2020年4月18日土曜日

「危機」は「協力」をつくり出すのか 2:レベッカ・ソルニット、島月園子訳『災害ユートピア』(亜紀書房、2011年)


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 地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や身も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的イメージがあるが、それは真実とはほど遠い。
 二次大戦の爆撃から、洪水、竜巻、地震、大嵐に至るまで、惨事が起きたときの世界中の人々の行動についての何十年もの綿密な社会学的調査の結果が、これを裏付けている。けれども、この事実が知られていないために、災害直後にはしばしば「他の人々は野蛮になるだろうから、自分はそれに対する防衛策を講じているにすぎない」と信じる人々による最悪の行動が見られるのだ。
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 大抵の伝統的な社会に、個人同士や家族同士、集団の間に、深く根付いた責任と結合がある。社会という概念自体が共感や親愛の情で結ばれたネットワークをベースにとしていて、独立独歩の人はたいがいの場合、世捨て人または追放された者として存在した。
 だが、流動的で個人主義的な現代社会がこういった昔ながらの結合の幾分かを切り捨てた結果、人々は特に経済的な取り決めにより他人を背負い込むこと―高齢者や社会的弱者への物質的援助や、貧困や悲惨な状況に対する支援、すなわち”兄弟姉妹”の扶養―に二の足を踏むようになった。
 他人の扶養に反対する議論は、しばしば人間の本性についての議論に姿を変える。人間は本来、利己的な生き物だ。人は私の面倒を見てくれはくれないだろうから、私も人の面倒は見ない。食糧不足に備えて食料の備蓄が必要だから、人に与える食糧はない。それは、私自身も他人など当てにできないからだ。一方で、できれば誰かの財産を頂戴して、私腹を肥やしたいと思う。・・・・
 こうなると人々の日常生活は社会的に大きな危険を抱え込むことになる。ときに本物の災害がこの状況を一層悪化させる。しかし、反対に災害がこういった状況を一時的に棚上げにし、私たち自身の中にある別の世界を垣間見させてくれる場合もある。
 平常時の社会的構図や分裂がことごとく崩壊すると、全員とはいわないが、大多数の人々が兄弟の番人になろうとする。すると、その目的意識や連帯感が、死やカオス、恐怖、喪失の中にあってさえ、一種の喜びをもたらすのだ。
 もし私たちがそのことを知っていて、それを信じていれば、どんな場面においても、自分たちの可能性に対する自覚は変わるかもしれない。どんな信念であれ、それに基づいた行動は、世界をイメージ通りに変えられる。繰り返すが、何を信じるかが問題だ。

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