2019年3月14日木曜日

山鹿泰治「1930年に際して」Yamaga Taiji "In the beginning of the year 1930"

山鹿泰治「1930年に際して」
 われらの目的と理想に直接関係なきいわゆる日常闘争や、実行をともなわぬカラ宣伝を一掃して、そのムダな力を真の意味の直接行動に向けるべきである。支配階級がその配下を指揮してわれらの運動に弾圧を加えるとき、われらはその爪牙[そうが]たる権力奴隷のみを当の敵と見て全力を挙げて戦い傷つくとき、そのイヌどもに囲まれた中で権力者どもは何の苦痛も直接感じていないのだ。このような戦いは力の浪費であり、間接的たる点において敵に苦痛を与える程度からいえば議会運動と大差ないのだ。真の直接運動は支配者そのものと直接に組み打ちするの意である。ゆえにいわゆる日常闘争なるものがことごとくわれらの目的に向かって障害を一個一個破って行くところの積極的運動であるならそれはすなわち、もはや労働者の地位改善とか、悪法廃止のごとき改良主義的なものでなくて「革命運動」そのものである。直接行動は決して内容のない鐘の響きのようなものであってはならない。声は小さくとも社会への反響は聞こえなくとも直ちに敵の心臓を貫くものでなくてはならぬ。小さな原因を作ることが重大な結果をまき起こす場合が多い。ただし、われらは過去に余りに多大の犠牲を払った。今後は犠牲は出すな。不正に反抗して戦うに決してわれらの尊い血の一滴も流すに及ばぬ。不義邪悪に向かってはあくまで卑怯に陰険に行動することが当然である。アナキズム戦術としてあくまでこの純粋の直接行動すなわち革命運動を持って1930年を意義あらしめたい(ポール・ベルテロー、山鹿泰治訳『民衆の鐘-無政府共産主義の福音』黒色戦線社発行、1987年新版、30-31頁より。初出は『黒旗』無政府主義戦闘誌、1930年1月号、黒色戦線改題第1巻第2号所載、黒色戦線社発行)。

"We should turn away our power for direct action of true meaning by sweeping out so-called daily struggles or meaningless propaganda without execution. Becauese they are not directly related to our purposes and ideals. When the ruling class command their subordinates to oppress our movement, when we fight and injure with our whole power, seeing only their slaves as our enemies, the ruling class do not feel any pain who are protected by their dogs. Such a battle is a waste of power, and the pain to the enemy is almost the same as that of the parliamentary indirectly movement. Direct movement means fighting directly with the ruler itself. Therefore, if the so-called daily struggle is such an active movement that breaks obstacles one by one toward the purpose, it is no longer an reformist movement such as the improvement of the status of workers or the abolition of the bad law. It is the "revolutionary movement" itself. Direct action should never be like a silent bell. Direct action, even if voices are small, should immediately penetrate the enemy's heart, even if there is no immediate response from society. Creating multiple small causes often has serious consequences. However, we made too many sacrifices in the past. Don't make sacrifices in the future. It is not necessary to shed a drop of our precious blood to fight against injustice. It is only natural to act in a vulgar and intriguing way towards injustice. I want to make 1930 meaningful, with this anarchist tactics, by this pure direct action, that is, revolutionary movement."
 

Yamaga Taiji, "In the beginning of the year 1930", in: Paul Berthelot, Minshu no Kane: Museifu Kyosan Shugi no Fukuin[La evangelio de la horo] translated from Esperanto by Yamaga Taiji, Black Front Publishing, new edition, 1987, pp.30-31. This article originally appeared in the Black Flag: Anarchist Battle Magazine, January 1930, Black Front Publishing, Volume 1, No.2.

2019年3月13日水曜日

2019年8・6広島集会について その2:スケジュールと課題、および参考資料(1)Information of August 6th Hiroshima Anarchist Gathering in 2019

 前回の告知で掲示したように、2019年8・6広島集会については、以下のようなスケジュールが予定されています。( )内は現在検討中の事項です。
(前日の8月5日に「軍都広島フィールドワーク」10名参加で実施を検討中→希望者は、joh.most@gmail.comまで連絡のこと)

8・6広島集会
日時 2019年8月6日(火)
午前:(7時頃から平和公園周辺で抗議行動:検討中)
午前(10時出発:検討中)、デモ:(出発地は例年通り原爆ドーム前:検討中)
午後:1時から5時まで、広島市内で集会。前後30分は会場設営・撤収作業
*会場については、joh.most@gmail.comまで問い合わせること。
 午後の集会のテーマ:「アナーキズムをもっとおもしろくしよう!」
(集会の内容:開会のあいさつ、報告予定者3~4名、交流と意見交換)
 今年のテーマは、「どうやったらアナーキズムがもっとおもしろくなるか」、あるいは、「今、これがおもしろいと思っている」、「これが問題だ」といった話題を数名の報告者から提供してもらい、それについて意見交流をする、という企画を予定しています。
 集会の目的は、それ以外に、参加者同士の交流を促進することにもあります。パンフレット、ビラ、ブログやSNSでの活動、あるいは、ファッションやアートに関わる活動、労働、平和、教育、衣食住に関するさまざまな活動や意見をぜひ持ち寄っていただき、「アナーキズムをもっとおもしろくしよう!」という話し合いにご参加下さい。
1.集会に参加されるかたは、事前に、以下のいずれかのテーマに関するメッセージ(字数は自由です)を、joh.most@mail.comまでお送りください。
(1)アナーキズムを面白くするには (2)未来のアナーキズム (3)私が考えるアナーキズム (4)広島とアナーキズム (5)なぜアナキズムに関心を持ったのか (6)8・6に思うこと(7)自由テーマ
  また、日程が合わず参加出来ない方は、集会にメッセージなどをjoh.most@mail.comまでお送り下さい。お待ちしています。
 詳細については、決まり次第、順次このブログでお伝えいたします。
 5ヶ月後の8月6日は、皆さんと広島でお目にかかれることを楽しみにしています。
連絡先:joh.most@gmail.com
*参加希望の方は、今からご準備をおねがいします。当日は火曜日ですからお仕事などがある場合、ご注意下さい。また、デモ・集会の主催者が宿泊施設を提供することは、現状では予定していません。8月6日は平和記念式典とそれに伴う各種の行事が市内で早朝からあるため、例年、前日から宿泊施設は数ヶ月前から予約で埋まります。以上の点もご留意の上、各自で今からご準備をおねがいします。
Until today, we are thinking of the schedule and contens of gathering as follows:Date: Tuedsday of August 6,2019
Protesting in the Hiroshima Peace Park around 7am; demonstration stars around 9-10 am from the A-Bomb Dome as usual.Gathering in somewhere in Hiroshima city from 1 to 5pm.
The theme of the Gathering: "Let's make the anarchism more interesting!" Some participants begin to make their presentations for this theme.
The other
purpose of the Hiroshima Gathering is to promote exchange among participants. We invite you to participate this Gathering to talk about your everyday activities on pamphlets, flyers, blogs or SNS, fashion & art, labor, peace, education, clothing, food & shelter and more. Please join us.Details will be posted on this blog as soon as it is decided. 

We are looking forward to seeing you on August 6th in Hiroshima.
Contact: joh.most@gmail.com* Those who wish to participate, please prepare from now. We cannot provide you accommodation. Every year on the 6th August, because of the Peace Memorial Ceremony and various events accompanying it,  the accommodation facilities will be filled with reservations  from the previous day. Please also take care of the above points and prepare for yourselves from now. 
* Please notice: we think that we cannot prepare good translation system for no-Japanese people.
* If you can't join, please send message for our Gathering by text or movie. We can translate English, German, French, Spanish and Esperanto. We are waiting for your message!

<参考資料1>広島無政府主義研究会メンバーによる今年の集会に向けた討議資料
―原爆投下を巡る考察― 非<国民>とインター・コミュナリズムの視点から
Ⅰ. 8・6広島は、私にとってなんであったのかと考えを巡らせているのであるが、そこにあるのは闇である。ならば闇の中を下降して、薄明の中に展開しているはずの日常へと迫ることが必要であると思える。
 1945年と言えば、近代化を経て謂わば近代化が近代化として感じられない、日常そのものが舞台化した世界である。ここでは、日常性が舞台であるという前提のもと、8月6日に起きた特異なる現象を広島へと特化して考えて行きたい。
 闇の中から薄明が差し込んで、舞台と化した日常を様々な人々が、己に課された演技を懸命に演じている姿が見て取れる。人々は<国民>と刻印された不可視の記号を背負って、日々の営みを営んでいる。これは、これを書いている私自身も刻印されているということを意味し、日常としての舞台化は現在も継続中ということである。
 これらを踏まえて、8月6日の日常を見てゆこうと思う。人々にとって、日常性としての舞台が全てであって、この日の朝も日常性としての舞台が幕を開ける。早朝の広島上空をB29が飛来し、AM8:15に一発の爆弾が投下される事態が発生する。この一発の爆弾は、日常性としての舞台に裂け目を生じさせ、まさにカオスを生じさせる。この一瞬の事態は、エロスとタナトスが一気に結合して無へと化して行く状態である。エロスが抑圧・束縛であり、タナトスが解放であるとすれば、死そのものが解放であり、無が支配する逆ユートピアが現出した瞬間である。死によってしか、己の存在を解放できなかった無数の死者たち。逆ユートピアという形態にてしか実現しなかったユートピアこそ悲劇の最たるものである。
 ヒロシマが最初の逆ユートピアを垣間見せた最初の場所であり、解放と死とが合体した場所として、記憶せられる所と言えるであろう。
 裂け目は一瞬にして修復され、何事もなく日常性としての舞台化は継続している。これらを踏んだ上で、日常性としての舞台化は、いつ頃から形成され、無意識としての抑圧装置として機能しているのかを荒削りな形態にて見てゆき、ヒロシマを経た現在、解放の道は見つけ出せるのかを見てゆきたい。

Ⅱ. 良い悪いは別として、人はコミュニティの中で生を受け、コミュニティの一員である母から言葉を授かる母語、さらに関係性の中からコミュニティの言語を、生きるためにあるいはコミュニティの一員となる為にコミュニティ言語を身に付けて行く。そして大多数の人々はこのコミュニティにおいて自足していた。
 近代を経過する以前の人々は、原基としてのコミュニティを維持していたのではないかと思える。
 近代の幕開けと称される幕末の権力闘争は多大なるカオスを生じさせ、様々なる裂け目を生じさせた。このカオスをコスモスに転じるべく登場したのが、<近代>化を担うべき所の天皇制である。
 <近代>天皇制に課せられた最大の使命は、コミュニティを近代のシステムへと組み込み、新たなる抑圧装置として機能させる事、日常性そのものを舞台化し、連環させ、抑圧を抑圧と感じさせず、むしろアイデンティティをこのシステムへと収束させ、回帰させる最大のイデオロギーが<国民>概念の創出である。この近代の天皇制はカオスの拡大を収束するべき機能を果たし、明治以来生き延び、<国民の>象徴として現在から未来へ向けて、その機能を充実させて来ている。
 この事態の進展の過程で表裏一体となっているのが、原基としてのコミュニティの解体=コミュニティ言語の排除の徹底化と期を一つにしている事が言える。コミュニティ言語の解体はアイデンティティの解体へと連なってゆく。同時進行的に進められたのが、国家語=国語の習得の促進である。この意味するところは極めて大きい。国語=国家語を習得する過程に於いて、自らのアイデンティティは、国家語を通じて<国民><国家>へと連結してゆき、日常性としての舞台化が姿を現出させて来る。
 このことは、コミュニティの下で生きていた人々が、<国民>という擬態化された状態にて、エロス=生きるという事態が不可視としての抑圧、束縛へと連結することを意味する。
 ヒロシマが被った事態とは、この極北にて、エロスがタナトスと一瞬のうちに合体した事、そしてこれが悲劇としての解放の一瞬である事を押さえて来た。

Ⅲ. タナトスが解放であるというヒロシマの逆ユートピアを乗り越え、エロスが解放であるという道があるのかという課題が残されている。
 日常性としての舞台化の裂け目を至る所につくりだす工夫、日常性の舞台化を可視化させる道を見いだす事が求められている。
 一つの手掛かりとしては、原基としてあったコミュニティの探索であろう。所与としてのコミュニティではなく、あるべき形態としてのコミュニティの追求の中で、エロスが解放であるという端緒が見えて来るのではないだろうか。さらに<国民>概念の解体、反転である。<国民>という視点からではなく、非<国民>という立場を貫く姿勢、<国民><国家>とは違う関係性の追求により<国家>そのものを無化してゆくという方向性である。
 もう一つの解放へ向けた重要なる要素は、無意識下に埋め込まれた<国家語>の解体作業の促進である。
 <国家>によって独占されている学ぶという人間の習得機能をコミュニティへと奪い返す事、これによって<国家語>に内在しているイデオロギーを相対化させる事により、実質的に<国家語>をコミュニティ言語へと溶解させる。逆ユートピアとして表出したヒロシマの悲劇を乗り越える方途として、現在の所としては、非<国民>とコミュニティとコミュニティを網状式に結んでゆくインターコミュナリズムの方向性があるのではないかと思っています。

(附記)
Ⅰ. 今回、あえて原爆投下を巡る<国>と<国>それを調停するはずの法律の問題、そして被爆者と呼ばれる存在の問題を省略しました。
 前者については、<国>と<国>との間には法律関係など紙屑同然だと思っています。<国>にとって法律を課される事自体が意味を成さないものであり、<権力>によって自らの正当性を訴えるのが常であります。
 これは原爆投下についても言える事であり、投下した<国>も、投下された<国>も、自らの<国>を満足させ、自らの<国民>を満足させる為にこの事態を最大限利用し、ナショナリズムへと己の<国民>を引き込む為に最大限の努力を傾注しているのが現実です。
 被爆者に関しては、生き残った人達と把える事が出来ます。それはまた逆ユートピアが現出するのを焼き付けた存在でもあります。
 ただ復活した舞台化の中で、彼ら彼女達は、見事に己が属した<国民>へと回帰して行きます。そしてこの視点から逆ユートピアを語ります。
 これらはある意味で、逆ユートピアを現出させた国家制世界を補完する作用を促し、<国家><国民>の関係を永続させ、可視、不可視を問わず、弾圧、抑圧という機能を強化するという逆説的な袋小路へと陥っている現状と重なって来ます。

Ⅱ. アナキズムに直接関わる事について、最近感じている事を少し書いておきます。「テーマ」については大いに触発を受けています。
 アナキズムと言語との関係ですが、私が関わってからも、書き言葉が圧倒的な優位の地位を保っています。今回の「テーマ」はこの事態に対して、疑問を投げ掛けているのではないかと考えています。
 イズム以前の状態、アナーキーと呼ばれる現象に対して、自己批判を含めて、無関心、あるいは無視していたのではないかと思います。
 話し言葉の復権と言われる事態が起きても良いと思います。話し言葉によって事態が進展して行くという事が本来の姿ではないかと考えています。狭く把えれば運動の復活、広く把えれば、話芸と呼ばれるもの、歌なども含まれます。パトスと呼ばれるものの活性化、アナーキー=話し言葉の広範化、重層化によってより深くなるものと思えます。
 話し言葉をある意味、広く普遍的に伝達する手段として書き言葉があると思います。残念ながら、日本と呼ばれるこの地域に於いて、アナーキーなる話し言葉を育成する文化が育っていないのではないかと思っています。少なくとも、アナーキズムが存在を確かなものとする為には、書き言葉と同等に話し言葉としてのアナーキーを育て、成長させる事とが不可欠であると痛感しています。
 さらにもう一言。
 即自がアナーキーならば、対自がアナーキズムと言えます。アナーキズムが活性化している状況とは、この二項が伴走している事態と言えます。
 いつ頃からか、定かではありませんが、この二項のうち、対自としてのアナーキズムのみが独り歩きを始めて、久しいと言えます。対自としてのアナーキズムは、過去の対象化された事物の総称であり、謂わば死した言葉と言えるでしょう。
 現在の情況は、逆立ちした状態であり、苦しみの中にあると言えるでしょう。
 この情況を脱する道は、再び二項の一方、即自としてのアナーキーが活性化する事ではないかと考えています。
 生きた言葉、弁証=対話の活性化、口頭による伝承、行動による伝達、等々、これらを如何にして発展させるかが、一つの鍵となると考えます。
 対自としてのアナーキズムが、即自としてのアナーキーから様々なる要素を吸い上げ活性化する。また一方硬直化した対自としてのアナーキズムは即自としてのアナーキーにより解体、再生の道を歩む。
 この循環を経る事が、本来の姿であろうし、二項の平行状態、均衡の弁証法が求められていると言えます。