーキズムの再生に関する最初の分析は、北米で最初に出版されたものであると思う。その著者であるバス・ウマリのアナーキズムは、脱中央集権的、直接民主的なコミュニティによる連合の形成、そして、自発的な連合に基づくものである。このアナーキズムは突然生み出されたものではなく、歴史的には、伝統的なバランガイ、つまり、脱中心化されたコミュニティに起源を持つ。フィリピンの群島にある無数のコミュニティが連合するというこの構想は、腐敗をもたらす集権化された国家のオルタナティヴ、および、貧困から抜け出すための手段と見なされている。本書を入手可能としたマニラのインフォショップに感謝したい。ラリー・ガンボーン  2007年。

 はじめに
 誰もが同意するのは、民主主義というものが、とらえどころがないものだという点である。今日までフィリピンでは、大多数の人びとが、極端な貧困の中に生き、最低限必要なものさえ奪われ、政治的には周辺に追いやられてきた。よく知られていることだが、貧困の原因は、権力が誰にも同じように配分されていないことにある。また、天然資源の利用やそこから得られる利益といった重要な問題に関して、ほんの一握りの人間だけが関与して決定する、という状況があれば、それによっても貧困は生み出される。環境破壊を引き起こし、ほんの一部の企業家の一族と外国の企業にだけ利益をもたらすだけの開発プロジェクトについて、政府が私たちに何かを問い合わせてくる、あるいは、専門家として意見を求めてくる、などということなど一切ない。WTOに関わるかどうか、あるいは、様々な二国間協定に関するWTOの決定を認めるかどうか、それについて政府がどう対応すべきか、といった問題について、農民や漁民、労働者や女性、若者やゲイ、消費者、さらには社会の様々な領域にいる人びとに対して、わざわざ政府が問い合わせてくることなどない。付加価値税や債務を支払おうなどという者などいるわけがないからである。
 こういった問題を挙げていけばきりがない。ここからわかるのは、要するに、今日、私たちにとっての民主主義といわれるものが単なる茶番でしかない、ということである。
 歴史上、あらゆる革命的闘争は、民衆が権力に加わることを目指してきた。こういった運動の中では、人びとが政治的決定の過程に参加するべきだ、なぜなら、自分の生活のあらゆる領域に直接影響を与える政治的な決定に民衆が参加しなければ、民主主義は実現できないからである、と主張されてきた。
 このパンフレットは、今日行われている政治とは異なるアナーキズム的な政治構造について論じようとするものである。この政治構造は、権力に対して人びとが直接参加することを促進するものであり、そこでは、政治的な力が下から上へと向かう、そういうものでである。このような構想は、リバタリアンの著述家マレー・ブクチンによってすでに述べられている連合confederationという考え方に多くを負っているものである。もちろん、彼の考え方と、伝統的なアナーキズム運動と現代のアナーキストの考え方とは距離がある。それにもかかわらず、現実の政治的危機にとってはきわめて重要であると私は確信している。
 本書で提案する連合という構想は、今日のものと異なるリバタリアン的、すなわち、非階層的で非国家的な枠組みに基づく現実的で実行可能なものである。これに比べると、フィリピン共産党、新人民軍[フィリピン共産党の軍事組織]、国民民主戦線[労働組合・左翼組織・先住民などによる連合体]による過去35年間にわたる闘争は、無数の生命を犠牲にしたにもかかわらず、いかなる現実的な経済的および政治的な成果をフィリピンの民衆にもたらすことはなかった。国民民主戦線の主流派である左翼組織も同様であった。なぜなら、彼らがみな国家を信奉し、政治権力の奪取を目指しているからであり、そのような目標は、実現する可能性がないからである。
 周知のように、アナーキズムはこれまでひどく誤解されてきている。そこで、国家なき社会主義、リバタリアリズム、そしてアナーキズムの基本原則について、まず議論しよう。
 「そんなものは空想でしかない」。これがアナーキーという語とこれが提起する社会について理解していない人たちがよく言うことである。アナーキーとカオスが同じものだという誤解もある。こうった誤解をもたらす原因があるのはたしかである。歴史的には、アナーキズムは抑圧的なシステムに敵対し、君主制、寡頭制、そして権威主義的な国家社会主義者と権威主義的共産主義による全体主義体制のいずれに対しても敵対してきた。アナーキズムは人間性の発展を妨げる新しい形態の植民地主義、資本主義、そして、搾取を実行するあらゆるシステムと闘ってきた。これに対してあらゆる支配体制が、アナーキズムに対する信頼をおとしめるために、アナーキズム運動に対する恐怖をまんえんさせ、アナーキズムに対してテロを実行してきた。
 もちろん、暴力がアナーキズム運動の一部であるという事実を直視することが必要である。民族主義者や共和主義者と同様、アナーキストは社会革命を促進させるためにテロを実行してきた。「行動によるプロパガンダ」は民衆が国家と古くさい秩序に対して行動を起こすように勇気づけるための手段であった。そういった暴力の中には、1894年に起きた、イタリアのアナーキストであるサンテ・ジェロニモ・カゼリオによるフランス大統領サジ・カルノ殺害、1897年に起きたイタリアのアナーキストであるミケレ・アンギオリリーロによって実行されたスペイン首相カノヴァス射殺、1898年に起きた、これもイタリア人のアナーキストであるルイジ・ルッチェリーニによるオーストリア皇太后エリーザベト刺殺、1901年に起きた、ポーランド系移民の子孫であるアナーキスト、レオン・チョルゴシュが実行したアメリカ大統領マッキンリー暗殺といったものがあった。さらに1878511日にマックス・へーデルによって、そして、同年62日にカール・ノビリングによって実行された、ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世暗殺未遂事件があった。こういった事件は、挙げていけばきりがないほど起きてきた。
 これら歴史上の実力行使は、時の政権によって都合良く利用された。アナーキズムに極悪なイメージを与えるために、各時代の政権は、暴力とカオスを引き起こすものとしてアナーキズムを描いた。このイメージは、その後、国家社会主義者に強められ、さらに、権威主義的共産主義者によって強化された。彼らは、ウクライナではアナーキズム運動がボリシェヴィキ体制と白軍、および国外からの侵略者たちに立ち向かっていた時に、そういったイメージを流布したのである。
 こういったアナーキズムに対する攻撃と誤った解釈の流布は、権力が極端に集権化されている国々で起きている。政治構造が経済・政治エリートによって統制されている地域では、アナーキズムは大きい運動にはならない。また、革命の伝統がある国でも、社会主義官僚が強い影響力を持っていれば、そういった国々ではアナーキズムに対する敵意が昔から政治的に作り出されている。
 一般的に広まっている誤解と異なり、アナーキズムは、すべての人びとが自由を享受するという理想を実現するための、組織された世界に対する強い思いによって特徴付けられた理論である。ノーム・チョムスキーがかつてあるインタビューで語ったように、アナーキーとは高度に組織された社会である。この社会は、仕事場、コミュニティ、および、参加者が直接自分や他の人びとの問題を担っていく自由で自発的な連合体といった多くの異なる構造が統合されているものとして想定されてきている。
 権力、私有財産、個人主義によって人びとが動かされている現在の秩序と異なり、アナーキーとは、相互の協同、連帯、搾取と抑圧からの自由を促進する社会である。この社会においては、それぞれの問題に直接関わる人びとが、それらの問題に関わる決定に加わる。アナーキーにおいては、権力を中央集権化させた政治構造が排除される。
 ここで、群島という言葉とその意味について考えてみたい。群島では、豊かな自然がフィリピンの地理的な特徴とその住民の生活スタイルに対して強く影響を与える。フィリピンの地理は、様々な島々が海に取り囲まれているという特徴を持つ。それらの海は、群島を相互に分割しているのではない。むしろこれまで指摘されてきたのは、群島の住民たちによる経済、政治、社会的活動は、群島が海によって結びついていることで促進された、という点である。
 また、群島の豊かな自然は、相互の協同を通じて結びつく多様な文化を作り出し、これが多様な生活様式を繁栄・発展させたという点にも注意が必要である。

歴史的背景
 フィリピン史上、マゼランに対するラプ・ラプの勝利という事件はよく知られている。この事件は、群島における最初期における抵抗運動の象徴である。マクタン島の沿岸で、引き潮時に、ラプ・ラプの住民たちが、スペインの武装した強者の征服者たちを打ち負かしたというあの事件である。当時、ラプ・ラプ王とラジャ・フマボンとの間の対抗関係をマゼランが利用し、後者の信頼を得て前者を攻撃し、それがマゼランの死につながったというのは事実である。しかしこの事実は、ラプ・ラプの人びとが彼らのコミュニティの自治を守った、と読み替えることもできるのである。
 フィリピンでは、ナショナリストによる独立闘争が始まる前から、「モロ戦争」が1565年から1898年まで続いていた。これにより、群島南部住民に対するスペイン人の支配が阻まれた。その後スペインの植民者たちは、キリスト教に改宗した人びとを、イスラム教徒との闘争に動員した。今日までミンダナオ島では、キリスト教徒とイスラム教徒が「永続的」と呼ばれるほどの紛争を繰り返してきているが、その基盤はこのようにしてスペインの植民者たちによって作られたのである。
 フィリピンは、アジアの中で最初に、西ヨーロッパの植民地主義に対して革命を対置した地域の一つである。初期の闘争は、主として、ホセ・リサールやマルセロ・デル・ピラールのような地方特権階級の知識人によって担われた。革命運動はナショナリズムの色彩が濃いものであったが、それはとりわけ当時のヨーロッパを中心として、世界中でナショナリズムが最もプロパガンダされていたためである。そういったナショナリズムはリサールの著作に影響を与え、抑圧された大衆に影響を与えた。彼らの運動は、アンドレス・ボニファシオが1896年に率いた武装抵抗運動に結実した。
 アメリカからの影響が次第に強まるなか、キューバで武装抵抗運動が起きた。同時期、フィリピンのナショナリストによる抵抗運動は、カトリック教会からの影響を減少させ、ついにスペイン人をフィリピンから追い払った。しかし、1898年に締結されたパリ条約により、フィリピンはアメリカの膨張政策の対象となった[米西戦争の結果パリ条約を締結。スペインに2000万ドル支払うことでアメリカがフィリピンを獲得した]。
 18991月、フィリピン第1共和国独立宣言後、アメリカとの戦争が始まり60万人のフィリピン人が犠牲となった。その大部分は飢餓と伝染病によるものだった。
 フィリピンにおける革命の伝統は、1901年にバルセロナにおける亡命から帰還したイサベロ・デ・ロス・レジェスによってさらに豊かになる。スペインでレジェスはマラテスタ、プルードン、クロポトキン、マルクス、ダーウィン、トマス・アキナス、ボルテールらの著作を集めてこれをフィリピンにもたらしたのである。彼がマニラへに帰還してからまもなく、マニラとその周辺では抗議とストライキが次々に起き、民主労働同盟の設立につながった。これにより、それまで単なるナショナリストによるものだった革命運動が、反植民地主義闘争(UDO: Union Obrera Democratica)に転換することになった。
 民主労働同盟は1903年に解散し、その中から、共産主義と社会主義を支持する政党が1938年に設立され、これがフクバラハップ[抗日人民軍の略称Hukbalahapで「フク団」と呼ばれる]のゲリラ闘争を指導した。かれらはアメリカによる軍事支援が始まるより以前から、日本軍に対する先駆的な反対運動を組織していた。また、この頃、運動は、ボリシェヴィキからの影響を受け始めていた。
 このような闘争の伝統は、その後、1960年代に毛沢東主義から影響を受けた共産党の結党に結びつく。同党は、民族主義戦略を採択し、人民戦争を推進した。この戦略は大衆から強い支持を得た。しかし1992年、同党は様々な組織に分裂することで、権力奪取に失敗した。

今日の状況
 以上のように、フィリピンの歴史は、豊かな革命的伝統を持つ。そのなかには、民族民主主義運動以外の運動もあった。たとえば、様々な党派やコミュニティに基盤を置く抵抗運動、あるいはモロ解放戦線である。
 しかしながら、そういった豊かな伝統がありながら、それらの運動は、民衆の希望を代弁することに失敗してきた。他方、全国統計局によれば、今日3436%である貧困率は、1970年代には40%であった。これは、貧困を削減する努力がわずかな改善しかもたらしていないことを示唆している。
 他方、今日、失業者は常に1100万人を超え、不完全雇用者は700万人に達する。この状況をさらに悪化させているのが、天然資源の破壊である。その原因は、経済成長の重視にあり、自然を持続可能な方法であらゆる人びとが平等に活用するようにできない国家の無能無策にある。さらに、経済の自由化と政府省庁による対外債務を積極的に受け入れる政策、合理的な経済発展計画の欠如といったものが、国内の地場産業に深刻な打撃を与えている。これが悪化する経済状況をさらに悪化させている。
 これ以外にも重大な問題なのが、市民の大多数が自分たちの政治、社会、経済生活に直接間接に影響する政治的な決定から遠ざけられている、という点である。現在の政治構造は、人びとを政治に対して消極的かつ無関心にしている。彼らの政治参加は繰り返される投票行動だけに限定され、自分たちを代表して政策を作成し実行する政治家を選んでいるだけである。
 フィリピン住民が繁栄し、相対的に平和であった時期として私たちが知っているのは、スペインによる侵略以前の時期だけである。その当時、ピガフェッタが描くように、群島の住民たちは完全に健康であり物質的な不足もなく、食糧不足という問題もなかった。ウィリアム・ヘンリー・スコットとそれ以外の著述家たちは、スペイン征服以前にも群島に奴隷制があったと指摘している。しかし、地方の村落における貧困については何も言及していないのである。
 以上のような事実に注目すれば、フィリピンにおける貧困問題が起きたのは、スペインによる植民地化と中央集権的政府が人びとに様々なことを強制するようになって以降であ、ということに気がつく。
 様々な研究は、人口爆発を貧困の原因であると指摘するが、残念ながら事実は異なっている。たとえば南アジアでは、3千万の住民が全く土地を持たないか、ほんのわずかの土地しか持っていない。そして彼らは農村の家計の4割を占める。アフリカとラテン・アメリカでも同様のデータがある。しかも、グローバルサウスにおける土地の配分は、一握りの地主が支配する大規模な商業農場が主流である。つまり、貧困の原因は社会的なものなのである。
 フィリピンもその例外ではない。2000年の統計で見ると、貧困率は34%で人間開発指数[平均余命、教育、所得指数を複合させた統計]は0.656である。これは、150カ国のなかで77位である[日本は2014年に17位]。漁業従事者だけでみても、80%の漁民は貧困ライン以下にある。その要因については、以下の4点が挙げられている。1、土地に基盤を置く経済の生産性が低いこと、もしくは土地を利用する機会が欠如しているため。2、水産業の低い生産性は、居住環境が破壊され、水産資源が枯渇しているため。3、資源をめぐる争い、とりわけ沿岸部の水利権をめぐる争いがあるため。4、基本的なサービスが不十分であるため(たとえば、医療、教育、住宅、インフラなど)。
 1993年に発表された、アジア開発銀行(ADB)の漁業部門プログラム報告によれば、そこでも沿岸部における人口密度が高いという指摘がある。だが、それによって貧困が引き起こされる、という結論が導き出させるわけではない。沿岸部の人口増加の要因は移民にあることはよく知られている。2001年のASEANの持続的発展会議の報告書(ASEAN-SEAFDOC, 2001)によれば、農村部の人口では経済機会が少ないが、沿岸部では、漁業の資源は誰にでも開かれたものであるのが事実である。したがって、資源の限界という問題が貧困の原因なのではない。この事実から出発すれば、貧困問題の原因が構造的なものであり、つまりは、富と天然資源の配分にある、ということがわかるのである。
 途上国の開発援助という領域において、住民がその地域で十分な能力を展開できるためにどのような条件が必要なのかということを想定する方法がある。この方法では、まず、当該のエコシステムの中で、食料、空間、そしてそれ以外の生存に不可欠な物質が入手できる可能性に基づいて、そこで存続しうる生命体と非生物の数に上限を設定する。また、エコシステムによって環境に対する負荷が吸収されることも考慮する。この方法によって検討すると、天然資源の破壊(これによって多くの市民が死に追いやられ数十万の生命が失われるのだが)は、人口の増減には直接影響しない。むしろ、大企業が大規模な森林伐採から収入を得るというのがよく知られている事実である。こういった森林伐採とともに商業的な鉱山開発を通じて、森林地域が丸裸にされてしまうのである。鉱物の採掘が沿岸地域にもたらす甚大な環境汚染によって、漁業資源が甚大な被害を受けるということも指摘しなければならない。
 フィリピンの8600万という人口によってエコシステムの能力が限界に近づいている、ということを証明する十分なデータはない。食糧問題については、もはや問題は何もない。実際に、中国、インド、ブラジルといった発展を続ける国々は、二国間もしくは多国間貿易協定を締結するためにきわめて攻撃的な態度を示す。これらの協定は、貧困国もしくはそれ以外の国々の市場に対して完全なアクセスを実現させ、それら貧困国に対して、自国の膨大な余剰を押しつけるためのものである。
 フィリピンの場合、貧困に関して最も入手しやすいデータに基づけば、その原因は農業生産と漁業生産が低いこと、それらの経済的なパフォーマンスが低いことに求められる。そしてこういったことすべての原因は、政府の不作為、無能、無責任にある。貧困は失業によって生み出されている。耕作地の不足、天然資源の減少、経済機会の不足、社会サービスの欠如、腐敗と合理的な経済発展計画の欠如が貧困の原因なのである。
 膨大な利益が天然資源からの大量の搾取によって生み出されている。しかしこれは人びとには何ももたらさない。本来、私たちは群島に存在する膨大な天然資源のおかげで全人口に食糧を供給できるはずなのである。しかし私たちのそのような無限の資源は、経済成長を拡大させるためだけのものであり、もしくは、利益を求めるエリートの欲望を充足させるだけのものなのである。
 ここで私たちは、次の点を明記するべきである。自由で公正で合理的な社会を実現するためには、資本主義を廃止し、ヒエラルキーに基づく政治システムを、市民の誰もがあらゆる政治過程、とりわけ決定過程に参加するシステムに置き換えるべきである、という点である。

中央集権化された権力の論理
 16世紀頃まで、国家とは「厳格に世俗的な官僚組織によって、あるいは、なんらかの代議政体によって効果的に集権化されている大規模な政府」と規定されていた。中央集権化された政府の運営は、経済活動から大きな影響を受けるため、国家の定義は常に変容を続けたが、その基本的な性格はいまだ変化していない。つまり、権力の集中化と冷徹なる主権を拡大することへの欲望である。理論的には、政治権力というものは国家の中にのみ存在する。しかし完全な権力の集中化というものは不可能である。それゆえ、国家の存続というものは集中化された権力に依存すると考えたほうがよい。それ以外にも重要なことは、その権力を認めないものに対して国家が合法的な暴力を行使することが可能だ、ということである。
 ヒエラルキーを持つ国家は、必然的に官僚制を作り出す。これにより、統治と決定が少数の代表者に集中する。これは、社会主義の官僚制、企業の統治構造ともカトリック教会の組織構造ともきわめて似通ったものである。一握りの代表者たちが作り出すのは民主主義ではなく、少数者の支配であるに過ぎない。民主主義は、民衆が、自分たちが関わる政治に十分に参加することによってのみ実現される。その際、民衆は、そういった政治を理解し、感謝し、貢献し、実践し、利益をもたらし、義務と責任を共有することが必要である。問題は、私たちが普通の人たちをどのように組織するか、ということにある。もし彼らが政治に関わることに関心を持っていなかったらどうするのか。
 そういった無関心は、おそらく、現在の政治問題が民衆に何ももたらさないという考え方が根付いていることに原因がある。あらゆる政治が様々な約束や文書になって提示される。普通の人びとは、複雑な技術と知識が政治に求められ、そういったものは有名で学費が高い大学でしか得ることができない、と考えている。政治家の使う特殊な用語や高価な服は、人びとに対して、政治というものは、学歴がある富裕な一族によるものだという印象を与えてしまう。古代ギリシャ時代にさかのぼれば、ポリスとは、市民によるコミュニティの運営のことを意味していた。しかし、国家主義によって、政治が出世と金儲けの職業を意味することになり、普通の人びとを政治から排除することで、かつてあった意味が失われてしまった。
 本来あったが今日では失われてしまった「政治」の意味を取り戻すこと、そして、その意味での政治を私たちの現実に適合させることで、国家を超えて様々な政治を運営するというもう一つの新たなシステムを想像するという作業は、より容易になるだろう。
 
リバタリアン・オルターナティヴ
 アナーキストのオルターナティヴは、191710月に詳細に示されている。この革命は、大衆による自発的で自ら組織された反抗によって特徴付けられたものであった。様々な勢力が強力に同盟を作り、これが発展し、3日間で皇帝による支配体制を破壊することになった。このような旧体制の廃止は、代案もなく他のグループからの指示もないまま、民衆の強い不満とそれ以外の様々な雑多な要素によって実現された。彼ら大衆の大部分はアナルコサンディカリストによる思想そのものを表明していたわけではない。しかし彼らが実行したことはアナルコサンディカリストの思想そのものであった。皇帝による国家を廃止するために、人びとは自発的に組織した。クロンシュタットでは、住居委員会によって住居が社会化され、この社会化は全街区におよび、街区・地区委員会の結成をもたらした。同様のことはペトログラードでも起きた。工場委員会は、元々は何もなかったところから生み出され、これが「生産者・消費者コミューン」を設立するに至る。
 スペイン内戦では、スペインの東部地域がアナーキズム運動の影響下にあった。カタロニアでは、2000のコレクティヴによって、工業・商業機関において労働者直接自主管理が生まれた。19372月、アラゴンでは、前線の近くで、8万のメンバーが275の農民労働者コレクティヴを設立した。このコレクティヴは、地主が蜂起した広大な土地を占拠していた。3ヶ月でこのコレクティヴは450に増加し、構成員は18万人に増えた。
 同様の事例は、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカにもあるが、私たちの歴史教科書では、これらは目立つことなくほとんど言及されない。もちろんアナーキズム運動などほとんど言及はない。しかしながら、アナーキズム運動は、群島における初期のフィリピンにおけるナショナリストの抵抗運動と、初期の反帝国主義闘争に対してきわめて大きな影響を与えたのである。

連合Confederation
  スペイン植民時代より前のバランガイは、全体としては相互に独立していたが、緩やかに連合していた。彼らの相互関係は、貿易、通商そして戦争(奴隷と配偶者を獲得するための略奪とそれに対する復讐)を通じて作り上げられていた。そういった意味で、バランガイは「高度に」連合していたと言える。それらバランガイは通常、河口流域もしくは、貿易のために戦略的に港が設置されていた場所、あるいは、経済活動が活発だった場所にあった。以上の説明は、かつてあったバランガイによる連合システムを理想化するためのものではない。そうではなく、私たちの伝統的な脱集権主義の実践を過去から現在まで得にたどる試みであり、この仕組みが、植民者たちによって強制されて今日まで存続している国家モデルよりもずっと人間的である、ということを示すためである。
 我々が構想する脱集権主義は、地方の分裂とは全く異なる。そういった分裂はそれぞれの地域が世界全体から孤立する結果になる。マレー・ブクチンが定義した連合とは、「行政運営会議のネットワークであり、そのメンバーもしくは代議員は民衆から選出されたものであり、会議は顔の見える民主的なものである」。フィリピンにおいては、その構造はバランガイもしくはコミュニティレベルから独立しているであろう。バランガイもしくはコミュニティの議会が代表者を選出する。彼らは、たとえば、情報伝達やそれ以外の実務といった行政的な役割だけを果たす。政策はバランガイとコミュニティレベルの民衆会議で策定する。代議員は決定権限がなく、彼らを任命した会議に対して責任を持ち、会議によって罷免される。より重要なのは、代議員は市民に対して特権と権力を持たないという点である。
 代議員を選出する連合の諸議会は、地方と都市レベルで組織される。地方と都市は各領域レベルで連合する。それぞれの領域連合が群島連合を組織する。一つの連合体には、それ以外の群島のすべてのコミュニティが、政治的・経済的レベルで結びつく、そのような構造をもつ。また、行政的機能や、他の諸地域との連携するような領域でも、他のコミュニティと結びついている。連合の最も重要な理念は、社会にある様々な関係性を統合するという点にある。連合においては、ヒエラルキーがなく、トップダウンの運営は存在せず、すべてが対等な関係にある。行政は草の根レベルから形成され、地方、都市、地方、領域といったそれぞれのレベルにおいても同様に遂行される。
 統合の基盤にあるのは競争ではなく相互の協同であり、相補性であり、連帯である。地方のあらゆる部門、グループなどは、コミュニティの需要を満たすための生産過程に関与することになる。
 ここで提案したシステムに対して賛同できないグループが、国家モデルや政党システムを採用したとしても、そういったことを非難しようと思わない。権力を握ることは、望むように制度を変更するための近道である。しかしそういった変化は、権力奪取に関与できない人びとにとっては意味がない。民衆は少数者が実践する政治に対する単なる傍観者となり、消極的になり、従順になってしまうだろう。
 ただし、私たちが提案する脱集権化とは、変化のプロセスであり、その中で、人びとの行為が変化していくものとして構想している。もともと彼らは、支配的な制度によって影響を受けている。この制度とは、競争、個人主義、強制された統一性を基盤にした秩序を強化して促進してきたものである。これから起きていく変化の中で、人びとはそれまであった秩序に反発していく。一人一人の行為がそういった抵抗を強化していくことになる。こういった行動の中では、直接民主主義の原則が採用されることになるだろう。経済成長か、しからずんば死か。このような市場経済による影響が最も過酷になり、中央集権国家の腐敗が最高度になったときに、コミュニティは、より広範な多数のコミュニティに結びつく中で、自分たちのコミュニティの利害を守り、それによって、一貫して彼らの物質的利害および社会的空間を守るべきである。我々は、それぞれの地域が自らを組織し、その伝統的なネットワークを最大化させ、ほかのコミュニティの利害と要求と関わり合いながら、自らの地域の利害を守り発展させるために、それらのコミュニティを力づけていくべきである。

参考文献
ベネディクト・アンダーソン『三つの旗の下に アナーキズムと反植民地的想像力』2006年(山本信人訳、NTT出版、2012年)
ASEAN-SEAFDEC[東南アジア漁業開発センター]『新世紀における食料安全保障のための持続的漁業会議 人びとのための魚』2001年。
マレー・ブクチン「リバタリアン地方自治主義」『グリーン・パースペクティヴ』199110月。
マレー・ブクチン「連合の意味」『グリーン・パースペクティヴ』20号、199011月。
マレー・ブクチン「コミュナリズムとなはにか アナーキズムの民主主義的側面」アナーキー・アーカイヴで閲覧。
マレー・ブクチン「人口についての神話」アナーキー・アーカイヴで閲覧。
ノーム・チョムスキーに対する519日のブラック・レヴォリューションによるインタビューより。
..フリードリヒ、Z..ブレジンスキー『全体主義独裁と独裁制』1972年。