2013年11月15日金曜日

2013年11月14日木曜日

国際シンポジウム「グローバル・アナーキズムの過去・現在・未来~世界とアジアをつなぐために」 田中ひかるによる報告 The Presentation of Hikaru Tanaka given at the Internaitonal Symposium "Global Anarchism: Past, Presnt and Future. For Connecting Asia to the World"





「グローバル・アナーキズムから見る日本アナーキズム史」   
田中ひかる(大阪教育大学 hikaru(a)cc.osaka-kyoiku.ac.jp

 この報告では、今回のシンポジウムのテーマであるグローバル・アナーキズムという視点から日本のアナーキズムの歴史を捉え直す方法について検討します。日本を含めたアジアのアナーキズム史を国民国家の枠組みから解き放ち、グローバル・アナーキズムの歴史につなげるために重要な作業だと思うからです。
 現代のアナーキズムを考える上では、過去100年以上にわたるアナーキズムの歴史を学ぶことが必要になります。過去というものは、現在とは関わりのないものと見なされてしまいがちです。実際には、歴史とはすべてその時々の状況に基づいて、常に書き換えられ続けるものです。グローバルなアナーキズムが展開している今日においては、そのような視点に立った歴史の語りが求められます。
 そこでこの報告では、グローバル・アナーキズムという枠組みでアナーキズムの過去を捉え直すために、アナーキズムの歴史を、現在のアナーキズムに刺激を与えるアクチュアルなものとして感じるための方法を示します。
 そのために必要なのは、国民国家の枠組みから外れた事実と、そういった事実が読み取れる資料に注目することです。なぜなら、これまでアナーキズムの歴史は、「日本」「フランス」「スペイン」といった国民国家の枠組みに依拠して記述されてしまうことが多かったからです。
 また日本のアナーキストの間では、1990年代以前、自分たち思想や運動が、西欧からの「輸入」や「借り物」に頼らず、「日本独自」の性質によって形成されているかどうか、という点にこだわる傾向が見られました。こういった思考の背後にあったのは、日本近代史を彩る近代化・西欧化に対する拒否感や西欧コンプレックス、そしてナショナリズムではないかと思います。
 これに対して、現代の若い世代は、国内外のあらゆる情報を我が物として獲得します。彼らは、それらの情報がどこを起源とするか、ということに強くこだわりません。そもそも彼らは、思想の「起源」や「本質」という概念自体に懐疑的であり、むしろプラグマティックにおもしろいものがあれば迷わず吸収していく傾向が見られます。
 これから若い世代が、日本のアナーキズムの過去を、国民国家の物語からグローバルな文脈の中に置き換えて再読していくことによって、自分たちのよりよき未来を展望することが可能となると私は考えています。ここでは、そのために、2つの方法を提示したいと思います。

1)日本国外に移住もしくは一時的に滞在した経験がアナーキストの思想と行動に与えた影響に注目する。
2)国外のアナーキストによる機関紙上に掲載された日本のアナーキズムについて報じた記事に注目すると同時に、そういった記事が掲載される背景として、日本と国外のアナーキストとの双方向のコミュニケーションに注目する。

 これら2つの方法に基づく調査においては、国境を越えたネットワークを通じて相互に情報をやりとりしながら思想や運動がどのように形成されたのか、という点に注意が払われます。その結果、日本のアナーキズム史をグローバルなアナーキズムの歴史という文脈に置き換えることが可能となるでしょう。

1)国外の経験が思想や行動に与えた影響
 日本のアナーキストで外国に滞在経験を持つ者としては、1945年以前でも、幸德秋水、大杉栄、石川三四郎、岩佐作太郎、辻潤、久保讓、山鹿泰治などが挙げられますが、ここでは金子文子(1903-1926)を取り上げます。
 日本のアナーキストたちの多くは男性の知識人であり、比較的裕福な家庭と恵まれた境遇を背景にしています。これに対して金子文子は、23年の全生涯を通じて、常に貧困の中にあり、家庭環境も不遇でした。こういった境遇の中、彼女は朝鮮で生活した7年間の経験に基づき、朝鮮人たちとの連帯感情を抱くに至ります。
 当時、大多数の日本人は、朝鮮人に対する差別感情を抱いていました。関東大震災で6000人以上ともいわれる朝鮮人を虐殺したのが普通の日本人だったということから、そのように考えてよいと思います。
また、今日でも、飛矢崎さんの報告で指摘されているように、戦争やナショナリズムにとらわれ、さらに、韓国人に対するヘイトスピーチに共感する人々の多くが、いわゆるプレカリアートであるということから考えれば、金子文子が人種差別を主張するナショナリストになってもおかしくはなかったでしょう。
 もちろん、金子文子は希有な事例だったかもしれませんが、他方で彼女の思想や活動を検討することによって、20世紀初頭以来の日本におけるアナーキズムをグローバルなアナーキズムの歴史という文脈に置き換えるヒントを得ることができると私は考えています。
  文子が国家や法律に怒りを覚えた要因は、まず、その生い立ちにありました。1903年、文子は横浜に生まれた。その父親は、妻と入籍せず、文子を私生児として戸籍に届けることも認めませんでした。
 そのため、無籍者であることを理由に、文子は7歳になっても小学校に通うことができませんでした。母親の嘆願によってようやく許可されましたが、教員から差別され続けました。この点について、文子は後年、次のように述べています。「現実私が存在していながら無籍なるがためにその現実していることを認めないのが法律であります。法律が確かなる存在を認めておらぬと言うだけの理由であーもみじめにその存在を無視されたのであります。人間が作った法律の力は現実の存在を左右し決定しうるほど権威のあるものであります」(192412日、東京地裁での予審尋問。読みやすく現代風の表記にしている。以下同様)。
 文子の両親は、彼女の養育を早い時期に放棄しています。父親は彼女が5歳頃にほかの女性と同棲し、母親も、文子が8歳の時に自分の実家に彼女を置いて再婚しています。
1912年、文子が9歳の時、朝鮮に住む父方の祖母が文子を養子として引き取り、朝鮮に渡った文子は、祖父の籍に入れられ、同年、小学校に入学し、1915年に卒業、1917年には高等小学校を卒業しています。
 引き取られた岩下家は、地主兼高利貸し、アヘン販売で、植民地支配の末端で朝鮮人から搾取していました。また、文子は、岩下家で雇っていた下男に対する虐待も含め、支配者である日本人による朝鮮人に対する数々の虐待を目撃しました。文子自身は、岩下家で様々な虐待を受け、自殺を図ろうとしたこともありました。
19193月、朝鮮全体で起きた3・1運動を目撃し、文子は感激したと後に語っています。ここに、朝鮮人との連帯を指向する意識が芽生えたと考えられます。

 「私どもは日本人ですけれども、日本人が憎くて憎くて腹のたぎるのを覚えます。私がそのときただ目に反射されただけの出来事は、大きな反抗の根となって私の心瞳に焼き付けられております。私の在鮮中の見聞は、私をして朝鮮人のあらゆる、日本の帝国主義を向こうへ回しての反抗運動に異常な同情を持たせました。私は上京するとまもなく、多くの朝鮮の社会主義者あるいは民族運動者と友人になりました。私は実際この種の運動をよそ事として手安く片付け去ることができません」(山田、296頁)。

 1919年、文子は日本に戻って父親と同居を始めます。しかし、虐待が絶えず、最終的には家を出て様々な不安定な労働につきながら社会主義を学びます。文子は抑圧される朝鮮人に自らを一体化する感情に理論的な枠組を見いだしたのです。

「社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それをただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えてくれただけのことであった。私は貧乏であった。今も貧乏である。そのために私は、金のある人々にこき使われ、いじめられ、さいなまれ押さえつけられ、自由を奪われ、搾取され、支配されてきた。そうして私は、そうした力を持っている人への反感を常に心の底に蔵していた。と同時に、私と同じような境遇にあるものに心から同情を寄せていた。朝鮮で、祖母の家の下男の高に同情したのも、哀れな飼い犬にほとんど同僚といったような感じを抱いたのも、そのほか[中略]祖母の周囲に起こっただけのでも相当にある、圧迫され、いじめられ、搾取されていた哀れな鮮人に限りなき同情の念を寄せたことも、すべてそうした心の表れであった。私の心の中に燃えていたこの反抗や同情に、ぽっと火をつけたのが社会主義思想であった」(山田、78-79頁)。

 しかし、その後、社会主義者の言行不一致な生活態度に失望する中で、クロポトキンを通じてアナーキズムから影響を受けるようになります。

 「「民衆のために」といって社会主義は動乱を起こすであろう。[中略]指導者は権力を握るであろう。[中略]そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。しからば革命とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力を持ってすることに過ぎないではないか」(山田、80-81頁)。

 ただし、マックス・シュティルナーなどニヒリスティックな思想からも影響を受け、社会構造の転換についても期待を抱くことはありませんでした。ただ、自らが「真の仕事」を見いだすことを重視していた、ということがわかります。

「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得る」(山田、82頁)。

 1922年、文子は朝鮮人たちと交流する中で、アナーキストの朴烈に出会い、同志として共同生活を始め、朝鮮人を中心とした組織と機関誌の発行に従事します。233月、二人はアナーキストの学習会「不逞社」を設立します。参加者は朝鮮人、学生、労働者、仏教徒、キリスト教徒など20数名でした。日本人と朝鮮人による多様な人々による特定のイデオロギーを押しつけない緩やかな集まりでした。
 192391日に関東大震災が発生し、3日に文子は朴烈とともに兵士によって逮捕されます。逮捕された他の不逞者のメンバーは、朴烈が皇太子の結婚式の際に爆発させるために爆弾を中国から入手する計画があったと自白してしまいます。朴烈と文子は、自分だけが計画に関わったと証言して他のメンバーに累が及ばないようにしました。
 1926年、二人に対しては死刑判決が下ります。しかし、すぐに恩赦による無期懲役に減刑されました。これは、皇室の慈愛を社会にアピールするためでした。同年、文子は、獄中で謎の死を遂げました。文子自身が自らの思想を説明したのは、以上のような逮捕から死亡に至る獄中の3年間のことでした。

「私は自主自治-すべての人が自分の生活の主となって、自分の生活を治めるところに、うすうすながら私の好きな社会の幻を描いてみる気にもなるのです。私が、自分の行為に要求するすべては、自分から出て、自分に返る、つまり、ピンからキリまで自分のためで、自分を標準にする、したがって私が「正しい」という言葉を使うとき、それは完全に「自律的」な意味においてであることを断っときます」(山田、182-183頁)。「私はたぶん個人主義的無政府主義者と呼んで差し支えなかろうと思います。[中略]個人が自我に目覚めるとき、国家は倒れる。むろん私は、内から燃え上がる秩序ならざる秩序、否真の秩序以外に、国家だの政府だのの干渉はお断りしたいのです」(山田、198頁)。

 シュティルナーから影響を受けた文子の思想は、第二報告者の栗原さんが述べていた「社会」というものに対して個人の「自律」を対置する点を重視しているように思えます。ただし、自らの境遇を虐げられる朝鮮人に重ね合わせたときに独自の性格を獲得している、という点が注目すべき点です。
 グローバルなアナーキズム史という文脈の中で読み直す上では、金子文子の思想や活動を、エマ・ゴールドマンのような、同時代に多数登場する女性アナーキストと比較していくことが、これからの重要な作業の一つではないかと思います。
 
2)国外のアナーキストによる機関紙上で報じられた日本のアナーキズム、および、日本と国外のアナーキストとの双方向のコミュニケーションに注目する
 192391日以降、平沢計七ら10名の労働運動活動家たちが警察によって、16日には大杉栄と伊藤野枝、甥の橘宗一が憲兵隊などによって殺害され、また、6000人以上と推計されている多くの朝鮮人が民衆の自警団によって殺害されます。
 109日まで、大杉殺害に関する報道は検閲を受けていたため、多くの人々が事件についてより詳しく知るのは、それ以降でした。大杉とともに労働運動社のメンバーだった延島栄一は、9日の『東京日日新聞』の報道に基づき、日本語で記事を書き、シアトルで発行されていたI.W.W.Industrial Workers of World国際産業労働者)の機関誌『インダストリアル・ワーカー』の編集部に送りました。ただし、これ以前から、延島は、記事を作成して発送する準備をしていたと思われます。というのも、107日付の手紙の中で、延島が次のように伝えているからです。

「我々は現在逮捕されるか、あるいは殺害される、という大変危険な状況下にある。現在の日本における状況を詳細に記述する時間がない。そこで私はこれを日本語で大急ぎで書いた。そちらにいる何人かの日本人同志たちがこの記事を翻訳してくれるであろう」。「これを新聞記事にしたら、その新聞をベルリンのサンディカリスト・インターナショナルに送り、イギリスのフリーダム・プレス、フランスのリベルテールに送ってもらいたい。日本の革命的労働者のために、この情報を世界へと送信するように諸君に要請する」。(下線部は田中による)

 この要請に基づき、19231031日に発行された『インダストリアル・ワーカー』の一面と二面に、延島の記事の英訳が掲載されました。記事の末尾には、「シアトルにて翻訳」と記載され、記事には、109日という日付が記されています。また、延島の手紙の一部も抜粋されて掲載された。延島からのもう一つの要請は、どのように実現されたでしょうか。
 まず、192311月に発行された『フリーダム』に「アナーキストたちが日本政府によって暗殺される」という記事が掲載されています。そこでは、次のように述べられています。「1031日付、シアトル発行の『インダストリアル・ワーカー』に詳細が報告され、日本の同志は以下のように述べている ・・・」と。
 延島の要請通り、『インダストリアル・ワーカー』がロンドンのフリーダム・プレスに送付され、記事の一部が転載されたのです。この記事の末尾は、以下のように締めくくられています。「本紙19235月号と7月号日本の労働運動に関するコラムを寄稿した日本の同志延島E.K.は『インダストリアル・ワーカー』に次のように書いている。「我々は現在逮捕されるか、あるいは殺害される、という大変危険な状況下にある。・・・日本の革命的労働者のために、この情報を世界へと送信するように諸君に要請する」」と。ここから、延島がフリーダムとも以前から関係があり、彼を通じて日本の情報が世界に発信されていたことがわかります。
 延島の要請通り、『インダストリアル・ワーカー』は、ベルリンのアナルコサンディカリスト・インターナショナルに送られたと考えられます。この組織のドイツ語機関誌『ジンディカリスト』47/48号(11月中旬・下旬)の国際面では、同内容の記事「日本における恐怖政治」が掲載されています。この記事は次のように締めくくられています。「ヨーロッパとアメリカの労働者諸君。日本政府に雇われた、制服を着た殺し屋どもの恥ずべき行為に対して抗議せよ。世界各地で日本の代表者あるいは代表機関といわれているものは、実際には日本の資本主義と帝国主義の手先である。「おまえたちは大杉と彼の友人たちを殺した殺人者だ」と彼らに伝えよ。日本の革命的労働運動万歳」。 
 パリで発行されていた『リベルテール』にも延島による記事は19234月と7月に掲載されていましたが、『インダストリアル・ワーカー』の記事が何らかの形で転載された事実については、今のところ確認ができていません。ただし、当時の『リベルテール』の編集者アンドレ・コロメル(大杉を国際アナーキスト大会に招待して大杉とパリで会っている人物)は、大杉が殺害された事件を、アメリカの新聞から知った、と証言しています。
 『リベルテール』1923127日号に掲載された大杉や伊藤野枝の殺害に関する報道は、おそらくは、山鹿泰治がエスペラント語で書いた記事を翻訳したものではないか、と推測できます。こちらは1010日付で、延島の記事の日付である109日より1日遅れて出されていますが掲載されたのは12月です。また、ここに掲載されている似顔絵は、当時の日本の新聞に掲載されて写真をもとにしたものであり、絵の得意な山鹿が、記事と一緒に『リベルテール』に送ったのではないか、と推測しています。
 以上のように、延島は、英語で記事や手紙を書き、1923年かそれ以前からアメリカとヨーロッパのアナーキストやアナルコサンディカリストにむすびついていました。日本の機関誌を見れば、そこにも国外からの情報が常に掲載されていたことがわかります。
 もちろん、それより10年以上前から、幸德秋水などがこういった国際的なネットワークの結節点を作りだしています。大逆事件に対して欧米の社会主義者やアナーキストが迅速に抗議行動や支援を展開したことがこれを裏付けています。延島はそれを活用していたとも言えます。
 ただし、今回紹介した、大杉殺害報道の場合、シアトルの日系移民社会も重要な役割を果たしていたことがわかります。延島が日本語で書いた記事が、I.W.W.に関わっていた日系移民の中にいた協力者が翻訳することで、世界中に情報が発信されたからです。
 残念ながら、こういった太平洋を越えたネットワークが日本のアナーキズムにどのような影響を与えたのかという点については分析できていません。しかし、これだけ緊密な関係があったとすれば、影響を受けなかった、ということはあり得ません。
 付け加えれば、資料として残っているものはわずかですが、アナーキスト同士が国境を越えてやりとりしていた手紙も重要です。しかし、この報告では、その点を指摘するだけにとどめます。私が『初期社会主義研究』24号(201210月)に掲載された「日本とアメリカのアナーキストによる国境を越えた交流と連帯山鹿泰冶とポリス・イエレンスキーの往復書簡にみる「太平洋を越えた支援」(一)194851」および、次の25号に掲載される論文をご覧ください。

参考文献
山田昭次『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』影書房、1996年。


Rereading the History of Japanese Anarchism in the Context of Global Anarchism History
Hikaru Tanaka (hikaru(a)cc.osaka-kyoiku.ac.jp) November 16, 2013 at Meiji University

 In this presentation I would like to examine two approaches to reread the history of Japanese anarchism in the context of global anarchism. These approaches must be very important to emancipate the history of anarchism from the nation-state framework, and to connect to the global anarchism history.
  To think about the modern anarchism, we should learn the history of anarchism which continued over more than 100 years. For many people, history or past in general seems as if it has no relationship to their present situation. But, in fact, history or the past in general, continues to be rewritten from the point of view of present. Today, when the global anarchism is developing, we need the other type of narrative of anarchist history.
  In this presentation, I will show you two approaches to reread the past of anarchism in the context of todays global anarchism, to feel the actuality of the anarchism history which must stimulate the anarchism today. Because, until today, so many historical studies of anarchism are written in the framework of nation-state, like the history of Japanese-, French- or Spanish anarchism.
 Before 1990, many Japanese anarchists continued to stick to the originality of Japanese anarchism; they insisted on that the Japanese anarchism should not be borrowedor be imported from Europe or United States. Many Japanese anarchists were always caught up with the sense of inferiority to the western Europe, the feeling of rejection against the modernization, and the Japanese nationalism.
 We cannot find such feeling among the younger and youngest generation. They absorb every information which comes from all around the world. They dont mind, where the origin of the information; they are skeptical to the concept originor essenceof thought in the first place, but they pragmatically absorb everything which they find interesting, without hesitation,.
  I think, this younger generation will be able to explore their better present and future, if they reread the past of Japanese anarchism, by replacing it from the narrative of nation-state to the context of global anarchism. Today I will show you following two approaches to explain the history of Japanese anarchism in the context of global anarchism.
1) We should note in the experience of anarchists outside of Japan, which gave impact on their thought and action.
2) We should note, not only in the articles of foreign anarchist newspapers which reported about the Japanese anarchism, but also in the global communications as the background of such reports outside of Japan.
 The research by these two approaches, we should focus on the facts, how the thought and action are formed as the effect by the communications in the transnational network. With this research, we will be able to replace the history of Japanese anarchism in the context of global anarchism history.

1) How the experience outside Japan gave the impact on their thought and action.
 Before 1945, there are such prominent Japanese anarchists, who had experience outside Japan, as Shūsui Kōtoku (1871-1911), Sanshirō Ishikawa (1876-1956), Sakutarō Iwasa (1876-1967), Jun Tsuji (1884-1944), Sakae Ōsugi (1885-1923), Taiji Yamaga (1892-1970) or Yuzuru Kubo (1903-1961). But today I would like to take up here Fumiko Kaneko (1903-1926) as the example.
 The majority of Japanese anarchists are men and intellectual; some raised in the circumstance of relatively well-off family. In the contrast to them, Fumiko Kaneko raised in the unfortunate circumstance, lived in poverty throughout of her life. In such circumstance, on the basis of experience of seven years in the Korea, she came to have the feeling of solidarity with Korean people.
 In that time, the majority of Japanese had feeling of discrimination against Korean people, especially after Japan colonized Korea in 1910. When the earthquake of September 1 of 1923 broke out in Tokyo, many citizens of Tokyo participated in the vigilance organization to kill more than 6,000 Korean People.
 From the report by Masaya Hiyazaki, we have also learned that today the people who sympathize with hate speech against the Korean permanent residents in Japan, are precariat because of their marginalized situation. If Fumiko Kaneko lived today, she could become also a nationalist and racist.
 It was rare to have the sympathy to the Korean people, especially before the Second World War; then Fumiko Kaneko was probably one of rare examples, but she must be also a good example, to replace the Japanese anarchist history to the context of global anarchist history.
  Her great anger against the state and law, come from her unfortunate upbringing. 1903 she was born in Yokohama. Her father rejected not only to entry his wife in his family register, but also to entry Fumiko Kaneko in the family register of his wife as illegitimate child.
 Because she was illegitimate, Fumiko was rejected to entry to elementary school. After her mother pleaded to the school, Fumiko was accepted to go to school, but she was discriminated by the teachers. In later years, at the Tokyo District Court on January 2, 1924, Fumiko recalled as follows: in spite of my presence in reality, the law dont recognize my existence, only because I wasnt entered in family register. Only with this reason, people dont accept my existence to plunge me into a miserable situation. The power of manmade law has such an authority which can decide to recognize or to deny the real existence of human-being.
 Her parents neglected the support for their children very early. When Fumiko was 5 years old, her father left his wife and Fumiko, to live with another woman; when Fumiko was 8 years old, her mother left her to remarry. In 1912, when Fumiko was 9 years old, the paternal grandfather came to Japan to adopt Fumiko as his daughter and to take back her to his home in Korea. Fumiko was placed in the grandfather’s family register; she could go to elementary and middle school now.
 The family, which adopted her as their child, exploited the Korean people as landlord, usury and opium dealer, at the bottom of colonial domination system. Fumiko Kaneko watched how Japanese abuse the Korean people, including the abuse against a manservant, who was hired in the family. Because Fumiko was also abused especially by the grandmother, once she tried to kill herself. In March of 1919, when she watched theMarch 1st movement”, she was very moved and impressed. In this moment emerged in her, the consciousness of solidarity with Korean people: “We are Japanese, but I hate them so much; when I think of them, I feel boiled with anger. The scene, which only reflected in my eyes in that time, but it was burned in my mind today, as the foundation of my rebellious feeling. The experience in Korea made me to sympathize with the resistance movement by Korean people, with which they antagonized against whole Japanese imperialism, After, I went to Tokyo, I made friendship with many Korean socialist and nationalists. I cannot disregard such movement as the other people’s affair”.
 In 1919, Fumiko came back to Japan to live with her father, but he always abused her; she left him and made her living with so many precarious jobs; during this period she began to learn socialism; she found that her emotion is actually the theoretical framework of her thought, which identify her and the discriminated Korean people: “what socialism demonstrate was not new for me. Socialism gave me only the theory, which justified my feeling that I got with my experience in my situation until this time. I was poor and still now also. I was deprived of freedom, exploited, and dominated. With each of these experiences, I continued to accumulate inside of me the rebellious feeling against the persons who have such great power. In the same moment, I sympathized with everything which is in the same situation like me. In Korea, I sympathized with the servant who hired in my family; and even with the dog, which was kept in the family; I felt the sympathy to this dog, like as the companion. Everywhere around my grandmother, occurred so many oppressing, abuses, bulling and exploitation, domination against the Korean people. I felt always sympathy with them; such sympathy was also the sign of my rebellious heart. Socialism only set fire to my heart”.

After she experienced the irresponsible attitudes of socialists, she was influenced by anarchism, with reading books of Kropotkin: Socialists will make the revolution “for the people”, [...] but socialist leaders will take power quickly, [...] and the people must become again as the servants of such socialistic authority. Then what is revolution?  It changes only one power to another one.

Fumiko was influenced also by the nihilistic thoughts like as Max Stirner, and she didn’t have hope for the change of social structure. The only important thing for her was to find “true work” of herself.

 “Even if we couldn’t have hope to the society, nevertheless we will find our true work”. 

In 1922, Fumiko met Park Yol (1902-1974), nihilistic Korean anarchist, when she interacted with Korean People in Tokyo; Fumiko and Park began to live together as the comrade; they were active in the organization and publishing the journals. On March of 1923, they founded the organization named “insubordination”, because many Japanese authorities named Korean People “insubordination-people”. The more than 20 members of this organization was mixture of Korean, Japanese students, workers, Buddhists and Christian. The purpose of this organization was to study about the anarchism, but there was no pressing of ideology.
On September 1, 1923 occurred the Great Earthquake in Tokyo and surrounded Regions; the members of organization were arrested; some of them confessed to the police that Park once planed to get the explosive from China, because he wanted to throw it in the celebration of marriage of Crown Prince; Park and Fumiko confessed that this plan was made only by them; they did not want to be prosecuted the other members.
 I 1926, Fumiko and Park received death sentence, but it changed to lifelong imprisonment; this amnesty was immediately down, for appealing the benevolence of Emperor. In same year Fumiko was dead; the authority announced that she had committed suicide, but the truth is a mystery. Fumiko explained what she is thinking about during this 3 years from arrest to her death in the prison.

“I would like to imagine the ideal society, which based on the self-government: where everybody is hers/his lord and they manage their life in autonomy; all requests for my action only come from me, and they come back to me; from beginning to the end, such actions are only for me, and the criteria are also only mine. I want you to notice, when I say “right”, the criteria is only my “autonomous”, i.e. my subjective judgment. I am probably an individualistic Anarchist. […] When every individual wakes up in ego, the state will collapse. I refuse every intervention from state or government, other than the true order, which burns inside of me”.

It seems like that the thought of Fumiko Kaneko, who was influenced by the thought of Max Stirner, emphasized to counterpose the individual to “the society”, on which our first presenter, Yasushi Kurihara mentioned. But we should emphasize here that her thought got special character, when she identified her life with circumstances of Korean people.
To reread the thought of Fumiko Kaneko in the context of global anarchist history, we will need to compare the thought and practice of her to many contemporary anarchist women like Emma Goldman, who cross the border many times and had transnational or global thinking.

2) The articles of foreign anarchist newspapers which reported about the Japanese anarchism: focusing on the communication between Japanese and non Japanese anarchists.
  After September 1 of 1923, ten members of workers union activist including Keishichi Hirasawa were killed by police; on September,16, Sakae Osugi, Noe Ito and their nephew, seven-years-old Munekazu Tchibana, were killed by military police, and more than 6,000 Korean people killed by vigilante groups organized by Japanese people.
 But most of Japanese knew nothing about killing of Osugi and others, because until October 9, the newspapers were strict censored.
 On October 9, Eiichi Nobushima, one of the member of Labor Movement Association, which was co-founded by Osugi and the others, wrote an article in Japanese about the slaughtering of socialist, anarchist and Korean people, with a letter in English, and sent it to the office of Industrial Worker, which published at Seattle, one of the organs of I.W.W. (Industrial Workers of World).
 We can assume that Nobushima had already written this article in Japanese and prepared to send to Seattle, before October 9, because he wrote in the letter of October 7, in English, as follows:

“We are now confronted with the great danger of being arrested or murdered. We have no time to write you of the present situation of Japan in detail, so I write it in Japanese in a very hurried manner. Have some Japanese comrades there translate it for you.”
“When you print it please send marked copies to the Syndicalist International of Berlin, the Freedom Press of England and Le Libertaire of France. You are requested to send this information in the world on our behalf by Japanese revolutionary workers.”

We can confirm that this request from Nobushima was accepted by the editorial of Industrial Worker, because the issue of October 31, the translated article of Nobushima was published, with quotation from some parts of his letter in English. We can also recognize that at the end of this article noted “Translated in Seattle”. Then, how was the other request?
On the November issue of anarchist journal Freedom, published the article “Anarchists Assassinated in Japan”; it was a part of the article published in the Industrial Worker, and at the top of this article, we can read: In a detailed report published in the Industrial Worker (Seattle) of October 31st, Our Japanese comrades say that […]”.
We can recognize that following to the Nobushima’s request, the issue of Industrial Worker was sent to the office of Freedom in London, and some part of article were reprinted. At the bottom of this article in Freedom, we can read:

“Our comrade E.K. Nobushima, who has contributed articles on the Japanese Labour Movement to the columns of FREEDOM (May and July, 1923), writes to the Industrial Worker, saying: “We are now confronted with great danger of being arrested or murdered...You are requested to send this information to the world on our behalf by Japanese revolutionary workers.”

Then we can also assume that following to his request, the issue of Industrial Worker was sent to the office of anarchosyndicalist international or International Workingmen’s Association in Berlin. On the issue No.47/48 of official organ Der Syndikalist was the article “Reign of terror in Japan”. At the bottom of this article was written as follows:

“Workers of Europe and America! Protest against these acts of uniformed mercenaries of the Japanese government. In all countries there are men and institutions that represent supposedly Japan, but in reality, represent the Japanese capitalism and imperialism, tell them that they are murderers of Osugi and his friends. Long live the revolutionary workers' movement in Japan!

As same as Freedom, on some issues of Libertaire, the official organ of French anarchist federation, we can find some articles by Nobushima, in the issues of April and July of 1923; until today, we don’t have find yet the same article from Industrial Worker about the slaughtering the socialist, anarchist, and Korean people. But according to one private report, Andre Colomer, who invited Osugi to International Anarchist congress, met with him during his stay in Paris in 1923 and the editor of Libertaire in that time, said that he knew the death of Osugi from “Ameerican Paper”. so we can assume that this paper must be Industrial Worker.
In the issue of December 7 of Libertaire we can see the article “Aprè de assainat d’Osugi: un appell des anarchistes japonaise” with some illustration. I can assume that this article was written, not by Nobushima, but by Taiji Yamaga, who can Esperanto very well, and we can read in his autobiography that he sent the article somewhere in Europe. The date of this article was October 10; dated one day after of Nobushima’s article, but published in December. The origin of these portraits, are the photographs, which published in the Japanese newspapers. I am assuming that Yamaga, who was good at drawing, sent the portraits with the article in Esperanto to the office of Libertaire in Paris.
In such manner, Nobushima sent the letters and articles in English to the United States or to Europe. With these correspondents, he connected with anarchists and anarchosyndicalists there. If we read the organs of Japanese anarchist, we can also find many articles about the information of American or European movement.
  More than 10 years before Nobushima sent the article and letter to Seattle, Shusui Kotoku and the other socialists and anarchists already made such international network between Japan and United States or Europe; Japanese anarchists was one of the knots of this international network. This explains why so many socialists and anarchists in United States and Europe appealed so quickly to Japanese government, when they knew about the high treason incident from 1910 to 1901.
  But the case of Nobushima is something different, because without the Japanese immigrants, who connected with I.W.W. in Seattle, the article was never published in Industrial Worker. 
  Because the luck of research, we cannot estimate the influence of such transpacific network to the Japanese anarchist movement, but we can assume that there must be a great impact.
 At the end of this presentation, I would like to note that the exchange of letters also gave great impact to Japanese anarchist movement, not only before 1945, but also after 1945 too. About this case, please read the article I wrote in Early Socialist Studies, No.24 published in October of 2012. The title of this article is “Interaction and Solidarity between Anarchists in Japan and America (Part 1)”.