2019年6月17日月曜日

2019年広島集会配布予定:陛下さん、あんたの腹ん中を見せてみい! -ヒロシマが問う、ヒロシマを問う、「戦争と平和とアナーキー」- The text of the Flyer which will be distributed in Hiroshima on August 6 2019

陛下さん、あんたの腹ん中を見せてみい!
ーヒロシマが問う、ヒロシマを問う、「戦争と平和とアナーキー」ー
「陛下さん、あんたの腹からのことをここでしゃべってみい。あっそういうて帽子を振っとるだけじゃあ、うちゃあ納得できん。おれが納得するまであんたの腹からのことをしゃべってみい!あんたの腹ん中を見せてみい!」 
           流川のスタンド「六歌仙」のママ高橋広子さん  

 1975年10月31日、皇居石橋の間で行われた日本記者クラブ記者会見で中国放送の秋信利彦の「……戦争終結に当たって、原爆投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか、おうかがいしたいと思います」の質問に対して、ヒロヒト天皇は、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています」 とこたえました。
 戦争中の言い方をするなら、聖戦であり、皇戦だった、まさに天皇の戦争はアメリカの原爆という最悪なことになるのですが、ヒロヒトは、それは戦争中のことだからやむを得ない、と済ましたのです。
 これは、『ザ・タイムズ』の中村康二記者の、「……また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」の質問とそれに答えるヒロヒトの、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」の発言を受けての質問ですが、ヒロヒトの全く他人事のような答えに中村も秋信も返す言葉に窮したにちがいありません。冒頭の広子ママに言わせれば「あんたの腹ん中を見て、ようわかったわあ!」ということでしょう。
 後に秋信は中外日報の取材で、「広島の記者として、もう少し別の言葉で質問するつもりだったが、あのような表現になった。日本の記者が、被爆に触れないわけにはいかない。原爆をタブーにしてはならないという思いだった」(2010年10月2日 中外日報社説)と答えています。
 誤解をおそれずに言うなら、中村も秋信も程度の差はあっても、まぎれもなく少国民として育った世代の者たちです。大人たちから国父、天皇のために死ぬことこそあるべき美として教え込まれた「赤子」です。
 神国の日本が戦争に敗けることなどありえず、もしそのようなことになれば、責任を取って大将の天皇は自決するだろうと教え込まれた世代です。ここに菊のタブーなどありません。中村も秋信も客観的事実に基づいて質問しているだけなのですから。
 しかし、その国父がこのように答えた時、中村や秋信はどう態度をとればいいのでしょうか。いや、そもそもそのような国父と赤子、思いきって言えば、そんな親分-子分の関係自体が人工的な虚構なのだと言われれば、それはそうなのですが、しかし、それでは天皇を神として、国父として信じて死んだ者たちをどう考えればいいのでしょうか。そんな嘘八百を信じて死んだ方が悪い!と誰が言えるのですか。しかも、その虚構の関係は現憲法の第1条、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの地位は主権の在する日本国民の総意に基づく」によって既定されているではありませんか。
 ヒロヒトの血も涙もない無責任な態度で広島市内の老人ホームに行き、そこの老人たちは「陛下さまが来られて、これで思い残すことがありません」と感激したことを想起しなければなりません。この関係はすでに言葉を越えていると言わざるをえません。
  しかし、同時にヒロヒトの発言が、広島・長崎の被爆者たちが市民社会から「いつまで原爆のことを言っているのか!」と嫌悪されたことも想起するならば、別に驚くようなことでもなかったのです。実際、この発言で大きな騒ぎも起きませんでしたし、多くの被爆者たちが沈黙を選んだのですから。
 このやりとりの後、司会の渡辺誠毅(日本記者クラブ理事長)の機転によってヒロヒトの健康の秘訣や好きなテレビ番組の話で記者会見場は爆笑会見になったのですが、それはまさに戦後の市民社会の縮図に他ならなかったのです。
  秋信は1960年代から中国新聞社の大牟田記者とともに被爆者援護問題を取材し続け、その一生涯を原爆投下後の広島市内で胎内被爆して産まれた小頭症児問題の取り組みに費やしました。原爆投下、つまり被爆者のことは戦争中のことだからやむを得ないとヒロヒトは切り捨てましたが、小頭症児とその親たちは被爆者援護法制定を目指した反核平和運動からも置き去りにされたのです。国が小頭症を原爆によるものとそれらしい病名をつけてしぶしぶ認定したのは1960年代半ばになってからのことです。
 敗戦直後のGHQによるプレスコードの中ではじまった被爆者たちの文学表現活動は1954年の第五福竜丸被曝を機に原水爆禁止、被爆者救護運動の中で全面開花していきました。
 しかし、戦後の護憲平和運動のトップランナーに早くも黄昏が迫っていました。60年安保に対してどう態度を決めるのかをめぐって運動は分裂し、さらには米ソの核実験に対してアメリカの核実験は反対だが、ソ連の核実験は容認するという混迷に陥りました。
 そのように時代状況を見るなら秋信の質問は思いつきで言ったものではないでしょう。それは1965年6月15日、原爆症による乳癌で死んだ正田篠江の、 「天皇家の人々が、テニスやスモウや野球をごらんになるばかりではなく、原水爆禁止運動に力を入れてほしいのに、されないので、はぐゆうて、はぐゆうてなりません」の叫びであり、八島藤子(栗原貞子)の、「養老院のとしよりにも、戦争で親を失った孤児たちにも、やさしくほほえんで「お大切にね」……少し猫背のおやさしい人間天皇さま。……けれども東京から広島へ小豆色の宮廷自動車数台を特別輸送させ、県はピストルと棍棒の警官隊の警備費何百万を計上し……」と、その欺瞞性の弾劾に繋がるものであり、広島の記者として被爆者たちがケロイドを隠すために夏でも長袖を着て市民から白眼視にさらされていることや多くの被爆二世の若者たちが差別され自殺に追い込まれていること、そして何よりも中国放送の目の前に原爆スラムが戦後30年経ってもまだ残っていることの告発に他ならなかったのです。これが、天皇をありがたがって戦争をした結果ではありませんか!
 しかし、これは単に1975年の記者会見場におけるエピソードではありません。戦争主義者安倍は日本が戦争ができる国に向けて突き進んでいます。そして、今年はナルヒトが新たな天皇として君臨しました。ナルヒトが水問題やジェンダーに関心を持ち、アキヒト以上に良い天皇であっても、わたしたちは騙されてはなりません。天皇をありがたがった結果が戦争であり原爆投下だったのですから。わたしたちは今こそ声を挙げなければなりません!

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