今回は(前回までについては「偽書アナキズム 栗原本 その1(3) 」を参照)、「序章アナキズムってなんですか?」を中心に、栗原がアナーキズムをどう理解しているのかを見ていく。まあ栗原の文章はダラダラ牛の涎のように続く自問自答の主客融合した文体、つまり読み手に考える間を与えない形式となっていて、俺は読んでいると気持ちが悪くなっちまうんだが、まっ、行きがかりなんでやってみた。
(4)「制御できない力」= アナキズム
前回でも述べたように、この『アナキズム』は、栗原がYoutubeで観ることの出来たパリの暴動に栗原が異常に興奮しまくるところから始まる。栗原が暴動鑑賞で得た結論は以下の通りだ。
だれにもなんにも、国家にも資本にも、左翼にも右翼にもしばられない、そして自分自身にですら制御できない、得体のしれない力がある。それがわかったんだと。だから、マックを焼き討ちにした当人たちも、それを目撃したおいらたちも、そんな力にただ酔いしれればいいんだ、そんな力があることを誇りにおもえばいいんだ、あれもできる、これもできる、もっとできる、もっともっとできる、うれしい、たのしい、きもちいい、オレ、すげえ、オレ、すげえ、オレ、オレ、オ-レイ!ってね。わすれやしない、この酔い心地だけは。えっ、なにいってんのって?
いやいや、それがアナキズムってもんさ。どえれえやつらがあらわれたァ!火のついた猿、火のついた猿。ウッキャッキャッキャッキャ---ッ!!! 手に負えない。(栗原康『アナキズム』7~8頁)
栗原は「自分自身にですら制御できない、得体のしれない力がある。」「そんな力にただ酔いしれればいいんだ」それがアナキズムだとまず結論づける。
(5)アルケー及びアナーキー
栗原はここで、アナキズムを語源から説明しようと試みる。
アナキズムというのはギリシャ語のanarchosからきていて、an(アン)っていう接頭語と、arche(アルケー)がくっついてできたものだ。アン、アルケーで、アナーキー。でね、このアンというのは「~がない」って意味で、アルケーというのは「支配」とか「統治」って意味なんだ。
だからていねいに訳していくと、「だれもなんにも支配されないぞ」「統治されないものになれ」ってのがアナーキーになる。で、それを思想信条としましょうってのが、アナキズムだ。アナーキーに「~主義」のイズムをつけてアナキズム。(栗原康『アナキズム』8~9頁)
ほんまかいな、疑う俺は、他の文献で語源に言及したものを比較してみた。
語源となっているギリシャ語のanarchosは、単に”支配者のない”ということを意味するだけであり、したがってアナキィそれ自身は、一般的な文脈においては、明らかに、支配に従っていないこと(unruliness)という消極的な状態か、支配は秩序の維持にとって不必要であるから支配をうけない(being unruled)という積極的な状態が、いずれかを意味するように用いられうるのである。(ジョージ・ウドコック『アナキズムⅠ思想篇3頁)
一九世紀に現れたアナーキズムは、人間に対する人間による支配のない社会を「アナーキーAnarchy」つまり「無支配」と規定し、これを理想的な人間社会のあり方であると主張した。(田中ひかる『ドイツ・アナ-キズムの成立』4頁)
確かに比較してわかるように、情報量に違いがあるものの、アナーキーが「無支配」をめざすものとしてとらえられていることは栗原を含め概ね共通していると言ってよい。ところが、栗原は語源アルケーにはもともともう一つの意味があると言い出す。
でもね、もうひとつ、あたまにいれておかなきゃいけないのは、このアルケーっていうのはもともと哲学用語だってことだ。「万物の始原」とか、「根源的原理」とかね。かんたんにいってしまえば、「はじまり」とか、「根拠」ってことになるだろうか、それがないってことだから、アナキズムってのは、「はじまりのない生をいきる」とか、「根拠のないことをやる」ってことになる。(栗原康『アナキズム』8~9頁)
栗原はここで、アルケーの語源に立ち戻りつつアナキズムは、「はじまりのない生をいきる」とか、「根拠のないことをやる」ってことだと定義するのである。ここで栗原のアナキズムの定義について整理すると、
栗原式アナキズムの定義
(1) 「誰も何にも支配や統治されない」主義
(2) 「はじまりのない生き方あるいは根拠もないことを行う」主義
(1)については、すでに述べたように他の論者との見解とも一致すると言ってよいが、問題は、(2)の方である。こんな定義について俺は聞いたことがない。もっとも俺は研究者でないので、こういう主張をしているアナーキストなり、研究者を知らないだけかもしれない。で、哲学用語というので辞典に当たってみた。
古代ギリシャ語Αρχη。「初め」の意。ラテン語のプリンキピウムprincipium(*1)にあたる。イオニアの哲学者たちによって万象の「もとのもの」の意で用いられ、アナクシマアンドロスがト・アペイロンと同様の意で特定の意味で用いたのが最初である。その後、次第に「知の原理」「存在のもと」「運動の原因」などの意味で用いられるようになった。(『哲学辞典』平凡社43頁)
さらに辞典ではアリストテレスの『形而上学』に第5巻、第1章にアルケーに言及があり、分類されているとする。それは以下のようなものである。
(1)そこから人が運動を始めるところ、たとえば道の出発点。
(2)そこからそれぞれのものがもっとも見事に生じうるもの、たとえば学習のもっとも容易になされうる初歩。
(3)それからものが最初に生じてきて、しかもその生じてきたものに内在しているもの、たとえば船の竜骨。
(4)それからものが最初に生じてきて、しかもその生じてきたものに内在しないもの。あるいは運動が本来そこから始まるもの、たとえば子どもが生じてくる父母。
(5)運動するものが、「そのもの」の意図によって運動することになる「そのもの」、たとえば、国の政府。
(6)事物がそれによってはじめて知られるものとなること。
ギリシャの哲学者たちは、この分類の中から、適宜、あるいはすべてをアルケーの概念として展開したとある。栗原が、ギリシャ哲学者にならってチョイスしたのか、「初め」「根拠」と意味づけし、それをanして見せた、つまり否定したものこそが、アルケーをアンしたすなわちアナーキーで、「はじまりのない生をいきる」とか、「根拠のないことをやる」ということにもっていったことがわかる。
では、具体的に何がanされる否定される「初め」なり「根拠」かというと、栗原は、例えとして資本主義の世の中では「カネによる支配」が「はじまり」だとしている(*2)。
たとえば、この資本主義の世の中じゃ、たくさんカネをかせいでなんぼってのがあるわけさ、カネをかせいで生きるのがよいことだ「はじまり」としてあって、じゃあ、それでよりよい生活をしていくためには、よりよい将来のためには、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないっていわれている。カネによる支配だ。でもね、これじゃすんげえいきぐるしい。いま、メッチチャやりたいことがあったとしても、それがカネになるもんじゃなきゃ将来のためにならない、やっちゃダメだ、それでもやるのはろくでなしだ、クソなんだっていわれちまうからね。(栗原康『アナキズム』9~10頁)
栗原は、さらに大杉栄を引っ張りだして、下記のように自身の論を補強にかかる。
あれもダメ、これもダメ、ぜんぶダメ。ダメ、ダメ、ダメ、ドヒャア!100年前の日本のアナキスト、大杉栄は、それじゃダメでしょうってことで、だいじなのは「生の拡充」だっていっていた。ひとってのは自分の生きる力をどんだけおもうぞんぶんひろげることができるのか、やりたいことをやってみて、それができたら、うれしい、たのしい、きもちいい、オレすげえ、オレすげえって、ハシャギまくって、どんだけ自分で自分に充実感をえることができたのか、そんだけのもんでしょうと。はじめからやっちゃいけないことなんてない、はじめからいっちゃいけないことなんてない、ぜんぶ自由だ。やりたいことしかやりたくないね!やっちまいな、いいよ!(栗原康『アナキズム』10頁)
つまり栗原は、カネの支配をはじまりとする資本主義では、カネを稼ぐ以外のことはやってはいけない、自分のしたいことをやってはいけないと言われる。だけど大杉栄の「生の拡充」は、人にはやってはいけないことはないんだ、やりたいことしたいことを全部自由だからやれよって言っているという。
栗原の論が本当に大杉栄の「生の拡充」と繋がるんだろうか。少し長くなるが、「生の拡充」について述べたいと思う。
(6)大杉栄「生の拡充」について
大杉の「生の拡充」は、『近代思想』の1913年7月号に掲載されたものである。これは『近代思想』前月号に掲載された「征服の事実」の続編である。「征服の事実」は文芸の徒、アーティストたちに向けた体裁を取っており、当然続編の「生の拡充」も同様である(*3)。
「征服の事実」は、「過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の人類社会の根本事実」たる「征服」を説いたものである。
人類の歴史は、マルクスの言う「階級闘争」がある。しかしそれに先行する種族間の闘争があった。闘争の結果、征服者と被征服者が発生し、引いてはそれを合理的に統治する社会システム創出のきっかけとなったというのである。
まずこの「征服」の事実を意識しないで社会を理解することはないと言い、さらにその「反抗」に触れない限り、芸術は遊びにとどまると断じる。そうした結果生み出される芸術は、
われわれはエクスタシイと同時にアンツウジアスム(*4)を生ぜしめる動的美に憧れたい。われわれの要求する文芸は、かの事実に対する憎悪美と叛逆美との創造的文芸である(*5)。
と結ぶ。
ここまでが「征服の事実」の要旨であり、さらに「生の拡充」おいてその内容を深めて行く。
「生の拡充」、その「生」とは何か。「生」の神髄とは「自我」である。そして自我とは一種の「力」を意味するが、「力はただちに動作となって現れねばならぬ」、「力の存在と動作とは同意義だ」という。
さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる(*5)。
さらに大杉は言葉を続けて、「けれども生の拡張には、また生の充実を伴わねばならぬ」「充実と拡張とは同一物であらねばならぬ」(*6)。
大杉は、「かくして『生の拡充』はわれわれの唯一の生の義務となる。」というのだ。その結果、生の拡充の障害となるものが現われた場合は、「いっさいの事物を除去し破壊すべく、われわれに命ずる」。我が道に立ちふさがる障害物は排除せよと主張するのである。
もしそれに自らが服すことが不可能な場合はどうなるのか。
「そしてこの命令に背く時、われわれの生は、われわれの自我は、停滞し、腐敗し、壊滅する。生の拡充は生そのものの根本的性質である。」
つまり停滞は自我の壊滅を意味する(*7)。
大杉は、さらに深く原始以来の人類の相克の内に「生の拡充」を見いだす。「お互いの闘争と利用とを続けて来た」結果、人類の「生の拡充」は障害されるようになる。
「征服の事実」でも述べたように、人類間に征服者と被征服者、すなわち主人と奴隷の関係を生み出したが、両極の両者はともに「自我」を失い、「生の拡充」は停滞を迎えたのだ。
この両極の生の毀損がまさに壊滅を迎えようとするとき、「比較的に健全なる生を有する中間階級」がイニシアチブを取って、「被征服階級の救済」の名の下に革命が起きてくるが、結果は「常に中間階級が新しき主人」となることが繰り返されるだけである。
それは人類が、主人と奴隷に分化する以前の原始について無知であったためだ、「人の上の人の権威を排除して、われ自らわれを主宰することが、生の拡充の至上の手段であることに想い到らなかった」。
彼等はただ主人を選んだ。主人の名を変えた。そしてついに根本の征服の事実そのものに斧を触れることをあえてしなかった。これが人類の歴史の最大誤謬である(*5)。
大杉は言う、生が生きて行くためには、征服の事実に対する「憎悪」がさらには「反逆」を生ぜさすこと、人の上に人の権威を戴かない、自我が自我を主宰する、自由生活の要求が起きる必要がある。
そして生の拡充の中、に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る(*5)。
階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。
階調は偽りである。真はただ乱調にある(*5)。
大杉は、美を「反逆」の中に見いだすが、それは「実行の芸術」でもある。その「実行」とは何か。「実行」とは生の直接の活動であるが、それは「頭脳の科学的洗練を受けた近代人の実行」は、「前後の思慮のない実行ではない」という。
多年の観察と思索とから、生のもっとも有効なる活動であると信じた実行である。実行の前後は勿論、その最中といえども、なお当面の事件の背景が十分に頭に映じている実行である。実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情はさらに新しき実行を呼ぶ(*5)。
最後は、「僕は生の要求するところに従って、この意味の傾向的の文芸を要求する、科学を要求する、哲学を要求する」で結んでいる。
(7)栗原アナキズム論の怪しさ
栗原は映像で観た群衆の破壊への行動に強く惹かれるわけだ、それもその無意味、無根拠性を評価する。
確かに栗原のいうパリ暴動に、そういう破壊活動そのものを目的とする個人がいないわけではないだろう。
しかし、前回にも述べたように、その先頭に立つブラックブロック(*8)は、ある意味極めて統制のとれた暴動に特化した組織と解するべきではないかと思う。
自然発生的に、自分でもわけわからない状態でデモに参加するなどあり得ない。暴動という混乱状況においてこそ的確な判断が求められる。
警察という重武装で身を固め訓練を受けたプロの集団、正に国家の暴力に対峙している最中に、「自分自身にですら制御できない、得体のしれない力」「そんな力にただ酔いしれればいいんだ」なんて能天気なことを言うなどあり得ないのではないか。
そういう状態が成立するとしたらそれは当事者ではなく、映画館の観客や、暴動の野次馬たちの視点だろう。
自分は決して危なくない対岸の火事なら、そのスペクタルに興じたり興奮したりすることもあり得る。まあ「目撃したおいらたち」と記しているが、それを暴動の当事者や当人たちと同レベルで語っているところに強い違和感を覚える。
また、その興奮の描写も奇妙なものだ。「あれもできる、これもできる、もっとできる、もっともっとできる」って、暴動の最中になぜ「万能感」(*9)に浸っているのかと呆れてしまう。
この続きが、「うれしい、たのしい、きもちいい、オレ、すげえ、オレ、すげえ…」これまた自分の感覚であり、万能感が表明されている。暴動や政治的表現は、自己実現の道具にすぎないのか。
しかし、この栗原独自の考え方を、栗原はアナキズムだと宣言するのである。
その根拠の一つとして、語源から手繰り寄せる。それについては、(5)アルケー及びアナーキーで述べたように、アナキズムに関する2つの定義のうち、一つは、「誰も何にも支配や統治されない」であり、これはまあ、辞書的に比較しただけでも納得はまだできる。
しかし、問題は二つ目の、「はじまりのない生をいきる」、「根拠のないことをやる」それらをアナキズムとする点だ。ギリシャ語源のアルケーの定義から、恣意的に導き出されたことがわかる。
栗原は例えば「根源がない」というのを「根拠がない」という言葉として用いているが、「根源」と「根拠」は似て非なるものであろう。これは栗原式アナキズムを展開する上でのすり替えだと俺は思っている。
「火のついた猿、火のついた猿。ウッキャッキャッキャッキャ---ッ!!!」とやりたい放題暴れるためには、「根源」などという固い哲学用語ではanは使いづらい、そこでanし易い「根拠」を持ってきたのだろう。「根拠なし」一丁あがりである。
さらに自身の論の裏付けに、大杉栄の「生の拡充」を持ってくる。結論から言えば、「生の拡充」と栗原式アナキズムは全く別物といってよい。
既に述べたように「生の拡充」は「征服の事実」の続編である。その「征服の事実」は、表現者はまず人類の起源から存在している「征服」という事実の認識、そしてその「反抗」、それを知らずして何を表現するのだという問題提起である。
その是非はともかく、大杉はマルクスの「階級闘争」を包摂する形で、人類の宿痾「征服」の歴史を簡潔に述べた上で、表現者の方向性を指し示す。
さらに「生の拡充」では、「生の拡充」を人類の「征服」史に重ねたうえで、「生の拡充」の停滞、それを個々人の「反抗」へと展開することこそ表現者のありようではないかと述べる。
そしてそのプロセスには、「多年の観察と思索とから、生のもっとも有効なる活動であると信じた実行である」と指摘しているように、物事を客観的に科学的に思索した上で、机上の上にとどまらない「実行」が必要なのだと言っているのである。
栗原の言う、「オレすげえって、ハシャギまくって、どんだけ自分で自分に充実感をえることができたのか、そんだけのもんでしょうと…」なんてバカバカしいことは決して言ってはいない。
大杉は「観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情はさらに新しき実行を呼ぶ」と言い、「観照」という深い用語を使っている。その上での恍惚や熱情である。我を忘れてとち狂って騒げなんてどこにも言ってやしない。
栗原が如何に原文の意図を損ねて、自分の論の補強に使ったかおわかりいただけたかと思う。
(8)まとめ
俺は、栗原の言っている自由やアナキズムは、せいぜい「バカッター」(*10)の作り方を指南しているに過ぎないと思う。
俺はシステムから虐げられていると感じる「弱者」ほど頭や知恵を使うべきだと思う。これは学校教育を頑張れと言うのではない。
大杉のいう通り世の中を支配する仕組み、システムの穴、その手掛かりは多くは、システム側が保有しているものである。それをまずよく見極めることだと思う。
大杉は、それを「征服」と認識したが、それだけでは今は足らないと思う。自分を含め人間や組織、社会、国家についてもっと深く見極める必要がある(*11)。それらを学びつつ、サバイバルや自由になる方法を実行するのである。
「弱者」はやり直しがきかないのだ。
俺は無責任に思想の煽り運転をやらかす栗原を否定する。栗原はアナ界の太田竜というべきものだ。もっとも栗原とはスケール感が違うが(*12)。
栗原の本などから何も得ることはないはず、かと言って便所紙にも使えない。それだったら福本伸行の漫画『賭博黙示録カイジ』の方がはるかにためになるのでおすすめしたいな。
今回はこれまで。後機会があれば栗原の暴動論批判を行いたい。
最後に栗原先生の芸、うたと踊りでしめくくりたい。
うれしい、たのしい、きもちいい、オレすげえ、オレすげえって、だれにもなんにも、法律やモラルにしばられない、そして自分自身にですら制御できない、得体のしれない衝動があるウッキャッキャッキャッキャ---ッ!!!だから、火のついたコアラ、火のついたコアラ、京アニを焼き討ちにした犯人も、プリウスミサイル発射した元官僚も、川崎市登戸通り魔も、新幹線殺傷犯も、誰でもよかった、何でもよかった、意味も根拠もなし、はじめからやっちゃいけないことなんてない、ぜんぶ自由だ。やりたいことしかやりたくないね!やっちまいな、いいよ!それを目撃したおいらたちも、そんな力にただ酔いしれればいいんだ、うれしい、たのしい、ウッキャッキャッキャッ…それがアナキズムってもんさ。どえれえやつらがあらわれたァ!火のついたコアラ、火のついたコアラ。ウッキャッキャッキャッキャ---ッ!!! 手に負えない。オレ、すげえ、オレ、すげえ、オレ、オレ、オレ、オレ、オ-レイ!オレクリハラ!(*13)
注 (*1) principium 基礎、原則、原理の意。
(*2) ここで脱線的に突っ込んでおくと、カネになること以外をやろうとすると、「やっちゃダメだ」「クソなんだ」って誰が言ってくるんだい。よしんば言ってくるやつがいても、それは栗原周辺の親、親戚、あるいは教師、友人か、栗原固有の事象ではないのか。また、それに言われたとしても、無視するだけで事足りるんじゃないのか。もし自分がやろうとしても、周囲の非難に堪えられない、息苦しいというのなら、アナキズムに解決を求めるのではなく、友人に相談するか、カウンセリングでも受けた方が早いと思うのだが。あまりお勧めはできないが、ジャンキーになるって手もある。個人的問題の解決に哲学や政治思想が必要かいな。それとも資本制のメタファーに失敗しているだけなのか。
(*3) しかし、これは当局の眼をかいくぐるための偽装と思われる。アナーキスト同志に向けられたものと解してよいだろう。
(*4) enthousiasme 熱中、熱狂、熱意、感激、熱中させるものの意。
(*5) 大杉栄「生の拡充」 引用:青空文庫作成(http://www.aozora.gr.jp/)
(*6) この大杉の論理展開が妥当なのか。出発点の「生」の神髄が「自我」というものもどうなのか、「自我」が活動や動作を「力」と等価な形で現れるとするが、そう断定的に表現できるのだろうかと疑問が沸き起こってくる。しかし、ここでは栗原と大杉の論の比較検証なので、ひとまず大杉の論は是として観ていく。
(*7) 停止したら死ぬまるでサメやマグロ、カツオのような回遊魚のような「生」だが、それでは自我の機能していない状態は「生」ではないというのだろうか、障がい者、脳死状態の患者、何某かの理由で自我機能をそこなっている人間は切り捨てられているように感じる。やはり「自我」だけで「生」を語る大杉の危うさを感じてしまう。
(*8) 前回の記述で栗原は「ブラックブロック」という呼称を表記していないと述べた箇所は間違いであるので訂正したい。ただ、栗原はブラックブロックを戦術のように記述しているが、やはりこれはフレキシブルではあるが組織形態と観るべきかとも思う。現在発生している香港暴動では、デモ隊の戦術を担っているのはサバゲーのオタク集団との報道があった。日常的に模擬戦闘での訓練や彼らの軍事関連のオタク知識が役立っている。つまり自然発生に任せただけでは権力との闘いは維持できないということでもあろう。
(*9) 「幼児的万能感」の意。幼児期、ウルトラマンや仮面ライダーにあこがれ自分をヒーローと重ね「自分には何でもできる」と思い込んでしまうこと。思春期青年期に入ると、自分が今まで抱いていた「万能感」は現実の前に修正を余儀なくされ、自分の利点欠点をも知ったうえでの現実的な目標や選択が行われるようになる。しかし大人になってもまれに引きずってしまう場合もある。「平凡な自分」の部分を受け入れることの不安から「根拠のない自信」にしがみつこうとする。重篤な病理へと進行する場合もある。
(*10) バカッター Twitterの利用者が投稿するツイートに内容の酷いものが多く見つけられ話題になったことから、『バカッター』という名称が造られ、広まった。Twitterの利用者が投稿を通して自らの犯罪、詐欺、嘘、その他の反社会的行動を世間に曝け出す行為を指す。(以上ウィキペディアより)
バカッターの行動に興味のある方は、youtuberのPDRさんが批判的に動画をアップしているので参照して下さい。(https://www.youtube.com/user/PDRKabushikigaisha/videos)
(*11) リベラルや左翼の知識は批判的でないと使えないものが大半である。良質な保守系の思想の方が人間や社会の考察が正確である場合が多い。
(*12) 「世界革命浪人はいう。/日本侵略軍を琉球列島にさそい込み、これを一兵のこらずセンメツする、と。六千人くれば六千人センメツする。二個師団くれば、二個師団センメツする。十個師団くれば、十個師団センメツする。(太田竜『世界革命への道』27~28頁) 凄いスケールだけど実行が…w
(*13) これは栗原康の「霊言」というイタコ芸です。