芹沢康「黒旗はただ腹巻きに隠し持って―新編集部にわかって欲しい事―」『自由意志』第73号、1995年6月20日、4-5頁。
(一部を抜粋。文字・表記など一部改変)
・・・それは、あの8・6広島集会の初回のことだったと思う。今同様その集会の趣旨は今ひとつピンと来るものではなかったのだが、一応全国からその筋の面々が参集するというので足を運んでみた。
さて、とりあえずも形どおりの室内集会が終わって、いよいよこれからデモに出発しようという段での話である。「はてコールをどうしようか?」ともめたことがあった。そのとき私は「いっそ黙って行進したほうがボロも出ないしオッカナそうでいいんじゃない」と提案し、アッケなく退けられたわけであるが・・・
要はアナキストたる自己規定が、そして、ましてや他者に向けての自己表明が己のプライドを十分に満たしうるか否かの問題としてまずはある。それがままならず、下手な小出しの手法で恥をかくくらいならば、いっそ黙っていたほうがまだましだということだ。
これを単なる自己満足の問題としてやり過ごしはしないでもらいたい。
なぜなら、そもアナキストという選択とはあれこれの社会制度をめぐるユートピア願望の課題ではなく、そのように生きたいという、生き方死に方を問う一つの指標なのだから。
つまりはカッコ良く生きる人生選択の問題にほかならない。
・・・「さすがアナキスト」と人をして言わしめる身の振る舞い、ことばの運びこそが絶えず問われるのだ。
そう「さすが」という前置詞がついてこそ初めてアナキストという語は文法上、正しい表記となるぐらいに考えておけばちょうど良いだろう。
したがって、そこにあって「カッコ良さ」というのはいたって重要なメルクマールとなるのだ。
では、何がどうなれば一体「カッコ良く」なれるのか、という事だ。
もっとも、こういう設問のしかたをすると、それを、各人の美意識(考え方)の幅にしたがってむちゃくちゃに拡散し、もって、そうした価値相対主義こそがアナキズム=自由意志であるなどという輩が必ず登場してくるのだが、そんな単なる物わかりの良さに終始していたならば、いつまでたっても「カッコ良さ」は実現しはしないであろう。
そこで5年前のあのとき、私は少々乱暴にも次のような物言いで、かかるアナキストの「カッコ良さ」について一刀両断的に語りきったものだ。
「三度の飯よりケンカが好きで、権力に傷を穿つことに無上の喜びを感じてしまう人間。よって、その結果として制度の道をずれ、無頼を張っている人。他はない」と・・・。
・・・いずれにしてもアナキストとはアナーキーという独自の「カッコ良さ」をキーワードとして成立する人生選択上の概念(モデル)の意である。・・・つまり「カッコ良く」生きなければアナキストではない!・・・・
あの広島での「いっそ黙っていたほうが良い」というのは今にひきつぐ私の基本的考えだ。
いつの日かカッコ良く決められるまで「アナキスト」の金看板は絶対御法度にするべきである。
内容もないくせにやたら黒ずくめのチンドン行列ばかりひけらかしたがるどこぞのボッチャンたちにはホンマ勘弁してほしいワ(まあ、連中ばかりじゃないけどネ)。
きちんと”カッコ”にこだわるならばアナキストになれる瞬間なんていわば人生のロイヤルストレートフラッシュ。一生のうちそう何度もやってくるものじゃない。
無論、私自身も含めてまったく「アナキストなりがたし」である。
そうである以上、普段はただただポーカーフェイス。
黒旗はせめて腹巻きに隠し持ってこそふさわしいというものだ。・・・
【追記】原稿を引き受けた直後に例のオウム事件の報道ラッシュが始まった。イノウエサン、カッコイイ。またしても先を越されたな、という思いでテレビに釘付け。
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