アナーキズムとはなんだろうか。この問いに対して、ここでは一つのエピソードを語る中で回答を出したい。
私は13歳の時にアナーキストになった。これは私のふたりの祖母のせいである。
一人は私が理想主義者になってしまうのではないかと心配し、恐れていた。そこで彼女がとった戦略は、私に本を与えることだった。
そのなかでもフォイエルバッハの本は「向こう岸」に行ってしまわないために与えられたものだった。ずいぶんと分厚い本で、なかみについてほとんどわからなかった。
私は、生涯にわたって共産主義的な革命家であるこの祖母に対して、次のように問いかけたのを覚えている。「どう? まだ共産主義を信じているの?」
この会話は、当時、崩壊を始めた国家社会主義ユーゴスラヴィアでなされたものである。彼女は即座に答えた。今でも思い出す。
「ああ、死ぬまで共産主義者だね。でも私たちの世代は間違った方法を選んでしまった。あなたの世代のには、共産主義に向かう別の道を見つける責任があると思う」。
もう一人の祖母は、彼女も共産主義的革命家だったのだが、アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・ゲルツェンの『過去と思索』という本をくれた。
ゲルツェンはやがて私にとっての英雄の一人になる。
この本の中で、私はミハイル・バクーニンにまつわるエピソードに出くわすことになった。ロシアのアナーキストでシベリアで監禁されていた人物である。彼は何とか逃げ出して凍り付いたヴォルガ川を渡り、アメリカを経由してロンドンまで旅を続けた。
ゲルツェンは彼を待っていた。バクーニンがゲルツェンに再会して最初に言ったのは「ここに牡蠣はあるのか、それともシベリアに戻らんといかんのか」だった。これでバクーニンに心底惚れてしまった。彼以外にもロマンティックな亡命者が19世紀にいたが、彼らのことも大好きになった。
ゲルツェンとバクーニンにであってからまもなく、私はベオグラード・リバタリアングループに加わった。これは、社会主義ユーゴスラヴィアにおいてマルクス主義の実践を試みることを目的とした左派の集まりだった。
そこで私は、同志からアナーキズムを学んだが、それは、真剣に民主主義について語り合い、組織のありかたを理想的な状態にするということだった。
つまり、革命のあとではなく、今ある社会の秩序という殻の中で、未来の事実を今ここで作り出すことであった。
これは社会主義の伝統だったとはいえ、様々な倫理にもとづく実践でもあった。すなわち、手段というものは目的と合致する必要がある、私たちは自分たちが作りたいという社会を今作る必要がある、権威主義的な手段で自由を作ることはできない、という倫理観に構成された実践だったのである。
[中略]
ドイツからやってきたマルクス主義の革命家との関係がロマンティックになってから、私とマルクス主義との関係は、次第にロマンティックになっていった。
彼女はまじめな女性だったが、彼女とつきあうとすぐに、そうか、アナーキズムに関するきちんとした知識が欠如しているのはユーゴスラヴィアの社会主義者だけではないんだな、ということがすぐにわかった。
このガールフレンドは、政治理論家であったが、グスタフ・ランダウアーやマルティン/ブーバー、エーリヒ・ミューザームやルドルフ・ロッカーなんて名前は聞いたことがないという人物だった。
彼女にとってアナーキズムというものは、バクーニンとセックス・ピストルズとドイツのアウトノーメ運動とが若気の至りでむすびついてしまったようなものでしかなかった。
そういうことを彼女から聞いて、私はあっけにとられた。
あるとき、当時彼女が勤めていたフランクフルトの批判的調査機構で、彼女を待っていたときがあった。机の上に誰かがおいていったユルゲン・ハーバーマスのインタビュー記事があったのでそれを読んでいた。
このインタビューは、コミュニケーションの新しい普遍的なモデルとしてのディスクール合理性の理論に関するものだった。このインタビューの中で彼は、彼の理論と思想が、第三世界の社会主義に役に立つのかどうか、また、第三世界の闘争は彼の理論と先進資本主義国に対する批判にとって意味があるのか、という点で尋ねられていた。
ハーバーマスは、これは良く覚えているのだが、この二つの質問に対してこう答えていた。「これはヨーロッパ中心主義的な狭い見方だということは自覚しているつもりです」と。
これはとても興味深くまた驚きであった。世界の人口の5分の4を排除した、普遍的なコミュニケーション理論があるということだからだ。
そのとき考えていたことを思い出すと、もしこれが普遍主義なら、それは単なる帝国主義の一変種なんだ、と思った。
それで、このあと(ここで白状しなければいけないわけだが、私たちはそこで家具を盗んでいたのである)わたしは、初めて次のように考えるようになったと思う。つまり、アナーキズムとマルクス主義の伝統の決定的な違いは、前者は南の構想であり、後者はヨーロッパの近代性の構想なのである、と。
ボアベントゥラ・デ・ソーサ・サントスは2004年の論文で、南というのは以下の3点を特徴とする場であると述べている。第一に、南とは帝国主義的な構築物の現実的かつシンボリックな場所である。第2に、南とは資本主義の近代性が引き起こしたものに対して人間が苦難を強いられている場所である。そして三番目に、南とは、解放のためのエネルギーと主体性を再創造するために、隠された近代性を発掘する場である。
私はこの仮説を考えながらバルカン半島に戻った。そこからバルカンの歴史を、これまでとは異なる観点から、すなわち、隠された歴史的な経験、あるいは、資本主義的近代性の周辺という観点から学び始めた。
この検討の過程で、バルカン地域について異なる歴史が浮かび上がってきた。すなわち、ラディカリズムの歴史である。バルカン半島は、様々な地域のグループがアナーキズム的思想と地域ごとの実践を混ざあわせる世界を作り上げていたのである。たとえばセルビアの社会主義者スヴェトザール・マルコビッチについてみてみよう。19世紀に生きていたマルコヴィッチによれば地域の状況が、労働者階級によって建設される新しい社会の性格を決定するのである。パンの問題は、直接民主主義の問題である、と彼は書いている。マルコヴィッチの折衷主義的で倫理的な社会主義を彼は、新しい経済システムとしてではなく、新しい生き方として定義している。この社会主義は、ヴィア・カンペシーナという、現代の農民運動によって提案されている構想と極めて類似しているのである。マルクス主義とアナーキズムとの対話の中でマルコヴィッチは、息がつまるような歴史の法則性によってではなく、共同体の制度と人間の本能に基づくバルカン的な社会主義を提起するに至った。彼は、東西の問題を念頭に置いて、社会主義運動は反植民地主義的であるだけでなく、バルカンの過去を念頭に置いて革命的でなければならないと主張した。このバルカン的な社会主義は、倫理的で、幻想的で、折衷主義的でヒューマンであったが、「ユートピア社会主義者」として軽蔑したのちの国家社会主義者たちにとって、このような彼の構想は受け入れられるものではなかった。1874年に、マルコヴィッチは次のように書いている。自分が構想する社会主義の目的は、主権に基礎を置いた国内における社会の再組織化であり、バルカン半島における共同体の自治と連合である、と。この彼の連合構想がバルカンの歴史上最も重要な貢献をもたらすものである。すなわち、直接民主主義的連合主義のために、分裂したバルカンの人々のナショナリズムを緩和させて統合する、という点においてである。この反権威主義的な折衷主義、革命的伝統は地域をグローバルに結びつけ、サバルタンを近代、そして、バルカンの重要な特質に結びつける力を持っている。
西側およびユーゴスラヴィアの歴史家たちは、このようなマルコヴィッチの折衷主義は「理論的な混乱に導いた」とほぼ同じような評価を下している。しかし私は、彼のバルカン的社会主義は理論的な決定論から離脱させマルクス主義の暴力的な抽象主義からも離脱させたのだと主張したい。マルコヴィッチは、マルクスが工業化された西ヨーロッパの経済的、社会的発展に対する最も有効な批判を行ったと考えていたが、しかし同時に彼は、チェルヌイシェフスキーとバクーニンも評価していたのである。
[中略]
人がアナーキストになる動機が生じたのは、パン・バルカン主義者、パン・アフリカ主義者、パン・アジア主義者等々といった、ナショナリスト、パン・ナショナリストによる運動、地域主義運動による反帝国主義と反植民地主義の闘争においてであった。
アナーキズムはこれら全ての運動を結びつけていた。
エルリコ・マラテスタは、周知のように、1882年にエジプトで、イギリスの支配に対して闘った。
ステプニアクは、私にとっての英雄の一人であるが、彼は1878年にボスニアで闘った。それ以前、マラテスタはイタリアで運動に加わった当初、村落を解放し、自治的な領域を作ろうとした。その頃ステプニアクはロシアに戻り警視総監を暗殺した。その後ロンドンに渡ったステプニアクは、鉄道事故で死亡した。
アナーキズムと反植民地主義との関係に話を戻そう。
当時最も影響があったアナーキストの新聞でジャン・グラーヴが編集していた『反逆』紙がある。これをじっくり読んでみると、大部分がフランス人であるアナーキストの船乗りたちによる一グループの経験談を綴った手紙が1907年に同紙上に掲載されていることに気がつくはずだ。
手紙の中で彼らは次のように述べている。フランス人がアルジェリアの人びとを抑圧しているのに自分たちが最も優れた文明を担っていると考えることなどできない、と。ズリというアナーキストは、当時チュニジアに住んでいたが、これに同意して次のように述べている。ヨーロッパの植民地における悲惨な現実ほどむかつくものはない、と。
以上のような、人がアナーキズム的に思考する瞬間は、大量の移民が生まれた時代に生まれた。アナーキズム運動は移動する人びとの運動であった。
その結果、アナーキストとアナーキズム思想は至る所に見いだされたのである。
リバータリアンの活動家たちは膨大な情報のネットワークを作りだした。複数の大陸に購読者がいたのは『反逆』だけではない。アナーキストたちの定期刊行物はベオグラード、ベイルート、カイロ、アレクサンドリア、ブエノスアイレス、パリ、さらにニュージャージー州パターソンでも発行されてた。当時はいまとはくらべものにならないほど、パターソンというところはエキサイティングな場所だった。
マラテスタは、フランシスコ・フェレルやエリゼ・ルクリュとともに当時最も人気のあった人物であり、彼の書いたパンフレットは、キューバの葉巻製造労働者たちが声を出して読み上げ、オスマントルコで翻訳され、ブラジルでは議論の素材となっていたのである。
当時のセルビアにおけるラディカルな社会主義者に話を戻そう。
1871年6月1日、スヴェトザール・マルコヴィチはバルカン初の社会主義新聞を刊行した。「労働者Radenik」というタイトルは、ラディカルな社会主義者たちにとって国際主義者としての最も重要な大義に基づいて選ばれたものである。
それは同時に、彼らが拒絶していた大セルビア主義への敵対心とパリコミューンへの支持をも含意していた。とくにパリコミューンはマルコヴィチに多大なる影響を与えたため、新聞では常に取り上げられ、それと同時にアナーキストとマルクス主義者による文章の翻訳がいつも掲載されていた。
この新聞が人びとによって広く読まれたということはきわめて注目に値する。当時、市内で発行される新聞の平均的な発行部数が500部だったが、『労働者』の発行部数は1500部であり、これは当時としてはあり得ない数字であった。
教会と国家はすぐさまその弾圧にのりだした。新聞およびそれを購読する学生組合は全て非合法である、という布告が政府から出された。
こういった学生組合があった学校では、学生たちは「コミューン」と呼ばれる読書と討論の非合法の秘密組織を立ち上げた。これらの組織による集会は、人目を避けてベオグラード郊外で夜に密かに開かれた。これら秘密組織は、学問と手工業、そしてアナーキストのプロパガンダを学生たちが学ぶ中心となった。
ここまでみてきて、こう問いたくなるのは当然だ。
「アナーキズムがこれほどまでにグローバルになった原因はなんだろうか。これほどまでに多様な運動の手段として、あれほど多くの言語に翻訳されたのはどうしてだろうか?」と。
わたしは、デイヴィッド・ウィエックによる次の見解に同意する。
「ポストモダニズムという言葉が使われるようになるずっと前から、アナーキズムはずっと反イデオロギーの思想だった。アナーキストたちはずっと、理論なんかよりも、生活と行動のほうが大事だと主張してきたのである。理論に従うということは、実践のなかでも権力に付き従うということを意味している。それは、理論を権威主義的に理解するからである。こういう従属は、中央集権的な政治権力が存在しない社会を作り出そうという気持ちを堀くずすことになる。アナーキストの書くことが権威主義的ではなく決定論でもない理由がここにある。ここでいう権威主義的とか決定論というのは、マルクスの信奉者たちがマルクスの書いたものに対して示してきた態度という意味で言っている」(Wieck, 1996, p.377)。
アナーキズムというはイデオロギーではなく一つの伝統なのである。
きわめて膨大な反権威主義的な思考の中からそれぞれが選び出すことを許容する、そういうきわめてフレクシブルな伝統なのである。
アナーキズムに見られるもう一つの明確な特質は、そのプロパガンダに見られる。
革命的変革の主体として都市の工業労働者階級だけに焦点を当てるのではなく、農民、知識人、移民、非熟練労働者、職人、芸術家といった多様な人びとに対して、アナーキストのプロパガンダは向けられていた。
これによって、本当の意味での民衆的な運動が生まれたのである。
マラテスタとそれ以外の名もないアナーキストたち、イタリアやスペインで活動していたアナーキストたちは、農民反乱、農民による土地の占拠、土地証文の破棄という運動に加わっていた。
クリ・マディスによれば、アナーキストのプロパガンダは、きわめて有能な人びとによって担われ、その内容は洗練されていた。
大衆メディア、当時としては新しい公共空間である図書館、読書室、飲み屋、そして劇場をも彼らは活用した。
劇場では、フランシスコ・フェレルをふくめた様々なアナーキストの殉死者の「迫害劇」が演じられた。
フェレルは1909年にスペイン政府によって処刑されるが、その処刑を演じた劇は同じ1909年にはベイルートで演じられ、同じ舞台が、ブエノスアイレスとパリでも演じられたのである。
つまり、19世紀と20世紀初頭のグローバルな大衆的でラディカルな文化の歴史において、いわゆるフェレル事件はきわめて重要なエピソードの一つなのである。
アナーキストにとってこれ以外に重要なプロパガンダの場となったのは、いわゆる相互扶助組織である。
これは移民にとっては最もよく知られた組織であり、南米から東アジアにいたるあらゆる場所にあったものである。
実際には、これらの組織は政治的なものではなく困窮した労働者の支援や農業労働組合の設立を支援するための相互扶助支援のための積み立て基金のようなものであった。
しかしアナーキストたちはこういった運動の空間をラディカルにしていった。だから、ピョートル・クロポトキンが書いた『相互扶助論』がグローバル・サウスの諸地域で最も人気のある文献の一つとなったのである。
現代のアナーキズム運動は、このエピソードを学ぶことを通じて、移民団体や労働組合など地域の様々な運動との関係が重要だと認識するだろう。
また、アナーキストのプロパガンダは、政治的なテクストだけでおこなわれたわけではない。
アナーキストは、文学の魔力、そして、文学が人びとを解放する力を信じていたからである。
そもそも、19世紀末から20世紀前半のアナーキストが活発に活動した時代、クラブや飲み屋では、労働者はモリエールやデュマ、アナトール・フランスを読んでいた。
だから、ロンドンのイーストエンドでは、イディッシュ語を話す人びとに向けたアナーキストの新聞が刊行されていたが、新聞紙上では、重要な文学のイディッシュ語訳が掲載されていたのである。
ユーゴスラヴィアのマケドニアにおいては、人びとは無料の読書室や図書館に集まり、ベートーヴェンの第九について議論をしていた。
スペインではアナーキストが非公式の教育機関を作っていた。そこで労働者は、わかりやすく簡単な言葉で書かれた『白色評論』の記事を、しばしば声を出して読んだ。スペインでは人口の大半がいまだ文字が読めなかったので、こういう定期刊行物は多かったのである。
ここにも、現代のアナーキズムにとって学ぶべき教訓がある。とくに高等教育を受けた人びとによって洗練された議論が行われているばあい、自分たちのやっていくことを効果的にしたければ、言葉は単純で理解しやすく、なおかつ美しくしなければならない、ということだ。
キューバでは、劇場が、とりわけ女性の教育のために利用されていた。こういった「非公式」の教育システムのほかに、アナーキストはより「公式」の教育システムを構築したこともある。たとえば教育のためのリバタリアン同盟のような国際的な教育ネットワーク組織である。
フランシスコ・フェレルの近代学校は最も重要な教育機関であった。1898年には、これにならって、パリではアナーキストが民衆大学のネットワークを設立したが、同様の組織はベイルート、アレクサンドリアでも設立されている。(翻訳未完了)
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