2013年9月4日水曜日

第3回研究会の報告 Report of the 3rd Regular Meeting on July 21, 2013



3回研究会の報告

日時:2013721日(日) 1417頃まで
場所:アートNPO remo(レモ)
出席者 12

酒井隆史氏の報告「逸見直造とその時代」の要旨
逸見直造(1877-1923)は大阪で貧しい人々の視点からユニークな社会運動を展開した人物として知られている。また、大阪の貧しい労働者が集住した水崎町(当時から貧しい労働者が集住した地域で、その後、釜ヵ崎と呼ばれる)にあったその自宅は、アナーキストが集まる拠点でもあった。

アメリカ体験
 逸見の母親の美代子は開明的かつ反権威主義的な感覚を持つ人だった。彼女は、東京で見たガス灯に感激し、ランプ製造を思い立ち、大阪で石油ランプ製造業を始め成功する。彼女は、子供たちを独特の教育方針で育てた。学校は小学校だけに行く。成人したらアメリカで自立的に生活し、実業家修行のために新知識を学ぶ。
逸見はこの方針に従い、徴兵検査を受けると、1899年に渡米する。パン職人や農業労働者など、当時の日系移民労働者が従事していたほとんどの仕事をしながらアメリカ各地を転々と移動した。1905年、二人の中国人とシアトルで下層労働者を対象にした10セントで食べられる低価格の食堂を開始するが、白人の業者に雇われた「やくざのカウボーイ」数十人が店の中で八百長けんかを行い、店は徹底的に破壊される。
これをきっかけにして逸見はアメリカを放浪し、労働騎士団、I.W.W.について見聞を広め、会えなかったが、ニューヨークのエマ・ゴールドマンの自宅を訪ねている。
サンフランシスコで日本人の社会主義者の長谷川市松(1883-1917)と知り合い、帰国後に再会。長谷川は帰国してからは表だった活動はしていないが、逸見にとって長谷川との大阪での再会が人生にとっての転機であったといわれている。

低家賃住宅経営の失敗と「店子の思想」
 逸見は、1908年、兄の死亡に伴い、ランプ製造会社の廃業、会社の財産処分を行うため帰国し、資産を得る。
 かねてから近辺の労働者の劣悪な住居に心を痛めていたため、のちの釜ヵ崎と呼ばれる地区で貧乏人向けの20軒の長屋を建設する。
 当時最低の家賃のさらに半額という破格の低い家賃で貧民を入居させるが、誰も家賃を払わず、住人による共同のアヒルの養殖で彼らの収入を増やそうとするが、住民は次々にアヒルを食べてしまい、事業にならなかった。共同で運営する風呂も作ったが、誰も風呂をわかそうとせず、逸見だけが風呂を沸かすことになり、共同の事業として成り立たなかった。
  この経験から逸見は、低家賃の家や風呂という物質的な供与は貧民の解放につながらないという結論を得た。これが「店子の思想」と彼が呼ぶ一種の生活者の哲学の誕生につながる。
 「店子の思想」とは、払えないのになぜ家賃を払わなければいけないのか、払わなくてもよいものは払わない、という貧しい店子側の論理に基づき、資本主義の論理に異を唱えるラディカルな思想である。
  これに対して、当時の社会改革家たちは、貧民の習慣や思考を資本主義社会に適合させるために、家借を前払いさせ、貯金を強制させていた。
  しかし逸見は、人々の生活に介入するのではなく、彼らを疎外しつつ介入する政府と市民社会そのものに介入するべきだと考えるようになった。

映画館勤務と街頭政治宣伝
 1912年以降、親戚の紹介で、大阪の映画館で勤めることになる。仕事は客の呼び込みや看板作成だったが、呼び込みでは、「いらっしゃい」の言葉の合間に政治宣伝を盛り込んだ。
 あるときは、アメリカで経験した八百長喧嘩を長谷川と演じた。映画館の前で、政治的な論争でけんかをし始め、人々が取り囲むと、彼らを意識して論争をした。
 また、架空の映画の看板を作り、そこで官憲や戦争を批判するメッセージを伝えた。
 逸見は、長谷川に映画館の仕事を与え、映画上映後、官憲の監視からはずれていた部屋を、長谷川ら社会主義者の会合に提供した。
  逸見や長谷川の路上での政治宣伝には、労働騎士団やIWWのスタイルからの影響がある。太平洋を越えてアメリカと日本の社会運動がつながるこのような現象は、近年ではトランス・パシフィック・サンディカリズムと呼ばれる。

労働者無料相談所、米騒動、アナーキストとの交流
 逸見は、長屋経営をやめ、家族とともに紙箱製造業を始め、その後、映画館の仕事を辞めると、紙箱製造が本業となる。
  だがやがて、彼は事業を家族に任せ、自分は社会運動にのめり込んでいく。
  自宅には「労働者無料法律相談所」の看板を掲げ、逸見は、労働者の相談に応じ、裁判所に通い、雇い主との交渉に通った。
  また、家賃高騰や立ち退きの強制など借家をめぐる紛争にもかかわった。
1918年、富山の漁村の女性たちの抗議行動から始まる米騒動は日本中に広がり、大阪でも民衆は米商に対して安売りを強要し、さらに米屋を焼き討ちした。
 このころ、大阪に来ていた大杉栄と逸見は初めて出会い、米騒動の状況を見て回っている。
これ以降、東京のアナーキズム・社会主義運動と逸見との交流が活発化する。大杉らが1919年に設立した労働運動社の大阪支社は逸見の自宅となる。

「訴訟狂」
 1919年、逸見はこの頃から裁判を立て続けに起こし、「訴訟狂」と呼ばれるようになる。
  最初は、電力会社が詐欺を行っているという理由で裁判を始める。電球の明かりが暗いことが気になり、アメリカから光力測定器を取り寄せたところ、大阪の電力会社が公式に伝える光力よりも実際の光力は少ないことがわかったからである。逸見は法廷で、「弁護士底抜けの雄弁」だったと伝えられている。このときの逸見の訴えは、会社に責任はないという理由で棄却される。
  そこで、電力量にあわない支払いをさせられた、という理由で支払った料金の一部返還訴訟を起こす。これがマスメディアに大きく取り上げられ、もともと評判の悪かった電力会社であったことも幸いし、裁判の傍聴席は満員となる。
  会社側の敗北かと思われたが、会社から派遣されたやくざが逸見の家に来て、命が惜しければ訴訟を取り下げよ、と迫った。
  逸見は、この問題はマスメディアに広く取り上げられ大阪中で話題になっているから自分だけでは決められない。電力会社は新聞社と話し合ってもらいたい、と伝えた。
  裁判の目的は、勝つためではなく、社会にアピールすることだったからである。
  その後電力会社は、新聞記者を集めて宴会を催し、新聞記者たちの提案を受け入れて、電力料金を据え置くことにした。
 翌1920年、大阪市営電車が電車賃の値上げを行う。その際、すでに発行されている乗車券、回数券は、新券と交換しなければ無効になり、また、増額分を支払わなければ交換しない、と市側から伝えられていた。
  逸見はすぐに電車を経営する大阪市長を相手取った訴訟を起こす。理由は、回数券が、先払いした運賃ではなく、有価証券である、というものだったがこれは敗訴した。
  次に逸見は、市電の運賃を上げたという理由で、京都市長を相手取って同様の訴訟を始める。このときも、電車賃値上げ前に購入した回数券は有効である、と主張したが、この訴えは棄却される。
  だが、旧券の新券への引き替えを請求した訴訟は勝訴した。
  これに基づき、先に敗訴した裁判で認められなかった、旧券が有効である、ということを確認するため、訴訟を再度起こす。
 以上の訴訟について、次のようなエピソードが残っている。
  値上げによって旧券が二週間で無効になると聞いた逸見は、様々な人から旧券をかき集めて訴訟を始める。表紙がないものは無効であるという回数券の規定が根拠になって敗訴になると、今度は表紙があるものを人から集めて再び訴訟をする。
  逸見は、全く同じ訴訟を数日おきに裁判所に持ち込むため裁判所は混乱し、京都市側の弁護士費用もかさむ、世論がこれに注目するようになると、街頭に出て「旧券でも市電に乗れるなら、みんなで乗ろう」というビラを配り、大勢が旧券で乗るので、市電側も乗車拒否できず黙認した、と。
 もう一つの裁判は、逸見が自宅の家賃を払わないことに対する家主からの明け渡し訴訟である。
  逸見は裁判戦術によって時間を引き延ばし、敗訴が決定すると、表札を他人名義に変更し、正しい名義人が記載された礼状を持って差し押さえに来い、と言って執達吏を追い返し、これを繰り返した、と伝えられている。
 このとき、家の前に看板を立て、裁判の経過を刻々と伝え、困っている借家人の相談に応じながら、世論に訴えた。
 これ以外にも、賃金不払い、解雇、労働災害など、持ち込まれた多様な相談に乗るようになる。こういった問題を解決する上で逸見がとった行動は、通常の社会主義者やアナーキストには見られないものである。
  たとえば、借家人を訴える悪徳大家と戦った時には、大家の息子が通う学校の前で、この学校に通う誰それの父親は悪徳の家主である、と書かれたビラを配り、息子がいじめられたため、大家が態度を軟化させる、ということもあった。
 既成の道徳というものに縛られず、理想と現実を一致させねばならないという原則にも縛られなかったため、その発想と行動は創造的であった。

借家人同盟
 1919年頃から、大阪の家主は、不景気の到来を予想して、家賃の値上げをはじめ、払えない店子たちを強制的に立ち退かせる、という事件が多発するようになる。
  1912年から21年までに大阪の家賃は2倍になり、1921年から23年までに、大阪で借家をめぐる裁判が1350件から1790件へと急増している。流入人口急増に伴い住宅が不足していたことにより、家主は強硬な態度をとることが可能だった。
 1921年に国会で可決され成立した借家法は、借家人の権利を守るように見えながら、実質的には家主が状況の変化を口実に自由に家賃価格を設定できるような条項があり、借家人いじめの法律だったとも言われた。
 おそらくは、法律の成立にあわせて、逸見に率いられた借家人同盟は211月に結成され、数日間で加盟者数が700名になる。
 大阪中心部でデモを実行しようとする。いったん許可を与えた警察は、突然禁止したため、逸見はデモのために作成した旗などの代金の返還を求めて警察を訴える。
 この年の2月、大阪で借家人同盟の演説会が開催され、4千人が集まる。アナーキスト大杉栄の出席も噂され、警察官数百名が配置される。
 逸見が演説を始めると暴漢二人に襲われ、頭から血を流した逸見は病院に行き、暴漢は易々と立ち去り、警察は暴行を止めなかった。残された聴衆は警察を非難した。
その翌日、逸見と借家人同盟は別の場所で演説会を開くとすでに待っていた1500人が入場し、大歓声の中で逸見が演説した。
会場から閉め出された聴衆が会場の外で騒ぎ、ドアを破壊して会場になだれ込んだ。混乱の中、警察から解散命令が下るが2時間以上にわたり群衆は騒ぎ続け警察と小競り合いを起こしていた。
このとき、逸見の他に、アナーキストの岩佐作太郎なども演説したが、警察からは、散会してくれという懇願があった。聴衆は去ろうとしないため、司会が、今日われわれは当局に勝った、と宣言して万歳三唱をして散会となった。
 この頃から、大阪では家主の組織が、新しい借家法に基づき、借家人を被告にして家賃値上げ訴訟を始める。
 値上げ幅は半年で2倍という高額なものだった。
 これに対して、逸見直造が組織する借家人同盟の支援によって、被告の6名の借家人が勝利する。裁判所は家主側の主張よりも低い価格を家賃の適正価格であると判断したからである。
 同年3月にも、借家人同盟は、二日にわたって演説会を開き、逸見以外に、社会主義者、アナーキスト、サンディカリストによる演説が行われている。
  5月には日本初の女性社会主義団体からも参加があった。警察は逸見ら関係者と、東京から来た女性たちを全員拘束した。
 しかし予定開始時間までに会場周辺に数千名の群衆が集まったといわれる。逸見逮捕により解散という知らせを聞くがなかなか解散しなかった。
 また、この年、1921年は日本でストライキが頻発し、大阪では初めてのメーデーが開催される。メーデーのパレードには逸見らも参加している。
 逸見直造は215月に発行したパンフレット『借家人の戦術』において、次のように主張していた。土地の価格上昇は、そこに人が住むことによって起きるのであり、その利益を家主だけが得るのは不条理であり、当然、そこに住むようになった借家人もその利益に預かるべきである。また、市電が走るようになって地価が上がれば、それは、家主だけではなく、全市民に対して何らかの利益還元があるべきである。
 逸見は新たに制定された借家人法とそれが根拠とする資本主義の論理そのものに異を唱えていたのである。
 216月には、借家人たちによる家賃の値下げ訴訟が起こされている。逸見と借家人同盟が支援していたと推測されている。
 逸見は、民法のいくつかの条文を利用し、家主が家賃を不当にあげた場合、もとの家賃の金額を裁判所に供託することにより、家主には家賃を支払わず家を使用し続けてよい、と主張し、実際にきわめて多くの借家人たちがこの戦術を利用した。
 これは、事実上の家賃ストライキだった。
 そのうちに家主側は家賃が入らないため音を上げ、裁判所に供託された金額の半分だけをもらい、あとの半分はそちらにわたすので、転居してもらいたい、と妥協案を示すようになる。
 家主が妥協案を示すと、逸見が介入し、今後五年間値上げしないなどの条件で住民たちが住み続けることを大家に受け入れさせた。
 大阪地方裁判所に供託局ができるのは223月末だが、それから一ヶ月間で供託件数は520件でその7割が家賃の供託であり、逸見の戦術が浸透したことがわかる。
 その後、借家人たちは、供託する金額を引き下げ、自発的に家賃を値引きするという戦術を採用する。
 借家人の側が適正な価格を決定するモラル・エコノミーが出現している。
  また、この頃になると、住宅建設が増え、借家人が移転するといって家主に対して家賃の引き上げをやめさせるよう脅すようになっている。
 22年には大阪における労働運動への社会主義の影響が強まる。その中で逸見はカフェで働くウェイトレスの労働組合による支援を行う。逸見は238月に投獄されて9月に出獄した後に借家人争議に加わるがまもなく急死する。しかしそのユニークな発想に基づく運動は、その後の大阪の社会運動に影響を与えている。

Report of the 3rd regular Meeting 
At Art NPO remo on July 21, 2013 from 14 p.m. to 17 p.m.
12 people attended. 

Summary of Report by Takashi Sakai: Hemmi Naozô and His Times(revised on Oct. 4, 2013. Many thanks to M.M.)

Naozô Hemmi (1877-1923) is known as the who developed very unique social activism from the point of view of poor people in Osaka. 
His home in Mizusaki-chô/ Osaka, was also a central gathering place for anarchists. This area was very notorious for its poverty, and now is known by the name “Kamagasaki”, where so many poor day laborers lived on the streets after WWII, and was also one of the most prominent areas of the day laborers’ strong social movements in Japan.

His Experience in the U.S.
 His mother Emiko Hemmi had very progressive and antiauthoritarian views.
 She established a kerosene lamp factory in Nishinari, Osaka, when her second son, Naozô, was born after she witnessed the gas lamps in Tokyo and became very inspired by the lamps. Her enterprise in Osaka had a great success.
 She had a very unique educational vision for her children: after only graduating elementary school, when they became adults they had to go to the United States to live independently, that they should learn there the newest knowledge of becoming businessmen.
 Following this vision, Hemmi went to the United States in 1899, after finishing the conscription examination. He worked as baker, at an apple farm and doing many other jobs which almost all Japanese immigrants worked in the U.S.
 In Seattle he established, with two Chinese, an eatery for the poorest people where every person could eat for only 10 cents, cheaper than any other such establishment.
 But one day people from the “white cowboy gangs” came and they staged a quarrel in the restaurant and destroyed the whole house completely. Hemmi couldn’t continue the business so he began to wander the U.S. In that time he got lots of information about the Knights of Labor and I.W.W. He went to New York to see Emma Goldman but was unable to meet her.
 In San Francisco he got acquainted with the Japanese socialist, Ichimatsu Hasegawa (1883-1917). After he went back to Japan, Hasegawa did not engage in any remarkable activity because he was always watched by the police. But it was a turning point for Hemmi when he met with Hasegawa again in Osaka.

The Failure of the Management of Low Rent Housing and the “Thought of Renters”
 Due to the death of his elder brother in 1908, Hemmi had to go back to Japan in order to close the lamp manufacturer and to manage the property of the company, and in this process he acquired some property.
  He sympathized with the poor working people living in very bad conditions in his neighborhood and he began, in the area that is now called “Kamagasaki”, to build 20 apartment houses for the people with the cheapest rent. But the tenants who began to live there never paid the rent.
 Hemmi then began community duck-raising as an enterprise to supplement the income of the tenants, but they ate the ducks one by one. Hemmi also tried to manage a community bath for the tenants, but they didn’t join him in his efforts.
 After this failure Hemmi came to the conclusion that  material aid for the poorest people doesn’t lead to their emancipation.  
 This understanding Hemmi to what he called the “thought of renters”, a sort of philosophy of the common people.
 They think that there is no reason to pay rent when they can’t pay and that they don’t have to pay when they don’t need to pay.
 These are the radical ideas based on the thinking of poorest renters which goes against the capitalistic thinking.
 In that time in Japan, the social reform activists made people pay rent in advance and made them save money.
 But from the point of view of the “thought of renters” this is nonsense.
 Hemmi began to think that he didn’t have to intervene in the life of the people, but that he should fight the government and civil society, which were not only intervening in the life of the people, but also alienating them and discriminating towards them.

Working at the Movie Theater and Propaganda on the Street
 After 1912 Hemmi began to work at one of movie theater in the city center of Osaka. Though his job was to talk to people on the street, or to make big signs of the movies with illustrations and attractive words, occasionally he inserted the words of political propaganda. 
 One day he performed a staged quarrel with Hasegawa in front of the theater to attract the attention of people. When many spectators gathered to see what was happening, Hemmi and Hasegawa began to discuss political matters, as a staged quarrel. He learned this staged quarrel from the “white cowboy gangs” in Seattle. Hemmi also made fake movie signboards with criticizing the government, police and war, as a political messages to the people.
 Hemmi gave a job to Hasegawa at the theatre as the “translator of the movies”, and after the movie ended and the audience left the theater, Hemmi let Hasegawa and his comrade socialists use a room to meet, away from police surveillance. 
  We can recognize the strong influence of the Knights of Labor or I.W.W. on the street propaganda style of Hemmi and Hasegawa.  
 Today some scholars call such interactive connection of the social movement between Japan and U.S. “Trans pacific Syndicalism”.

Establishment of “The Free Consultation Office for Workers”, the Rice riots and the Connection to the Anarchist Movements
  After he gave up the management of the low rent apartments, he began paper box manufacturing. After quitting the job at the movie theater, this paper box factory became his primary occupation. But thereafter he entrusted the whole of this work to his family and dedicated himself to social activism.   
  He hung a signboard that read “The Free Consultation Office for Workers” at the entrance of his home. He consulted with workers and would go to the court or to negotiate with employers. He was also involved from this period in disputes over rented houses: forced eviction or rent increases.
In 1918, started by the protest of the women in the fishing village in Toyama against the rice merchants, the rice riot spread over Japan. The turmoil spilled over Osaka, too. People forced the rice merchants to sell to them at a cheaper price, or they would set fire to the houses of merchants.
 Just around this time, Hemmi met with anarchist, Sakae Ôsugi, in Osaka for the first time, and they observed the riots in Osaka together.
 After this meeting, Hemmi had a strong connection to anarchists and socialists in Tokyo. When Ôsugi established the “Association for the Workers’ Movement” in Tokyo in 1919, its branch office in Osaka was made in the home of Hemmi.

“Litigious Crazy”
 In 1919, Hemmi was called “litigious crazy” after he brought many trials, one after the other, to the courts. 
 When he felt that the electric light was something dark, he checked with the measuring machine which he got from his younger brother in the U.S. and confirmed that the level of light was lower than the electric company officially announced. He brought the case to the court saying that the electric company had committed fraud and that they must compensate for it.
 The newspaper reported “his eloquence as exceeding that of the lawyers”. But his appeal was rejected. They said that the company was not to be considered in the wrong because it is inevitable that the company couldn’t have know about the low electricity level.
 Quickly Hemmi appealed again saying that he had to pay unnecessarily higher fees than he should have had to pay, and that the company must compensate for that. 
 The newspapers reported on this case on a large-scale, and because of the bad reputation of the electric company, the seats for the public in the court were always. 
 It seemed the company’s defeat was decided, but the company sent a Yakuza to threaten Hemmi with a knife: “If you don’t want lost your life, better stop the trial”. 
 Hemmi said to this messenger: “it does not depend on me. So many newspapers in Osaka have reported on this trial. The company should negotiate with them”. 
 For Hemmi the object of trial was not to win, but to challenge society as a whole. 
 Then the electric company held a banquet inviting many newspaper reporters, and accepting their proposal, the company deferred their prices.
 The next year, 1920, the Osaka Municipal Railroad announced that their fares would rise and that tickets and coupons tickets must be exchanged for new one. But if you don’t pay the increased amounts, the new tickets and coupon would not be delivered. 
 Hemmi quickly brought the case to court. The accused was Mayer of Osaka. He demonstrated that the coupons which he had already bought were not the fare which he had paid for in advance, but that they were securities which don’t lose their value. He lost this case.
 The next case was against the Mayer of Kyoto, because the Kyoto Municipal Railroad also announced that they would raise fares.
 His first case in Kyoto was lost, but in the second, Hemmi successfully demonstrated that he could exchange old coupons for new ones, and he won this case.
 Then Hemmi opened the first case once more on the ground of the winning of second case, that the old coupon were valid in spite of the increased fares.
 The many details on these trials and appeals are not so clear today, but there are some stories about them: after hearing that the old coupons not be not valid in two weeks, Hemmi collected coupons from many people and went to court.
  At this time the lawyer of the Mayer demonstrated that the regulation prescribed on the front page of coupon stating that without the front page of the coupon it was not valid.
 Hemmi collected so many coupons, but they didn’t have front pages. He lost this case.
  But Hemmi quickly collected other coupons with front pages. Day after day he brought the same lawsuits to court, with one coupon after another.
 The court in Kyoto was so confused and legal fees which Kyoto paid for the lawyer increased. This trial attracted the attention of many citizens in Kyoto.
  Hemmi went out on the street and delivered handbills on which he wrote: “If we can ride with the old coupons, let’s ride together”. 
  After reading this handbill, so many people began riding with old coupons that the municipal railroad company couldn’t reject them and they decided to tolerated it at last.
  Another trial was that of the landlord accusing Hemmi of refusing to pay the rent. 
 The landlord appealed the eviction of the house, but Hemmi extended the duration of the trial with many tactics in lawsuits. 
 If he lost, he changed the name plate on his home. If the executive officer came to evict him, he sent them back to correct the name of the evicted in the ordering documents, and he changed the name plate after that and so on. 
 He hung a signboard on the entrance of his home, presenting to the public how the lawsuit was proceeding then. 
 Consulting with renters in trouble, he brought the problems of the tenants to the whole of society.
 In this period he was a consultant for so many varied problems of working people, such as nonpayment of wages, dismissal or occupational accidents and so on.
Hemmi’s actions were not actions seen in other socialists or anarchists, for example, one time he went to the school of the son of a landlord and he gave out handbills to the children coming out of the school, which read: “the father of your friend “X” is a terrible landlord etc.”. 
 After the son was bullied, the father changed his attitude for the better.
  Because Hemmi was not bound by the status quo or by principals such as, "you must match your ideal to what you are doing in reality", his thinking and activity was very creative.

The Tenants’ Alliance
 From about 1919, expecting the coming recession, the landlords in Osaka began to increase rents, and the tenants were frequently forced to leave if they couldn’t pay the rent.
  The rent in Osaka doubled between 1912 and 1921, and the number of trials over rented houses increased from 1350 cases to 1790 cases in between 1923 and 1923.
  Due to the high speed influx of people moving from the countryside to the city, increasing the population in the city and worsening the housing shortage in Osaka, landlords could adopt a harsh attitude.
 In 1921 the “rental housing law” was passed in the national parliament. It seemed as if the law was protecting the rights of tenants, but in fact this law was made in the favor of landlords. 
  For example, according one of the provision of law, the landlord could increase the rent on the pretext of a changed situation. This law appeared to be the instrument for the landlords to discriminate against the tenants.
 Probably it was with the enactment of this law that Hemmi established the Tenants’ Alliance on January in 1921.
 In a few days the membership went up to 700.
 One time they tried to hold a demonstration that the police granted permission for, but for which they revoked the permission on the day of the demonstration. In court Hemmi demanded compensation for the cost of the banners and flags of the police.
  In February, a talk by the Tenants’ Alliance was held in Osaka. 4,000 people gathered.
  There was a rumor that the anarchist, Ôsugi, would attend, and several hundred policemen were placed.
  When Hemmi began to speak, two thugs appeared and hit him.
  Hemmi was injured and because of bleeding from his head he had to go to hospital. The two thugs escaped easily    the policemen didn’t stop them. The audience blamed the police and refused to leave.
  The day after, Hemmi and the Tenants’ Alliance held the talk in another hall. There were 1,500 people waiting, and with lots of shouts and cheers, Hemmi began his speech. The crowds outside the closed doors of the hall began a great commotion and they broke the door and rushed into the hall.
  In the confusion, the police ordered the dispansion of the meeting, but the turmoil continued for more than 2 hours and they caused skirmishes with the police.
  In this meeting, other speakers such as the anarchist, Sakutaro Iwasa, spoke. The police begged to them to stop speaking and to close the meeting, but the audience didn’t want to leave. The chairman said to the audience: “we won against the police. To end this meeting, let’s make three cheers “Banzai”. After these three "Banzai" cheers the meeting ended at last.
 From this time, the landlords’ organizations in Osaka began lawsuits against tenants on the ground of the new rental housing law.
 They demanded to the two-fold rent increase in a 6 month period. It was much too expensive.
  Due to the support of Hemmi and the Tenants’ Alliance, six of the accused tenants won. The court recognized the proper rent as lower than the price which the landlords demanded.
 In March, the Tenants’ Alliance held a two talk. Anarchists, socialists and syndicalists, in addition to Hemmi, also spoke. In May the members of the first women’s socialist organization in Japan came from Tokyo. They tried to attend the meeting, but before the meeting the police arrested the women together with Hemmi and the others. 
  After the crowd heard the news that due to the arrest of Hemmi and the others, the meeting was canceled, they didn’t break up.
 In this year, 1921, many strikes took place in Japan. The first Mayday gathering was held in Osaka. Hemmi and his comrades attended this parade in the city center of Osaka.
 Hemmi stated in the pamphlet entitled “the Tactics of Renters”, which was published the same month, that if the land price increases because many people began to live there it’s absurd if only the landlord gets the profit; all of the people living there must get the same profit. And when municipal train are put through the area and the price of land increases, the profit must return not only to landlords, but also to all of the citizens.
  Hemmi protested not only the newly established rental housing law, but also the very theory of capitalism which was at the root of the new law.
  In June 1921, one of the tenants’ trials against the landlords for the reduction of rent began.
  We can assume that Hemmi and the Tenants’ Alliance supported this trial.
 Hemmi stated in his pamphlet that if the landlord raises the rent you can use provisions of the civil code.
  Deposit the same amount as the former rent to the court every month and you can stay in your house without paying  rent to the landlord.
  In fact, so many tenants followed this tactic. It was indeed, a rent-strike. The landlords, who couldn’t get the rent, gave up and proposed a compromise to the tenants that if the landlords receive only half of the deposit, and the tenants get the other half back, the tenant leaves the house. When the landlords compromised, Hemmi made them accept some conditions such as: not increasing the rent in the next 5 years and so on.
 The deposit office was installed in Osaka District Court at the end of March of 1922.
  After a month passed the number of deposits increased to 520, and 70% of these were for rent.
 It is clear that Hemmi’s tactics spread among the people. 
 They then modified this tactic: after they estimated the “proper” price, they reduced the price of the rent and deposited this amount to the deposit office. 
 They discounted their rent by their own initiative. Here emerged the “moral economy” of the tenants.
 In this period housing construction was increasing, and the tenants could threaten the landlords, saying that if they will not reduce the rent, they will move to another house.
 In 1922, the influence of socialism on the labor movement was becoming stronger.
 Hemmi supported the workers’ union of waitresses in cafes. After he was jailed from August of 1923 to September, he joined tenants’ struggle again, but he died suddenly. His activities based on his unique ideas influenced the social movement Osaka until recent times.



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