2018年8月3日金曜日

2018年8・6ヒロシマ集会 資料5 「アナキズム死すべし」Material No.5 for August 6th Hiroshima Anarchist Gathering: "Death to Anarchism", in: Free Will, July 7, 1989.

石部邁「アナキズム死すべし」『自由意志』第7号、1989年7月7日
(読みやすさを考慮し、一部改変) 
 私がなぜ「アナキズム」にひかれたのか? それは社会主義、共産主義のもつ「いやったらしさ」のない新鮮さにあったように思う。開かれたページは白紙であり、そこに自由な絵が描けるという期待があった。
 しかし、「アナキズムの世界」の周辺をいざウロついてみると、そこは手垢だらけで、コケむした古文書があるだけだった。
 思うに、私の動機が不純だったのだろう。この「世紀末」に、そんな無垢なものが残っているわけがないのだ。
  勝手に思い込んで、そこに幻想を抱いてみても、裏切られるだけということを知っているはずなのに、まだ甘さがあったようだ。
 私の甘さの代償は、「アナキズム」とは、「達成されなかった共産主義者の夢」が詰まった空の福袋にすぎないという認識である。
 共産主義者は、共産主義が理論的に正しいから「主義者」となっているわけではない。自らが抑圧を受け、支配されていると「感じ」それを排除しうるものとして最も妥当であると本質的に直感し、支持したのだ。
 そしてその「壮大な実験」がさまざまに行われ、結果、今深い混迷と失意の中に彼らは立っているといってよい。
 アナキズムは、そのような「共産主義のもつ欠陥」の「ないもの」として仮想され存在している。否、「存在していない」ために「正しい」とされているのだ。つまり、アナキズムは共産主義者のように、実体化され、歴史に検証されないが故に、「正しく」「すばらしい」ものなのだ。
 そこでその「正しい」アナキズムのメジャーをもって街に出て、計測を行ってみると無数のアナキズムが発見でき、そこかしこで「正しさ」がますます証明されうることになる―このようなアナキズム―フェティシズムが、現在のアナキズムワールドの実態である。
 「切片」となったアナキズムは、当然時間をも失い、化石化していく。例えば、あの愚劣の極みともいうべきアナキストカレンダーなど好例であろう。
 これなんぞ、アナキストなら誰もが非難してやまない某国の革命英雄記念碑の発想と、どう異なるというのか?
 私なんかは、前者のほうがより悪質とさえ思うのだ。
 また、散見するアナキズムについて述べられている見解にしても、十数年前にあって「遜色」のないものばかりだ。
 出版物についてはなおさらである。ほとんど「古典研究」の世界である。まれに新しいセンスで「アナキズム」という国語が使われていても、「ヤツはアナーキーなやっちゃ」と同程度のものと考えてほぼまちがいない。
 これらの数多くの現れたる悲喜劇は、アナキズムワールドが根本的に病んでいることを示す証明となっている
 とにかく「共産主義はクソだ」といえるように「アナキズムもクソ」だという正しい理解が肝要である。「真理」は併存するものなのである。
 かつては「唯一の真理」が希求され、ために、その都度、激しい闘争が繰り返されてきた。
 換言すると「単一世界」の生成である。あるときはアニミズム的世界が、あるときは絶対的宗教が、王制が、ファシズムが、共産主義がイニシアチブを取ってきた。
 これら「単一の世界」の生成は、そのたびごとに「異端」を生み、そして「排除」をおこなった―こういう見方は半分は当を得ている。
 しかしながら、「単一世界」が生成されたことなど一度もないのもまた真実なのだ。
 この点に関しては、一部の「わかっている」アナキストも指摘するところであろう。
 だが、アナキズム自体もその対象になっているということを、彼らは完全に忘れてしまっているのだ。
 アナキズムはその「金科玉条」として、「反権力」「反国家」「反権威」等々を掲げているわけなのだが、それら「反」される「権力」「国家」「権威」に対する分析は、せいぜいのところ「悪いから悪い」というトートロジーにすぎない。
 それらを「単体」として、まるで個体として誤解される原子モデルのごとく見ているのである。 
 だから、「個」だの「国家」だのといったところで、「19世紀謹製」の「単体」観で停止している(大杉やマラテスタが通用しているわけだ!)。
 だから「アナキズムが時代を担う思想である」というような恥ずかしいことは考えないほうがよい。そんなヒマがあったら、人や社会について実証する作業に取り組んだほうが賢明というものだ。
 現実を規定する力を到底持ち得ないアナキズムを、持てるものとして仮想し、あれこれイジクリまわしても、得られるものは何もない。
 しかし、この「創造」の作業が、思弁の作業としてのみおこなわれるならそれもだめだ。
 言語化の作業は、言語を超えた「行為」(生活でもよい)があって初めて生まれるものである。
 この超言語的「行為」、あるいは言語に先行する「行為」なしに言語化の作業を試みても、それはむなしい記号のゲームにすぎない。
 この愚をあえて犯すなら、前述したように、単なる「アナ―フェチ」である。言語化したり、人に伝達する資格はない。
 そう言うと「行為そのものが難しいじゃないか」とあくまで強弁するアナキストに私は回答を有しない。
 アナキズムは元来、「個」を軸心とした思想であるはずだ。社会や環境に働きかけることが困難な状況下であれば、自らを基本として動けるはずだ。
 そりゃそーだ。自らのアナーキーを感ぜられないものが、どうしてアナキズムをつくれようか。「自由」を知らない者が、その「自由」について語ったり、言語化したりするのはおこがましいかぎりだ。
 何かというと、アナキストは「集団」ではなく「個」だの「私」だのと主張するが、いったいアナキズムが「個」や「私」にどう関係しているというのか。
 世界的に見ても、今日ほど「個」や「私」が危機にさらされている状況はない(日本のように「個」や「私」の成立自体できていないところを含め)。
 日本でも「新・新宗教」の乱立、自殺者の続出、神経、精神系の「病」に苦悩する人々も増加している。
 これらアイデンティティの危機に、その一端にすら何ら有効性を持ち得ない「個」の思想など、どういう存在価値があるというのだ。少数派に対しても的確な手を打てず、環境に対する影響力ももちろんなく、あほらしい記号のやりとりに終始する「不(無)作為思想」の世界!
 嗚呼やんぬるかな!
 私はここで宣す! すべてのアナキストよ、今こそアナキズムのくびきを脱して自由になろう。アナキズム死すべし!
 これが私のささやかな結論である。

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