2020年4月18日土曜日

「危機」は「協力」をつくりだすのか:レベッカ・ソルニット、高月園子訳『災害ユートピア』(亜紀書房、2011年)より

『災害ユートピア』427-429ページ
 災害の歴史は、私たちの大多数が、生きる目的や意味だけでなく、人とのつながりを切実に求める社会的な動物であることを教えてくれる。
 もし私たちがそのような社会的動物ならば、ほぼすべての場所で営まれている日常生活は一種の災難であり、それを妨害するものこそが、私たちに変わるチャンスを与えてくれることを示唆している。・・・
 災害は普段私たちをとじ込めている塀の裂け目のようなもので、そこから洪水のように流れ込んでくるものは、とてつもなく破壊的、もしくは創造的だ。ヒエラルキーや公的機関はこのような状況に対処するには力不足で、危機において失敗するのは大抵これらだ。
 反対に、成功するのは市民社会のほうで、人々は利他主義や相互扶助を感情的に表現するだけでなく、挑戦を受けて立ち、創造性や機知を駆使する。この数え切れないほど多くの決断をする数え切れないほど大勢の人々の分散した力のみが、大災害には適している。
 災害がエリートを脅かす理由の一つは、多くの意味で、権力が災害現場にいる市井の人々に移るからだ。
 危機に最初に対応し、間に合わせの共同キッチンを作り、ネットワークを作るのは住民たちだ。それは中央集権型でない、分散した意志決定システムも有効であることを証明する。そういった瞬間には、市民そのものが政府、すなわち臨時の意志決定機関となるが、それは民主主義が常に約束しながらも、滅多に手渡してくれなかったものだ。
 これらのはかない一時期については、次の二点が最も意義深い。
 まず、それは何が可能であるかを、いや、もっと正確に言えば、何が潜在しているかを明確に示してくれる。それは私たちのまわりの人々の立ち直りの早さや気前の良さ、そして別の種類の社会を即席に作る能力だ。
 第2に、人々とつながりたい、何かに参加したい、人の役に立ち、目的のために邁進したいという私たちの欲求がいかに深いものであるかを見せつけてくれる。だからこそ、災害では驚異的な喜びが見られるのだ。
 ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所を生き抜いた精神科医ヴィクトール・フランクルは、のちに、生きる意味と目的を持ち続けることこそが、多くのケースにおいて、そこにいた人たちの生死を分けたと結論している。
 9・11のあと、ニューヨーカーのマーシャル・バーマンは「人間、それは最も勇敢な動物で、最も悩むことに慣れている生き物であるからして、本来、苦しみを拒まない。苦しみに意味が与えられる限り、それを欲しがり、それを探し出す」というニーチェの言葉を引用した。
 フランクルは同じくニーチェの「生きる目的を持つ者は、ほとんどどんな生き方にでも耐えられる」という宣言をも引用している。・・・
 災害の中の喜びは、もしそれが訪れるとするなら、はっきりした目的の存在や、生き延びることや、他人に対する奉仕への没頭や、個人に向けられた愛ではなく市民としての愛からやってくる。市民の愛―それは、見知らぬ者同士の愛、自分の町に対する愛、大きな何かに帰属し、意味のある仕事をすることに対する愛だ。
 脱工業化した現代社会では、このような愛は大抵冬眠中か、もしくは認められていない。それゆえ日常生活は災難なのだ。

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