2018年8月3日金曜日

2018年8・6集会 資料8 「農村青年社をめぐる断章」Material No.8 for August 6th Anarchist Gathering in Hiroshima: "Considering on Anarchist Agrarian Youth Society in 1930's"

よのすけ「農村青年社をめぐる断章」『広島無政府新報』第37号、1986年1月、1-3頁。(一部改変)
 過日われわれは「農村青年社」の思想と運動を「農村青年社」のメンバーであられた和佐田氏より聞く小集会を催した。
 われわれが意図したものは、現代へと継承するべきその志向性とともに、実践を踏まえた行動への足がかりを模索するためのものであった。
 「農村青年社」の運動は世界的なる大恐慌と天皇制ファシズムの本格的なる台頭を迎えた1930年代を舞台として展開されている。 
 この時期は無政府主義運動が混迷から退潮へと向かう時期に当たっており、当時の無政府主義戦線の一定の批判の上に立って遂行されたもので、それらはフランス・サンジカリズムを掲げるサンジカリズム派と八田理論の一面的解釈に基づく当時の黒連を中心とした純正派をともに否定する地点から出発して、「無政府主義革命」を視野に入れたところの革命的運動であった。
 両派の否定的出発点としてあり、「農村青年社」の無政府主義革命の基軸に据えられたのが、「農村」を基盤とした「革命的地理区画」=自由コミューンの獲得、それらを網状的に連合した無政府主義社会の建設である。
 「農村」を基軸に据えたということは、単なる当時の時代的背景および産業構成上の観点からするところの戦略的発想のみからで出たものではないということが重要なるポイントになってくるといえる。
 これらは資本制生産様式そのものから外化されているが故に、逆にこの資本制生産様式に拘束されずに、最低限の自活が可能であるという前提があり、この前提の上に立って所与の農村を意識的に権力の支配網から分離するという工作と併用して、農村における一村をまるごと変えてゆくために状況に合わせたプロパガンダがおこなわれ、これらを主体的に担った村の青年層を通じて浸透させてゆき、最終的には一村を完全なる独立単位=自由コミューンとして確立してゆくという形態を取っている。
 そしてこれらの農村を基軸として、小規模産業の形成=都市労働者の移住という形で、農・工連合を<国家・総資本>と対峙する形で構想していたとのことである。
 さらに都市の無政府主義者については、<都市>の焼き討ちによる<都市機能>の解体、最終的には<都市>の消滅という作業が与えられていたということである。
 このように見てゆく中で、「農村青年社」の思想と運動形態がある面において、当時の状況=1930年代に非常に拘束されながら、ある面においては現代へと継承してゆくべき重要なる視点を提供している部分として、われわれ自身そこからいくつかの教訓なり指針を引き出してみたいと考えている。
 第1番目には<場>―<地域>を具体的に設定してそこへの基盤を固めていったということが大きい。
 当時においては<農村地帯>が元気となっているが、これらは現代においては資本制制生産様式が完全に上げ底化されていない部分を<場>として設定し、<地域>として獲得してゆくための重要なポイントになってくる部分と思える。
 さらに<農村青年社>において<農村>が、<生産単位>の原基として押さえられているということ。
 これらの視点は、従来<労働>を中心として組織されていた枠組みを、<生活>を中心としてその中に<労働>としての組織を組み込んでゆく、という、いわば<生活>の原基から<労働>組織形態を捉え返し、<場>―<地域>そのものの中で、<労働>の組織形態を再構成し、<生活>―「労働」という構成と<場>―<地域>という構成そのものを、われわれの内において奪取し、権力の支配網からの分離を図っていく。
 それらはコミューンと呼ばれる原基をなすものであるが、<生産単位>としての<賃労働―資本>のサイクルからの分離として捉えられるものであり、このような視点から見てゆくと、いかに<生産単位>としての組織形態が多く存在し、<生活単位>としての組織が分断され、<国家―総資本>の網の目の中に捉えられているかわかろうというものである。
 第2番目においては、既存の組織のある部分、これらはいつの時代でも<青年層>になってくると思えるのだが、いかにして働きかけその共闘関係を形成してゆくかという戦術上の問題である。
 かれら「農村青年社」のメンバーは当時の村の指導的青年層に対して強力なるインパクトを与え、また、青年層自らが変革してゆくという意識を賛助しておこなった。
 具体的には村の会報に「農村青年」という機関紙の内容を転載することによって、そのイズムを浸透させていったということである。
 これらはいかに切実にその要点を捉えていたかを物語るものといえるであろう。
 現代においても、このような視点からのアプローチは求められており、さまざまなる闘いを展開する上において、一つの重要なる指針となるものといえるものである。
 第3番目は、無政府主義者自身に直接関わってくる問題であるところの<組織>に関するものである。
 彼ら「農村青年社」は、既存のグループを<結成>主義として批判し、自らの組織原理を<自主分散>組織として規定していっている。
 それらは自らが主体的に働きかけることによって、自ら組織化してゆくというものである。
 それらは最悪の場合には、おのれ一人でも活動を遂行してゆくという想定の下に語られている。
 この組織の前提には、強固なるこの存在、その個を中心として他の個的存在との連合を計るという、いわば<自由連合>の最も原基的部分の再定義であり、この部分をあえて<革命グループ>としての「農村青年社」が発せねばならなかったということは、無政府主義者としての主体性の欠如がいかに進行していたかを如実に物語るものであり、それらは現代においても連綿として引き継がれてきているものといえる。
 <組織>においては個が主体となり、グループが生じさらに<地域>での活性化、そして最終的には全国規模での連合体という形態となりうるのが望ましいと思える。
 これは過去においても現代においても最も欠如している部分は<地域>ではないだろうか。
 個→グループ→全国という形で形成されてきた幾多の無政府主義者のグループにとっても、「農村青年社」が批判している<存在>無政府主義者ということばを実質的意味で克服し得た部分は今だ存在していないといえるであろう。
 その意味でも<存在>無政府主義者から<地域>を拠点とした無政府主義者としての契機をいかにして捉えてゆくかという問いに対しても、「農村青年社」の活動の足跡をかえりみてゆき、そこから汲み上げるべきものが多くあるといえる。
 <コミューン>と<国家>の問題について、和佐田氏は一村総武装という形にて答えておられた。
 この総武装ということは、あくまでも<国家権力>に対するコミューンの防衛という観点からであり、この面での参考は、ロシア・アナキストのパルチザン論、マフノの戦いから想定できうると思える。
 最後に、総論的にいえば、当時の「農村青年社」のごとく、<場>―<地域>を所与として受け入れ革命の礎としていくという戦略がストレートにとりがたくなってきていることは事実である。
 <場>―<地域>とも<国家権力―総資本>によって完全に包含されている現実の中で、われわれとしては所与としての<場>―<地域>を相互批判による活性化により、再度<場>―<地域>を捉え返すという作業から取りかかり、意識化としての<場>―<地域>の奪還―分離を図るという過程の中から、不可視としてのコミューンの形成を図ってゆくということをなしてゆく必要があると思える。

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