2018年7月31日火曜日

2018年8・6ヒロシマ集会の資料1

8・6をめぐる覚書 by Y. (『文献センター通信』第31号、2015年6月30日、2-5頁に掲載されたものから抜粋。一部、読みやすさを考慮し変更している)


 この覚書は全くの個人的視点から書いているもので、思い違いや記憶の誤り等が多々あるかもしれませんが、思い出すままに記述していきたいと思います。

1 前史
 「ヒロシマ」との直接の関わりは1975年の8・6からだと思います。何もない状態ですべて個人の発意で、また手作りの段階です。黒旗は隣町の生地屋さんで黒い布地を切り売りしてもらい、裏山から青竹を切ってなんとか作り上げたという状態です。
 ビラに至っては、最初の年は地元の中学校に行ってガリ切りをさせてもらった記憶があります。そして、黒旗とビラを持って平和公園へ行ったのが、8月5日の夕方ぐらいだと思います。
 8・6当日は確か三木首相が来広することになっていたと思います。その当時の警備体制がどうなっていたかはわかりませんが、泊まり込む人たちも結構いて、のんびりしていたのかなと思います。公園の一角に黒旗を立て、ビラを置いて、あとは朝を待つだけの状態です。
 しかしその年は、いろいろな出来事がありました。夜になって、一人のニュージーランドのジャーナリストだという男の人が声をかけてきました。今では内容というか、言葉のやりとり等については全く記憶が何もないのですが、二人して広島市内を歩き回ったということは覚えています。
 そして二人は当時、市内にあった大学の寮へ潜り込んで、そこで夜を明かしました。彼がなぜそこを知っていたのか、今では不明です。
 朝、時計を見ると、8時15分はとうに過ぎており、相手を起こして、そのまま私自身は平和公園へ向かいました。昨夜立てていた黒旗とビラの袋はそのままの状態なのか、いささか不安ではありました。
 その場に着いてみると、黒旗とビラの周囲に私服が立ち並んでいて、中を見せろと要求してきて対応したことを覚えています。この行動は1978年まで継続していきます。
 一人でビラを配っていると手伝ってくれるのは女の子でした。男は誰も近くに寄ってきません。その間に2~3回は黒旗を公園内の派出所に持ち去られ、取りに行くということもありました。その間に1回だけ老人が黒旗を見て、まだあるのか、懐かしいのお、頑張れよといってくれた記憶があります。
 1979年に無政府主義研究会を立ち上げ、労働会館で学習会等を行っていました。その勢いで1979年に「ヒロシマの犯罪性を問う」と題して関西の仲間と一緒に小集会を開いています。
 1980年にも同様の集会を開いたのですが、2回にして閉幕しました。「ヒロシマの犯罪性を問う」ということはあとになって「象徴ヒロシマ」解体という概念へと結びついていくのですが、この部分は論点のところで詳しく書きます。
 1981年以降は『無政府主義新報』で8・6の話題について、論じるだけで具体的行動は全国集会を行うまでやっていないということになります。
 なお、余談になりますが、1979年にオーストラリアのアナキストが来広して、このときは彼らが宿泊していたホテルで話し合っています。彼らは東京、名古屋、京都を経てやってきたようです。後年、オーストラリア・アナキズム100年祭があった時に、日本からも三浦さんとフランス人のFが参加して、報告集も出ています。

2 全国集会から反戦・反国家集会の本史
 80年以降、「機関紙」の発行と時たま喫茶店にて学習会を行う程度で細々とやっていたのが、フランスからアナキストがヒロシマにやってきて、研究会自体が活気づきました。
 ただ、当時、研究会のメンバー及びフランスのFも、状況そのものがわからなかったもので、今現在の運動体の実態から解説するというスタートとなりました。
 その状況を把握する中で出てきた疑問の一つがなぜ連盟が存在しないのかという点があります。過去何度も話が浮上しては消えてゆくこの問題に対して私自身は最初消極的であり、あまり触れたくない思いでしたが、イベントを通じて連盟の創設をめざすという方向性が出て、ヒロシマでアナキストのイベントということで、8・6集会の大枠が決まりました。
 それから、各自分担して、ポスター作り、東京への情宣となっていきます。東京へは私とフランス人のFとで行きました。東京でAIT[Association internationale des travailleursの略称。「国際労働者協会」と訳される。第一インターナショナルからアナーキスト、アナルコ・サンディカリストが引き継いだ名称で現在でも存在する国際組織]に連帯する会の事務所を訪ね、『リベーロ』[当時、富士宮にあるアナキスト文献センターが発行していた機関紙]を発行しているメンバーとも会い、情宣しました。
 底辺共闘のメンバーと連絡を取りたかったのですが、そのときには会えませんでした。他に、東アジア反日武装戦線を救援する会合が開かれていると聞き、顔を出しました。その当時、情報があったA[アナーキズム]の関係については、ほぼ回ったと思います。
 こうして一応の情宣を終えて、8・6当日を迎えます。会場は八丁堀会館で行いました。
 海外から香港のアナキストの参加者1名、フランス・アナ連から連帯のメッセージがありました。内容については、この集会の意義の説明、連盟結成へ向けての各団体との連絡体制、どういう方向でそれを成し遂げていくのかという説明を行いました。
 その後、各団体、個人からの意見、声明が続き、その後、討論集会という形を取っていきました。このときの模様は報告集という形でパンフレットを作成しましたが、具体的に何かの形が形成されたかといえば疑問で、いわば仲間内で集まって顔見せを行ったということにつきます。
 午後からデモ行動を行ったのですが、アナキストの黒旗が広島市内に林立したのは、これが最初ではないかと思います。対内的よりも、対外的にインパクトを与えたのはこのデモが大きかったと思います。

 第1回の全国集会から、第2回以降の反戦・反国家集会への転換について、無責任な言い方になるのですが、直接的に、または主体的に関与していません。私自身は報告集のテープ起こしと印刷の方へ集中していたので、2回目以降の反戦・反国家集会という名称およびニュースの発行についても関わっていませんた。
 ただ私としてはともかく立ち上げたものをすぐに解体してしまうのも忍びなし、ともかくこの方針で行くのならば、それに乗ろうという気持ちでした。ここには古くて新しい問題が影を落としています。
 第1回の路線は基本的にはアナキストの中核の形成という方向であったのに対して、第2回目以降はアナキストとして反戦運動へどう関わっていくかという方向へシフトしていったことが大きいと思います。この内部矛盾はさまざまな形で突出してきます。
 この傾向は、一方でのアナキスト連盟の結成それを軸として行動する部分と、反戦・反核運動へ参加し、この潮流の渦中にて一定のヘゲモニーを得ようとする部分が常に底流ではありました。何回か集会を重ねる中で決定的なる分裂状態に陥った時期があります。
 私とM氏が市民集会に対して批判的であり、妥協案として市民集会の入口の一角にブースを設置してアナキズムの宣伝を行うということで一度市民集会へ乗り込んだことがあります。
 結果は散々な評価で、せっかく一定の信頼関係を築き上げつつあったのに、あなたたちの行動でだめになってしまった、という具合。
 ただこちらの方としては最初から潰しに目的があったので議論が平行線でした。私としては日頃から市民運動をマルキストあるいはマルキスト崩れの連中がやっていると認識していたので、あまり責任は感じませんでした。
 これは広島の地で言えることなのかどうかわかりませんが、私の信条として色を鮮明にすることが必要だと思っていました。黒なら黒、赤なら赤と。現在はまた状況は違っていると思いますが。
 この時期とかさなっていると思うのですが、分裂した形で集会を開いたことがあります。東区民センターで、アナキスト集会と題して反戦・反国家集会を開いた記憶があります。山口健二さんが「可能性としてのアナキズム」と題して話をしたのはこの集会ではなかったかと思います。
 分裂までいったこの一連の騒動は話し合いによって解決し、市民運動と一定の距離を置くという形で決着していったと思います。
 デモの出発点として、われわれが多く使用したのが在日韓国人被爆者の慰霊碑の前からでした。現在は平和公園内の一角に移設されていますが、当時は公園の外側にあり、被爆してなお差別された存在として、われわれは連帯の意味を込めて、ここを出発点として選択していました。実行委員会の中でこの見解は一致していました。
 また、実行委は当初から固定していたわけではありません。一度中断した段階で東京の若者グループと実行委を形成したことがあります。反日亡国委という名称で集会およびデモを行っています。
 このときの実行委のメンバーが逮捕されるアクシデントも起こっています。たしか彼はデモ隊列の後方にいたと思います。私自身は前方にいたので実際どういう形態で逮捕されたのか定かではありません。
 実行委自体は、東京の若者グループ、またあとの大阪の若者グループというように、外部からの刺激を受けることにより続いてきたと言えると思います。

3「ヒロシマ」を軸にした論点 
 実行委の内部において、運動をめぐって内部矛盾があったように「ヒロシマ」に対する認識についても同様のことがありました。
 日本が帝国主義戦争と植民地戦争を遂行し、その過程で原爆が使用されヒロシマが壊滅するという事実に基づいて、これをどう捉えるかという視点から、一つには国際法違反という論点と、もう一つには「象徴」としてのヒロシマという論点が出てきました。
 前者の主張は、戦争は国際法の範囲内で遂行されるというもので、それを外れた行為は国際法によって告発されなければならないとするものであり、原爆投下は当然その行為にあたり、アメリカの責任および支配下から生じた平和記念式典は粉砕しなければならないとするものです。
 私自身としては、この論に対して国際法そのものが国家間での法であって、その効力に対して疑問を持っています。国家が国家として存立していく前提として、内に対しての絶対的な権力構造があり、国家間で法そのものが法として機能するということはないのではないかと思います。ただ集会での大多数の賛同を得たのは国際法違反という論法です。
 私がヒロシマに対して思うときは「象徴」としてのヒロシマを撃つという姿勢でした。
 戦後過程において、ヒロシマから「象徴」としてのヒロシマへと変身する段階ですべての矛盾は捨象されていき、絶対的被害の対象として昇華され、「象徴」天皇制との双頭体制によって平和幻想を打ち立て、戦後の日本国家のバックボーンになったと捉えます。広島の地に居住するアナキストはこの幻想の体系を解体し、その渦中から展望を見いだす必要があると考えてきました。
 ただこの考えは観念論であるとか、具体的にどう対処すべきなのか、という点において、少数派に位置しています。現在においても賛同を得にくいものと考えています。

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