2016年10月2日、13時より19時頃まで研究会を開催しました。第1部で上映した映画ECONOMICA COL・LECTIVA(THE LAST REVOLUTION IN EUROPE)は貴重な証言から構成されるスペイン革命期に生まれ、消えていった労働者自主管理についての記録でした。歴史から消し去られてしまったアナーキストたちによる労働者自主管理は、一部ではうまくいかなかったが、一部では成功していたこと、その背景には、何十年にもわたるアナーキストたちのプロパガンダ活動があったこと、それにより、精神面で「準備」ができていた、ということがわかりました。第2部では、櫻田さんによるCIRA所蔵日本語文献・資料に関する報告、同じく森さんによるCIRAに関する報告、及びご自身の研究や様々な活動についての報告がありました。参加者は9名でしたが、充実した交流の場となりました。
Report on the Meeting of October 2, 2016: 9 people are attend. We have learned from the film "ECONOMICA COL・LECTIVA", that there some is the "history forgotten". From 1936 to 1936, some self-managements in the factories in Barcelona by anarchists were really successful; the important factor was the "preparation" for some decades, i.e. activities of propaganda by anarchists. In the second part of our meeting, K. Sakrada and G. Mori reported on the Japanese and European books and materials of CIRA; Mori reported also on his studies of anarchism and his anarchistic activities in Kyusyu. There were many discussion and exchange.
2016年10月3日月曜日
2016年9月8日木曜日
Meeting on Sunday of October 2, 13 pm to 19 pm at Osaka 大阪での研究会のお知らせ
以下の要領で、研究会が開催されます。関西アナーキズム研究会との共催です。
ふるってご参加ください。
日時:2016年10月2日(日)13時~19時
場所:大阪教育大学天王寺キャンパス西館2F 第8講義室
第1部 映画上映 ECONOMICA COL・LECTIVA(THE LAST REVOLUTION IN EUROPE) 「エコノミカ・コレクティヴァ=共有の経済 ヨーロッパ最後の革命」(日本語字幕あり 上映時間 約1時間)参考:経済から世界を変える 予告編(スペイン語)
第2部 研究会 全体テーマ 「スイス・ローザンヌCIRA(
個別報告1) 櫻田和也「CIRA所蔵の日本のアナーキズム関連資料について」
個別報告2) 森元斉「日本のアナーキズムの世界における位置づけについて」
主催:科研費研究会「世界に向けた情報発信とその影響に関する分析を基盤にした日本アナーキズム史の再構築」
共催:関西アナーキズム研究会、オペライズモ研究会
連絡先(大学ではなくこちらにご連絡を):joh.most@gmail.com
Our Meeting will be held as follows:
Time & Place: October 2, 2016, at Nishikan (West Building), 2nd Floor, 8th Lecture Room of Tennoji Campus, Osaka Kyoiku University:
http://osaka-kyoiku.ac.jp/_file/campusmap/tennoji.pdf
Part 1: Film Screening of "ECONOMICA COLLECTIVA: THE LAST REVOLUTION in EUROPE" (Spanish with Japanese Subtitle) about 60 min.
Part 2:
Theme of Reports: "Visiting CIRA (Centre International de Recherches sur l'Anarchisme) : Books & Materials of Japanese Anarchism Collected by CIRA and Japanese Anarchism"
1st Report: Kazuya Sakurada "Books & Materials of Japanese Anarchism Collected by CIRA"
2nd Report: Motonari Mori "Japanese Anarchism in the Context of Anarchism of the World"
Contact: joh.most@gmail.com Please ask anything on this meeting, and don't ask to University Staffs
2016年8月11日木曜日
2016年8月7日日曜日
国際アナーキスト連合第10回大会に集った諸連合から、8・6広島集会に集った友人と同志たちに対する連帯の挨拶(Salutations to Hiroshima Gathering from IFA Congress)
わたしたちは、原子力産業とそれに付随する全てに反対する。
わたしたちは、国家による植民地主義、そして戦争に反対する:
2016年8月4日から7日までの間、ドイツのフランクフルトで開催された国際アナーキスト連合(IFA)第10回大会に参集した同連合を形成するさまざまな連合は、広島のアナーキスト集会を組織した人びとに対して連帯の挨拶を送ります。
広島集会は、広島に原爆が投下された1945年8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日という日にあわせて開催されています。広島集会は、戦争と原子力という、人類に対する二つの脅威をわたしたちに想起させます。
原子力は、まずもって、自然環境の汚染を引き起こします。そして、多様な紛争の原因となっています。日本に住む人びとのあいだでは、とりわけ、近年の福島での原発事故により、原子力の潜在的な危険性がよく知られるようになりました。
原子力産業は戦争に関わる諸産業全体において、基幹的な部門です。
グローバルなテロリストによる脅威が偏在し、戦争が繰り返される今日、軍産複合体に対す私たちの立場を今一度確認することはきわめて重要です。
諸国家が推進する残忍な帝国主義諸政策は、普通の人びとの生命を脅かすものです。そして、彼ら普通の人びとこそが、戦争による最初の犠牲者になります。彼らは戦争によって直接の被害を受け、その多くは、生活の場を奪われて他国に移住をせざるをえなくなります。
帝国主義諸国家は、武器の販売を通じて様々な紛争から利益を得ています。それどころか、アフリカや中東といった諸地域で資源を獲得するために軍事介入を実行するなど、世界各地で戦争を引き起こしています。このような状況をわたしたちは決して認めることはできません。
軍国主義とこれに関連する諸産業、さらには原子力とそれに付随する全てに反対する行動を立ち上げ、推進し、強めていくことは、私たち自身の責務です。
私たちは革命的アナーキストの挨拶を、国際的な連帯の精神をこめて、広島に集った友人と同志に送ります。相互扶助と連帯による、戦争のない未来社会を目指して、ともに闘いましょう。
Against the nuclear power industry and everything that it entails.
Against state imperialism and against war.
The federations making up the International of Anarchist Federations (IFA) and the organisations present in the 10th congress of the IFA, in Frankfurt (Germany) on the 4th-7th of August 2016, salute the initiative of the Anarchist Gathering at Hiroshima (Japan).
This event marks the anniversary of the nuclear bomb attack in Hiroshima on August 6th, 1945, and in Nagasaki on August 9th. It helps us remember the double threat that lingers on to affect human populations: war and nuclear power.
Nuclear power is dangerous. It contaminates natural resources, and is the cause of all kinds of conflicts. Japan’s population is particularly knowledgeable about its potential risks, due to the recent nuclear disaster in Fukushima.
Nuclear power is an integral part of the war industry.
During these times of global terrorist threats and continuous war, it is important to reaffirm our position against the military industrial complex.
The murderous and imperialist policies of states are to the detriment of populations who are the first victims of war. They suffer directly in these conflicts, and are often forced to migrate.
Imperialist countries take advantage of these conflicts by selling arms and waging war in different parts of the world, such as the military interventions in Africa, the Middle East and elsewhere for resources. This situation cannot be tolerated.
It is up to us to initiate, pursue and intensify actions against militarism and its related industries, but also against nuclear power that entails. In the spirit of international solidarity, we send revolutionary anarchist greetings to our friends and comrades gathered in Hiroshima. We look forward to working together to fight for a future society of mutual aid and solidarity, without war.
わたしたちは、国家による植民地主義、そして戦争に反対する:
2016年8月4日から7日までの間、ドイツのフランクフルトで開催された国際アナーキスト連合(IFA)第10回大会に参集した同連合を形成するさまざまな連合は、広島のアナーキスト集会を組織した人びとに対して連帯の挨拶を送ります。
広島集会は、広島に原爆が投下された1945年8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日という日にあわせて開催されています。広島集会は、戦争と原子力という、人類に対する二つの脅威をわたしたちに想起させます。
原子力は、まずもって、自然環境の汚染を引き起こします。そして、多様な紛争の原因となっています。日本に住む人びとのあいだでは、とりわけ、近年の福島での原発事故により、原子力の潜在的な危険性がよく知られるようになりました。
原子力産業は戦争に関わる諸産業全体において、基幹的な部門です。
グローバルなテロリストによる脅威が偏在し、戦争が繰り返される今日、軍産複合体に対す私たちの立場を今一度確認することはきわめて重要です。
諸国家が推進する残忍な帝国主義諸政策は、普通の人びとの生命を脅かすものです。そして、彼ら普通の人びとこそが、戦争による最初の犠牲者になります。彼らは戦争によって直接の被害を受け、その多くは、生活の場を奪われて他国に移住をせざるをえなくなります。
帝国主義諸国家は、武器の販売を通じて様々な紛争から利益を得ています。それどころか、アフリカや中東といった諸地域で資源を獲得するために軍事介入を実行するなど、世界各地で戦争を引き起こしています。このような状況をわたしたちは決して認めることはできません。
軍国主義とこれに関連する諸産業、さらには原子力とそれに付随する全てに反対する行動を立ち上げ、推進し、強めていくことは、私たち自身の責務です。
私たちは革命的アナーキストの挨拶を、国際的な連帯の精神をこめて、広島に集った友人と同志に送ります。相互扶助と連帯による、戦争のない未来社会を目指して、ともに闘いましょう。
Against the nuclear power industry and everything that it entails.
Against state imperialism and against war.
The federations making up the International of Anarchist Federations (IFA) and the organisations present in the 10th congress of the IFA, in Frankfurt (Germany) on the 4th-7th of August 2016, salute the initiative of the Anarchist Gathering at Hiroshima (Japan).
This event marks the anniversary of the nuclear bomb attack in Hiroshima on August 6th, 1945, and in Nagasaki on August 9th. It helps us remember the double threat that lingers on to affect human populations: war and nuclear power.
Nuclear power is dangerous. It contaminates natural resources, and is the cause of all kinds of conflicts. Japan’s population is particularly knowledgeable about its potential risks, due to the recent nuclear disaster in Fukushima.
Nuclear power is an integral part of the war industry.
During these times of global terrorist threats and continuous war, it is important to reaffirm our position against the military industrial complex.
The murderous and imperialist policies of states are to the detriment of populations who are the first victims of war. They suffer directly in these conflicts, and are often forced to migrate.
Imperialist countries take advantage of these conflicts by selling arms and waging war in different parts of the world, such as the military interventions in Africa, the Middle East and elsewhere for resources. This situation cannot be tolerated.
It is up to us to initiate, pursue and intensify actions against militarism and its related industries, but also against nuclear power that entails. In the spirit of international solidarity, we send revolutionary anarchist greetings to our friends and comrades gathered in Hiroshima. We look forward to working together to fight for a future society of mutual aid and solidarity, without war.
2016年7月26日火曜日
2015年8・6集会レポート Report on August 6 Gathering in Hiroshima
原爆ドーム前(相生橋)8:40頃 |
事前の告知では、9時に原爆ドーム前(相生橋の橋のたもと)に集合となっていたが、それよりも前に徐々に参加者が集まり始める。
一部は、平和祈念式典が始まる8時15分頃から、「平和祈念式典反対!」、「戦争屋アベは広島から出て行け!」と式典会場に向けて叫ぶ。
9時前には20名近くが集合。
9時30分、相生橋よりデモスタート。ルートは、紙屋町方面⇒交差点を右折・本通りを平和通り方面に南下⇒白神社(終点)。全行程は15分ほど。
当日のシュプレヒコールより:
「アベは帰れ!」「アベは嘘つきだ!」
「アベは黙れ!」「アベはしゃべるな!」
「嘘つきは帰れ!」「戦争屋は帰れ!」
「広島の戦争責任を忘れないぞ!」「加害の歴史を忘れないぞ!」
「軍都広島を忘れないぞ!」 「広島は平和都市じゃないぞ!」「戦争反対!」
「ファシストに未来を渡さないぞ!」 「ファシズムに未来はないぞ!」
「政教分離を勝ち取るぞ!」、「宗教と政治を結びつけるな!」
「死んだ子の年を思い出せ!」 「死んだ子の年を数えてみろ!」
「国家による追悼反対!」
黒旗と強烈なメッセージで街頭から注目を浴びる。 |
「一切の原発をなくそう!」
「東電は補償を行え!」
「中電は上関原発をやめろ!」
「原発はいらないぞ!」
「国民国家解体!」
「天皇制解体!」
「天皇の戦争責任を追及するぞ!」
「広島の歴史を忘れないぞ!」「広島の加害の歴史を忘れないぞ!」
「広島は軍都だ! 平和都市じゃないぞ」
「死者を束ねるな!」 「ひとりひとりの名前を思い出せ!」
「核労働者はストライキに立ち上がれ!」
「タクシー運転手はストライキに立ち上がれ!」
「ホテル従業員はストライキに立ち上がれ!」
「予備校職員はストライキにたちあがれ!」 「反戦ストに立ち上がれ!」
交流会と休憩 |
解散地となった神社前では各地からの参加者がぞれぞれの挨拶。神戸の仲間からは亡くなった東北の仲間から受け継いできた黒旗を掲げてのアピール。
広島散策:平和大通り緑地前(拡幅排除の記憶)
無名戦士の碑 |
⇒平和記念資料館を通り越して、無名労働運動戦士の碑「解放運動 無名戦士の墓」:
農村青年者事件の和佐田さんなども関わって建立されたとのこと(小網町交差点北西)
⇒韓国人原爆犠牲者慰霊碑跡地(本川橋西詰め・かつて8・6デモ出発地点)
⇒中曽根康弘の句碑(元安川沿い緑地帯)
碑には黒鳩の折り紙や句碑の設置を批判した短冊がかかっている
「地中よりあまたの拳突きあげよ見せかけの句碑倒さんががため」等の句あり。
13:00~17:00 広島市内で報告会
1)「開会の挨拶と8・6集会の歴史」:文献センター通信31号に掲載の「8・6をめぐる覚書」をよみながら、30年前の1985年から始まる8・6集会の歴史について報告する。そのあと若干の質疑。
2) ブラジルから参加したアナーキストによる「ブラジルにおけるアナーキズムと20世紀におけるファシズムに対する闘い」。英語による口頭報告。事前に報告原稿の日本語訳を参加者に配布。13:40-14:00 英語の通訳を介した質疑。
3)「アナキズム文献センターの歩みと現在」:1970年設立。現在は第三次。「文献の収集・整理」と「情報発信」が主な活動。所蔵文献として山鹿泰治文庫やアナキストクラブの蔵書、85年の広島集会ポスターなど多数のポスター・ビラなどを紹介。2007年以来、毎年発刊しているカレンダーをはじめ、イベントや発刊物を紹介。
4)「大阪の野宿者支援について」。「チェコとクルドのアナーキストとの関係と彼らからのメッセージの日本での発信について」
5)「ドイツのアナーキスト・グループからのメッセージ」
6)「フィリピンのコレクティヴ Organic Mind について」
7)フィリピンのBas Umaliからのメッセージ+フィリピンのアナーキズムについて
8)閉会の辞 会場撤収
以上の全てのスケジュールを無事に終え、会場撤収作業の後、広島駅で懇親会を開催後、解散。
2016年7月21日木曜日
アナーキストになる時 "The Anarchist Moment" by Andrej Grubacic
アンドレイ・グルバチッチ「アナーキストになる時」(抄訳:Abridged Translation of "The Anarchist Moment" by Andrej Grubačić, in The Anarchist Turn, Jacob Blumenfeld, Chiara Bottici and Simon Critchley eds., Pluto Press, 2013, pp.187-201)
アナーキズムとはなんだろうか。この問いに対して、ここでは一つのエピソードを語る中で回答を出したい。
私は13歳の時にアナーキストになった。これは私のふたりの祖母のせいである。
一人は私が理想主義者になってしまうのではないかと心配し、恐れていた。そこで彼女がとった戦略は、私に本を与えることだった。
そのなかでもフォイエルバッハの本は「向こう岸」に行ってしまわないために与えられたものだった。ずいぶんと分厚い本で、なかみについてほとんどわからなかった。
私は、生涯にわたって共産主義的な革命家であるこの祖母に対して、次のように問いかけたのを覚えている。「どう? まだ共産主義を信じているの?」
この会話は、当時、崩壊を始めた国家社会主義ユーゴスラヴィアでなされたものである。彼女は即座に答えた。今でも思い出す。
「ああ、死ぬまで共産主義者だね。でも私たちの世代は間違った方法を選んでしまった。あなたの世代のには、共産主義に向かう別の道を見つける責任があると思う」。
もう一人の祖母は、彼女も共産主義的革命家だったのだが、アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・ゲルツェンの『過去と思索』という本をくれた。
ゲルツェンはやがて私にとっての英雄の一人になる。
この本の中で、私はミハイル・バクーニンにまつわるエピソードに出くわすことになった。ロシアのアナーキストでシベリアで監禁されていた人物である。彼は何とか逃げ出して凍り付いたヴォルガ川を渡り、アメリカを経由してロンドンまで旅を続けた。
ゲルツェンは彼を待っていた。バクーニンがゲルツェンに再会して最初に言ったのは「ここに牡蠣はあるのか、それともシベリアに戻らんといかんのか」だった。これでバクーニンに心底惚れてしまった。彼以外にもロマンティックな亡命者が19世紀にいたが、彼らのことも大好きになった。
ゲルツェンとバクーニンにであってからまもなく、私はベオグラード・リバタリアングループに加わった。これは、社会主義ユーゴスラヴィアにおいてマルクス主義の実践を試みることを目的とした左派の集まりだった。
そこで私は、同志からアナーキズムを学んだが、それは、真剣に民主主義について語り合い、組織のありかたを理想的な状態にするということだった。
つまり、革命のあとではなく、今ある社会の秩序という殻の中で、未来の事実を今ここで作り出すことであった。
これは社会主義の伝統だったとはいえ、様々な倫理にもとづく実践でもあった。すなわち、手段というものは目的と合致する必要がある、私たちは自分たちが作りたいという社会を今作る必要がある、権威主義的な手段で自由を作ることはできない、という倫理観に構成された実践だったのである。
[中略]
[中略]
人がアナーキストになる動機が生じたのは、パン・バルカン主義者、パン・アフリカ主義者、パン・アジア主義者等々といった、ナショナリスト、パン・ナショナリストによる運動、地域主義運動による反帝国主義と反植民地主義の闘争においてであった。
アナーキズムはこれら全ての運動を結びつけていた。
エルリコ・マラテスタは、周知のように、1882年にエジプトで、イギリスの支配に対して闘った。
ステプニアクは、私にとっての英雄の一人であるが、彼は1878年にボスニアで闘った。それ以前、マラテスタはイタリアで運動に加わった当初、村落を解放し、自治的な領域を作ろうとした。その頃ステプニアクはロシアに戻り警視総監を暗殺した。その後ロンドンに渡ったステプニアクは、鉄道事故で死亡した。
アナーキズムと反植民地主義との関係に話を戻そう。
当時最も影響があったアナーキストの新聞でジャン・グラーヴが編集していた『反逆』紙がある。これをじっくり読んでみると、大部分がフランス人であるアナーキストの船乗りたちによる一グループの経験談を綴った手紙が1907年に同紙上に掲載されていることに気がつくはずだ。
手紙の中で彼らは次のように述べている。フランス人がアルジェリアの人びとを抑圧しているのに自分たちが最も優れた文明を担っていると考えることなどできない、と。ズリというアナーキストは、当時チュニジアに住んでいたが、これに同意して次のように述べている。ヨーロッパの植民地における悲惨な現実ほどむかつくものはない、と。
以上のような、人がアナーキズム的に思考する瞬間は、大量の移民が生まれた時代に生まれた。アナーキズム運動は移動する人びとの運動であった。
その結果、アナーキストとアナーキズム思想は至る所に見いだされたのである。
リバータリアンの活動家たちは膨大な情報のネットワークを作りだした。複数の大陸に購読者がいたのは『反逆』だけではない。アナーキストたちの定期刊行物はベオグラード、ベイルート、カイロ、アレクサンドリア、ブエノスアイレス、パリ、さらにニュージャージー州パターソンでも発行されてた。当時はいまとはくらべものにならないほど、パターソンというところはエキサイティングな場所だった。
マラテスタは、フランシスコ・フェレルやエリゼ・ルクリュとともに当時最も人気のあった人物であり、彼の書いたパンフレットは、キューバの葉巻製造労働者たちが声を出して読み上げ、オスマントルコで翻訳され、ブラジルでは議論の素材となっていたのである。
当時のセルビアにおけるラディカルな社会主義者に話を戻そう。
1871年6月1日、スヴェトザール・マルコヴィチはバルカン初の社会主義新聞を刊行した。「労働者Radenik」というタイトルは、ラディカルな社会主義者たちにとって国際主義者としての最も重要な大義に基づいて選ばれたものである。
それは同時に、彼らが拒絶していた大セルビア主義への敵対心とパリコミューンへの支持をも含意していた。とくにパリコミューンはマルコヴィチに多大なる影響を与えたため、新聞では常に取り上げられ、それと同時にアナーキストとマルクス主義者による文章の翻訳がいつも掲載されていた。
この新聞が人びとによって広く読まれたということはきわめて注目に値する。当時、市内で発行される新聞の平均的な発行部数が500部だったが、『労働者』の発行部数は1500部であり、これは当時としてはあり得ない数字であった。
教会と国家はすぐさまその弾圧にのりだした。新聞およびそれを購読する学生組合は全て非合法である、という布告が政府から出された。
こういった学生組合があった学校では、学生たちは「コミューン」と呼ばれる読書と討論の非合法の秘密組織を立ち上げた。これらの組織による集会は、人目を避けてベオグラード郊外で夜に密かに開かれた。これら秘密組織は、学問と手工業、そしてアナーキストのプロパガンダを学生たちが学ぶ中心となった。
ここまでみてきて、こう問いたくなるのは当然だ。
「アナーキズムがこれほどまでにグローバルになった原因はなんだろうか。これほどまでに多様な運動の手段として、あれほど多くの言語に翻訳されたのはどうしてだろうか?」と。
わたしは、デイヴィッド・ウィエックによる次の見解に同意する。
「ポストモダニズムという言葉が使われるようになるずっと前から、アナーキズムはずっと反イデオロギーの思想だった。アナーキストたちはずっと、理論なんかよりも、生活と行動のほうが大事だと主張してきたのである。理論に従うということは、実践のなかでも権力に付き従うということを意味している。それは、理論を権威主義的に理解するからである。こういう従属は、中央集権的な政治権力が存在しない社会を作り出そうという気持ちを堀くずすことになる。アナーキストの書くことが権威主義的ではなく決定論でもない理由がここにある。ここでいう権威主義的とか決定論というのは、マルクスの信奉者たちがマルクスの書いたものに対して示してきた態度という意味で言っている」(Wieck, 1996, p.377)。
アナーキズムというはイデオロギーではなく一つの伝統なのである。
きわめて膨大な反権威主義的な思考の中からそれぞれが選び出すことを許容する、そういうきわめてフレクシブルな伝統なのである。
アナーキズムに見られるもう一つの明確な特質は、そのプロパガンダに見られる。
革命的変革の主体として都市の工業労働者階級だけに焦点を当てるのではなく、農民、知識人、移民、非熟練労働者、職人、芸術家といった多様な人びとに対して、アナーキストのプロパガンダは向けられていた。
これによって、本当の意味での民衆的な運動が生まれたのである。
マラテスタとそれ以外の名もないアナーキストたち、イタリアやスペインで活動していたアナーキストたちは、農民反乱、農民による土地の占拠、土地証文の破棄という運動に加わっていた。
クリ・マディスによれば、アナーキストのプロパガンダは、きわめて有能な人びとによって担われ、その内容は洗練されていた。
大衆メディア、当時としては新しい公共空間である図書館、読書室、飲み屋、そして劇場をも彼らは活用した。
劇場では、フランシスコ・フェレルをふくめた様々なアナーキストの殉死者の「迫害劇」が演じられた。
フェレルは1909年にスペイン政府によって処刑されるが、その処刑を演じた劇は同じ1909年にはベイルートで演じられ、同じ舞台が、ブエノスアイレスとパリでも演じられたのである。
つまり、19世紀と20世紀初頭のグローバルな大衆的でラディカルな文化の歴史において、いわゆるフェレル事件はきわめて重要なエピソードの一つなのである。
アナーキストにとってこれ以外に重要なプロパガンダの場となったのは、いわゆる相互扶助組織である。
これは移民にとっては最もよく知られた組織であり、南米から東アジアにいたるあらゆる場所にあったものである。
実際には、これらの組織は政治的なものではなく困窮した労働者の支援や農業労働組合の設立を支援するための相互扶助支援のための積み立て基金のようなものであった。
しかしアナーキストたちはこういった運動の空間をラディカルにしていった。だから、ピョートル・クロポトキンが書いた『相互扶助論』がグローバル・サウスの諸地域で最も人気のある文献の一つとなったのである。
現代のアナーキズム運動は、このエピソードを学ぶことを通じて、移民団体や労働組合など地域の様々な運動との関係が重要だと認識するだろう。
また、アナーキストのプロパガンダは、政治的なテクストだけでおこなわれたわけではない。
アナーキストは、文学の魔力、そして、文学が人びとを解放する力を信じていたからである。
そもそも、19世紀末から20世紀前半のアナーキストが活発に活動した時代、クラブや飲み屋では、労働者はモリエールやデュマ、アナトール・フランスを読んでいた。
だから、ロンドンのイーストエンドでは、イディッシュ語を話す人びとに向けたアナーキストの新聞が刊行されていたが、新聞紙上では、重要な文学のイディッシュ語訳が掲載されていたのである。
ユーゴスラヴィアのマケドニアにおいては、人びとは無料の読書室や図書館に集まり、ベートーヴェンの第九について議論をしていた。
スペインではアナーキストが非公式の教育機関を作っていた。そこで労働者は、わかりやすく簡単な言葉で書かれた『白色評論』の記事を、しばしば声を出して読んだ。スペインでは人口の大半がいまだ文字が読めなかったので、こういう定期刊行物は多かったのである。
ここにも、現代のアナーキズムにとって学ぶべき教訓がある。とくに高等教育を受けた人びとによって洗練された議論が行われているばあい、自分たちのやっていくことを効果的にしたければ、言葉は単純で理解しやすく、なおかつ美しくしなければならない、ということだ。
キューバでは、劇場が、とりわけ女性の教育のために利用されていた。こういった「非公式」の教育システムのほかに、アナーキストはより「公式」の教育システムを構築したこともある。たとえば教育のためのリバタリアン同盟のような国際的な教育ネットワーク組織である。
フランシスコ・フェレルの近代学校は最も重要な教育機関であった。1898年には、これにならって、パリではアナーキストが民衆大学のネットワークを設立したが、同様の組織はベイルート、アレクサンドリアでも設立されている。(翻訳未完了)
アナーキズムとはなんだろうか。この問いに対して、ここでは一つのエピソードを語る中で回答を出したい。
私は13歳の時にアナーキストになった。これは私のふたりの祖母のせいである。
一人は私が理想主義者になってしまうのではないかと心配し、恐れていた。そこで彼女がとった戦略は、私に本を与えることだった。
そのなかでもフォイエルバッハの本は「向こう岸」に行ってしまわないために与えられたものだった。ずいぶんと分厚い本で、なかみについてほとんどわからなかった。
私は、生涯にわたって共産主義的な革命家であるこの祖母に対して、次のように問いかけたのを覚えている。「どう? まだ共産主義を信じているの?」
この会話は、当時、崩壊を始めた国家社会主義ユーゴスラヴィアでなされたものである。彼女は即座に答えた。今でも思い出す。
「ああ、死ぬまで共産主義者だね。でも私たちの世代は間違った方法を選んでしまった。あなたの世代のには、共産主義に向かう別の道を見つける責任があると思う」。
もう一人の祖母は、彼女も共産主義的革命家だったのだが、アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・ゲルツェンの『過去と思索』という本をくれた。
ゲルツェンはやがて私にとっての英雄の一人になる。
この本の中で、私はミハイル・バクーニンにまつわるエピソードに出くわすことになった。ロシアのアナーキストでシベリアで監禁されていた人物である。彼は何とか逃げ出して凍り付いたヴォルガ川を渡り、アメリカを経由してロンドンまで旅を続けた。
ゲルツェンは彼を待っていた。バクーニンがゲルツェンに再会して最初に言ったのは「ここに牡蠣はあるのか、それともシベリアに戻らんといかんのか」だった。これでバクーニンに心底惚れてしまった。彼以外にもロマンティックな亡命者が19世紀にいたが、彼らのことも大好きになった。
ゲルツェンとバクーニンにであってからまもなく、私はベオグラード・リバタリアングループに加わった。これは、社会主義ユーゴスラヴィアにおいてマルクス主義の実践を試みることを目的とした左派の集まりだった。
そこで私は、同志からアナーキズムを学んだが、それは、真剣に民主主義について語り合い、組織のありかたを理想的な状態にするということだった。
つまり、革命のあとではなく、今ある社会の秩序という殻の中で、未来の事実を今ここで作り出すことであった。
これは社会主義の伝統だったとはいえ、様々な倫理にもとづく実践でもあった。すなわち、手段というものは目的と合致する必要がある、私たちは自分たちが作りたいという社会を今作る必要がある、権威主義的な手段で自由を作ることはできない、という倫理観に構成された実践だったのである。
[中略]
ドイツからやってきたマルクス主義の革命家との関係がロマンティックになってから、私とマルクス主義との関係は、次第にロマンティックになっていった。
彼女はまじめな女性だったが、彼女とつきあうとすぐに、そうか、アナーキズムに関するきちんとした知識が欠如しているのはユーゴスラヴィアの社会主義者だけではないんだな、ということがすぐにわかった。
このガールフレンドは、政治理論家であったが、グスタフ・ランダウアーやマルティン/ブーバー、エーリヒ・ミューザームやルドルフ・ロッカーなんて名前は聞いたことがないという人物だった。
彼女にとってアナーキズムというものは、バクーニンとセックス・ピストルズとドイツのアウトノーメ運動とが若気の至りでむすびついてしまったようなものでしかなかった。
そういうことを彼女から聞いて、私はあっけにとられた。
あるとき、当時彼女が勤めていたフランクフルトの批判的調査機構で、彼女を待っていたときがあった。机の上に誰かがおいていったユルゲン・ハーバーマスのインタビュー記事があったのでそれを読んでいた。
このインタビューは、コミュニケーションの新しい普遍的なモデルとしてのディスクール合理性の理論に関するものだった。このインタビューの中で彼は、彼の理論と思想が、第三世界の社会主義に役に立つのかどうか、また、第三世界の闘争は彼の理論と先進資本主義国に対する批判にとって意味があるのか、という点で尋ねられていた。
ハーバーマスは、これは良く覚えているのだが、この二つの質問に対してこう答えていた。「これはヨーロッパ中心主義的な狭い見方だということは自覚しているつもりです」と。
これはとても興味深くまた驚きであった。世界の人口の5分の4を排除した、普遍的なコミュニケーション理論があるということだからだ。
そのとき考えていたことを思い出すと、もしこれが普遍主義なら、それは単なる帝国主義の一変種なんだ、と思った。
それで、このあと(ここで白状しなければいけないわけだが、私たちはそこで家具を盗んでいたのである)わたしは、初めて次のように考えるようになったと思う。つまり、アナーキズムとマルクス主義の伝統の決定的な違いは、前者は南の構想であり、後者はヨーロッパの近代性の構想なのである、と。
ボアベントゥラ・デ・ソーサ・サントスは2004年の論文で、南というのは以下の3点を特徴とする場であると述べている。第一に、南とは帝国主義的な構築物の現実的かつシンボリックな場所である。第2に、南とは資本主義の近代性が引き起こしたものに対して人間が苦難を強いられている場所である。そして三番目に、南とは、解放のためのエネルギーと主体性を再創造するために、隠された近代性を発掘する場である。
私はこの仮説を考えながらバルカン半島に戻った。そこからバルカンの歴史を、これまでとは異なる観点から、すなわち、隠された歴史的な経験、あるいは、資本主義的近代性の周辺という観点から学び始めた。
この検討の過程で、バルカン地域について異なる歴史が浮かび上がってきた。すなわち、ラディカリズムの歴史である。バルカン半島は、様々な地域のグループがアナーキズム的思想と地域ごとの実践を混ざあわせる世界を作り上げていたのである。たとえばセルビアの社会主義者スヴェトザール・マルコビッチについてみてみよう。19世紀に生きていたマルコヴィッチによれば地域の状況が、労働者階級によって建設される新しい社会の性格を決定するのである。パンの問題は、直接民主主義の問題である、と彼は書いている。マルコヴィッチの折衷主義的で倫理的な社会主義を彼は、新しい経済システムとしてではなく、新しい生き方として定義している。この社会主義は、ヴィア・カンペシーナという、現代の農民運動によって提案されている構想と極めて類似しているのである。マルクス主義とアナーキズムとの対話の中でマルコヴィッチは、息がつまるような歴史の法則性によってではなく、共同体の制度と人間の本能に基づくバルカン的な社会主義を提起するに至った。彼は、東西の問題を念頭に置いて、社会主義運動は反植民地主義的であるだけでなく、バルカンの過去を念頭に置いて革命的でなければならないと主張した。このバルカン的な社会主義は、倫理的で、幻想的で、折衷主義的でヒューマンであったが、「ユートピア社会主義者」として軽蔑したのちの国家社会主義者たちにとって、このような彼の構想は受け入れられるものではなかった。1874年に、マルコヴィッチは次のように書いている。自分が構想する社会主義の目的は、主権に基礎を置いた国内における社会の再組織化であり、バルカン半島における共同体の自治と連合である、と。この彼の連合構想がバルカンの歴史上最も重要な貢献をもたらすものである。すなわち、直接民主主義的連合主義のために、分裂したバルカンの人々のナショナリズムを緩和させて統合する、という点においてである。この反権威主義的な折衷主義、革命的伝統は地域をグローバルに結びつけ、サバルタンを近代、そして、バルカンの重要な特質に結びつける力を持っている。
西側およびユーゴスラヴィアの歴史家たちは、このようなマルコヴィッチの折衷主義は「理論的な混乱に導いた」とほぼ同じような評価を下している。しかし私は、彼のバルカン的社会主義は理論的な決定論から離脱させマルクス主義の暴力的な抽象主義からも離脱させたのだと主張したい。マルコヴィッチは、マルクスが工業化された西ヨーロッパの経済的、社会的発展に対する最も有効な批判を行ったと考えていたが、しかし同時に彼は、チェルヌイシェフスキーとバクーニンも評価していたのである。
[中略]
人がアナーキストになる動機が生じたのは、パン・バルカン主義者、パン・アフリカ主義者、パン・アジア主義者等々といった、ナショナリスト、パン・ナショナリストによる運動、地域主義運動による反帝国主義と反植民地主義の闘争においてであった。
アナーキズムはこれら全ての運動を結びつけていた。
エルリコ・マラテスタは、周知のように、1882年にエジプトで、イギリスの支配に対して闘った。
ステプニアクは、私にとっての英雄の一人であるが、彼は1878年にボスニアで闘った。それ以前、マラテスタはイタリアで運動に加わった当初、村落を解放し、自治的な領域を作ろうとした。その頃ステプニアクはロシアに戻り警視総監を暗殺した。その後ロンドンに渡ったステプニアクは、鉄道事故で死亡した。
アナーキズムと反植民地主義との関係に話を戻そう。
当時最も影響があったアナーキストの新聞でジャン・グラーヴが編集していた『反逆』紙がある。これをじっくり読んでみると、大部分がフランス人であるアナーキストの船乗りたちによる一グループの経験談を綴った手紙が1907年に同紙上に掲載されていることに気がつくはずだ。
手紙の中で彼らは次のように述べている。フランス人がアルジェリアの人びとを抑圧しているのに自分たちが最も優れた文明を担っていると考えることなどできない、と。ズリというアナーキストは、当時チュニジアに住んでいたが、これに同意して次のように述べている。ヨーロッパの植民地における悲惨な現実ほどむかつくものはない、と。
以上のような、人がアナーキズム的に思考する瞬間は、大量の移民が生まれた時代に生まれた。アナーキズム運動は移動する人びとの運動であった。
その結果、アナーキストとアナーキズム思想は至る所に見いだされたのである。
リバータリアンの活動家たちは膨大な情報のネットワークを作りだした。複数の大陸に購読者がいたのは『反逆』だけではない。アナーキストたちの定期刊行物はベオグラード、ベイルート、カイロ、アレクサンドリア、ブエノスアイレス、パリ、さらにニュージャージー州パターソンでも発行されてた。当時はいまとはくらべものにならないほど、パターソンというところはエキサイティングな場所だった。
マラテスタは、フランシスコ・フェレルやエリゼ・ルクリュとともに当時最も人気のあった人物であり、彼の書いたパンフレットは、キューバの葉巻製造労働者たちが声を出して読み上げ、オスマントルコで翻訳され、ブラジルでは議論の素材となっていたのである。
当時のセルビアにおけるラディカルな社会主義者に話を戻そう。
1871年6月1日、スヴェトザール・マルコヴィチはバルカン初の社会主義新聞を刊行した。「労働者Radenik」というタイトルは、ラディカルな社会主義者たちにとって国際主義者としての最も重要な大義に基づいて選ばれたものである。
それは同時に、彼らが拒絶していた大セルビア主義への敵対心とパリコミューンへの支持をも含意していた。とくにパリコミューンはマルコヴィチに多大なる影響を与えたため、新聞では常に取り上げられ、それと同時にアナーキストとマルクス主義者による文章の翻訳がいつも掲載されていた。
この新聞が人びとによって広く読まれたということはきわめて注目に値する。当時、市内で発行される新聞の平均的な発行部数が500部だったが、『労働者』の発行部数は1500部であり、これは当時としてはあり得ない数字であった。
教会と国家はすぐさまその弾圧にのりだした。新聞およびそれを購読する学生組合は全て非合法である、という布告が政府から出された。
こういった学生組合があった学校では、学生たちは「コミューン」と呼ばれる読書と討論の非合法の秘密組織を立ち上げた。これらの組織による集会は、人目を避けてベオグラード郊外で夜に密かに開かれた。これら秘密組織は、学問と手工業、そしてアナーキストのプロパガンダを学生たちが学ぶ中心となった。
ここまでみてきて、こう問いたくなるのは当然だ。
「アナーキズムがこれほどまでにグローバルになった原因はなんだろうか。これほどまでに多様な運動の手段として、あれほど多くの言語に翻訳されたのはどうしてだろうか?」と。
わたしは、デイヴィッド・ウィエックによる次の見解に同意する。
「ポストモダニズムという言葉が使われるようになるずっと前から、アナーキズムはずっと反イデオロギーの思想だった。アナーキストたちはずっと、理論なんかよりも、生活と行動のほうが大事だと主張してきたのである。理論に従うということは、実践のなかでも権力に付き従うということを意味している。それは、理論を権威主義的に理解するからである。こういう従属は、中央集権的な政治権力が存在しない社会を作り出そうという気持ちを堀くずすことになる。アナーキストの書くことが権威主義的ではなく決定論でもない理由がここにある。ここでいう権威主義的とか決定論というのは、マルクスの信奉者たちがマルクスの書いたものに対して示してきた態度という意味で言っている」(Wieck, 1996, p.377)。
アナーキズムというはイデオロギーではなく一つの伝統なのである。
きわめて膨大な反権威主義的な思考の中からそれぞれが選び出すことを許容する、そういうきわめてフレクシブルな伝統なのである。
アナーキズムに見られるもう一つの明確な特質は、そのプロパガンダに見られる。
革命的変革の主体として都市の工業労働者階級だけに焦点を当てるのではなく、農民、知識人、移民、非熟練労働者、職人、芸術家といった多様な人びとに対して、アナーキストのプロパガンダは向けられていた。
これによって、本当の意味での民衆的な運動が生まれたのである。
マラテスタとそれ以外の名もないアナーキストたち、イタリアやスペインで活動していたアナーキストたちは、農民反乱、農民による土地の占拠、土地証文の破棄という運動に加わっていた。
クリ・マディスによれば、アナーキストのプロパガンダは、きわめて有能な人びとによって担われ、その内容は洗練されていた。
大衆メディア、当時としては新しい公共空間である図書館、読書室、飲み屋、そして劇場をも彼らは活用した。
劇場では、フランシスコ・フェレルをふくめた様々なアナーキストの殉死者の「迫害劇」が演じられた。
フェレルは1909年にスペイン政府によって処刑されるが、その処刑を演じた劇は同じ1909年にはベイルートで演じられ、同じ舞台が、ブエノスアイレスとパリでも演じられたのである。
つまり、19世紀と20世紀初頭のグローバルな大衆的でラディカルな文化の歴史において、いわゆるフェレル事件はきわめて重要なエピソードの一つなのである。
アナーキストにとってこれ以外に重要なプロパガンダの場となったのは、いわゆる相互扶助組織である。
これは移民にとっては最もよく知られた組織であり、南米から東アジアにいたるあらゆる場所にあったものである。
実際には、これらの組織は政治的なものではなく困窮した労働者の支援や農業労働組合の設立を支援するための相互扶助支援のための積み立て基金のようなものであった。
しかしアナーキストたちはこういった運動の空間をラディカルにしていった。だから、ピョートル・クロポトキンが書いた『相互扶助論』がグローバル・サウスの諸地域で最も人気のある文献の一つとなったのである。
現代のアナーキズム運動は、このエピソードを学ぶことを通じて、移民団体や労働組合など地域の様々な運動との関係が重要だと認識するだろう。
また、アナーキストのプロパガンダは、政治的なテクストだけでおこなわれたわけではない。
アナーキストは、文学の魔力、そして、文学が人びとを解放する力を信じていたからである。
そもそも、19世紀末から20世紀前半のアナーキストが活発に活動した時代、クラブや飲み屋では、労働者はモリエールやデュマ、アナトール・フランスを読んでいた。
だから、ロンドンのイーストエンドでは、イディッシュ語を話す人びとに向けたアナーキストの新聞が刊行されていたが、新聞紙上では、重要な文学のイディッシュ語訳が掲載されていたのである。
ユーゴスラヴィアのマケドニアにおいては、人びとは無料の読書室や図書館に集まり、ベートーヴェンの第九について議論をしていた。
スペインではアナーキストが非公式の教育機関を作っていた。そこで労働者は、わかりやすく簡単な言葉で書かれた『白色評論』の記事を、しばしば声を出して読んだ。スペインでは人口の大半がいまだ文字が読めなかったので、こういう定期刊行物は多かったのである。
ここにも、現代のアナーキズムにとって学ぶべき教訓がある。とくに高等教育を受けた人びとによって洗練された議論が行われているばあい、自分たちのやっていくことを効果的にしたければ、言葉は単純で理解しやすく、なおかつ美しくしなければならない、ということだ。
キューバでは、劇場が、とりわけ女性の教育のために利用されていた。こういった「非公式」の教育システムのほかに、アナーキストはより「公式」の教育システムを構築したこともある。たとえば教育のためのリバタリアン同盟のような国際的な教育ネットワーク組織である。
フランシスコ・フェレルの近代学校は最も重要な教育機関であった。1898年には、これにならって、パリではアナーキストが民衆大学のネットワークを設立したが、同様の組織はベイルート、アレクサンドリアでも設立されている。(翻訳未完了)
2016年7月11日月曜日
8・6集会への誘い
広島無政府主義研究会より、以下の通知がありました。
「昨年は30人近い人数でデモをしましたが、今年は以前通りこじんまりと集会をやることにしました。オバマが広島を訪れるなど、8月6日をめぐる状況も変わってきましたが、残念ながら我々のアメリカによる原爆投下をどう考えるか、記念式典をどう捉えていくのか、という問題について議論は深まっていません。今年の集会が、少しでも前進の端緒になればと考えています。[以下略]」
今年の8・6集会の日時は、8月6日、午後1-4時です。場所については、以下のメールアドレスまでお問い合わせください:joh.most@gmail.com
「昨年は30人近い人数でデモをしましたが、今年は以前通りこじんまりと集会をやることにしました。オバマが広島を訪れるなど、8月6日をめぐる状況も変わってきましたが、残念ながら我々のアメリカによる原爆投下をどう考えるか、記念式典をどう捉えていくのか、という問題について議論は深まっていません。今年の集会が、少しでも前進の端緒になればと考えています。[以下略]」
今年の8・6集会の日時は、8月6日、午後1-4時です。場所については、以下のメールアドレスまでお問い合わせください:joh.most@gmail.com
2016年5月25日水曜日
国家とは人と人との関係のことであり、世代から世代に受け継がれる行動の形態のこと Landauer to Nettlau,1911
グスタフ・ランダウアーからマックス・ネットラウ宛て1911年6月7日付け書簡より
To Max Nettlau, Hermsdorf near Berlin, June 7, 1911, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.309-311.
1890年代にはじめて出会って以来、ランダウアーは著名なアナーキズムの歴史家マックス・ネットラウと定期的に手紙のやりとりをしていた。この書簡は、『社会主義者』の刊行において積極的な役割を果たすことを辞退するネットラウからの回答への返答である(注1)。ランダウアーは自分の社会主義思想を要約し『社会主義への呼びかけ』の刊行を予告している。
親愛なるネットラウ
[中略]
国家とは人と人との関係のことです(これは資本についても同様です)。この関係とは、世代から世代へと引き継がれた(積極的なものも消極的なものも含んだ)行為と忍耐の形態です。エティエンヌ・ドゥ・ラ・ボエシがこのことを簡潔に述べています。
私は国家の権力を握っている人びとと国家に従う人びとを分断することは受け入れません。人間関係は、人間の行動や態度次第で変わります。アナーキーを実現できるかどうかは、自分たちの行動をいつでも変えられる、という信念を人びとが持っているかどうか次第です。 私たち自身を変え、社会状況を変えるためには、私たちが現在手にしている、限られた自由を活用しなければなりません。そのように私たちが行動できるのか、より多くの自由と結合を私たちが作り出すことができるのか。これらはすべて、他ならぬ私たち自身がどうするか次第です。私たちが使える可能性を、私たちがこれまでほとんど活用してこなかったということは、はっきりしていると思われませんか。
私たちは、遊ぶためにおもちゃになるようなものをたくさん持っている子どものようなものです。いま、子どもたちはそういう多くのものを使うことをかたくなに拒否します。どうしてかというと、年上のきょうだいたちが使ってきた古い人形をほしがっているからです。しかし、より注意を払って多くのおもちゃのなかから煉瓦を選んで、それを使って遊ぶようになれば、古い人形に対する関心はなくなっていきます。実際、この場合、人形は、生命なき消極性と無気力によって特徴付けられた亡霊のようなものです。そしてこの消極性と無気力の亡霊は、私たちの祖先にとりつき、今は私たちにとりついているわけです。(私たちは、この亡霊が生活する民衆にとりつくことももちろん知っています。彼ら民衆は自分たちが持ち運ぶ家の中に隠れているカタツムリのような人びとです).
[中略]
私は、あらゆる瞬間に、今まさに、現在追及する任務を見いだすことのできない人びとの消極性に異議を唱えているだけです。どのような派閥に属しているかに関わりなく、自身と、自らが創造しようとしているものとの間に何も関係を作らないアナーキストは永久に何も作り出しません。私はいかに限られていたとしても、チャンスがある限り「ここがロドスだ、ここで飛べ」(注2)という原則に従います。
[後略]
心からのあいさつを送ります
グスタフ・ランダウアー
(注1)ランダウアーは1911年5月19日付けの手紙で協同作業を提案した。この往復書簡はアムステルダムの国際社会史研究所のマックス・ネットラウ文書に保管されている。
(注2)「ここがロドスだ、ここで飛べ」ということわざは、「話したあとで歩け」と対照的な意味合いがある。起源は、ロドス島でのジャンプ競技での成績を誇らしげに語る競技者に対して、その場にいた人物から、そのことを証明するためにここで飛んでみてくれといわれて、自慢話をしなくなった、というギリシャの逸話にある。
To Max Nettlau, Hermsdorf near Berlin, June 7, 1911, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.309-311.
1890年代にはじめて出会って以来、ランダウアーは著名なアナーキズムの歴史家マックス・ネットラウと定期的に手紙のやりとりをしていた。この書簡は、『社会主義者』の刊行において積極的な役割を果たすことを辞退するネットラウからの回答への返答である(注1)。ランダウアーは自分の社会主義思想を要約し『社会主義への呼びかけ』の刊行を予告している。
親愛なるネットラウ
[中略]
国家とは人と人との関係のことです(これは資本についても同様です)。この関係とは、世代から世代へと引き継がれた(積極的なものも消極的なものも含んだ)行為と忍耐の形態です。エティエンヌ・ドゥ・ラ・ボエシがこのことを簡潔に述べています。
私は国家の権力を握っている人びとと国家に従う人びとを分断することは受け入れません。人間関係は、人間の行動や態度次第で変わります。アナーキーを実現できるかどうかは、自分たちの行動をいつでも変えられる、という信念を人びとが持っているかどうか次第です。 私たち自身を変え、社会状況を変えるためには、私たちが現在手にしている、限られた自由を活用しなければなりません。そのように私たちが行動できるのか、より多くの自由と結合を私たちが作り出すことができるのか。これらはすべて、他ならぬ私たち自身がどうするか次第です。私たちが使える可能性を、私たちがこれまでほとんど活用してこなかったということは、はっきりしていると思われませんか。
私たちは、遊ぶためにおもちゃになるようなものをたくさん持っている子どものようなものです。いま、子どもたちはそういう多くのものを使うことをかたくなに拒否します。どうしてかというと、年上のきょうだいたちが使ってきた古い人形をほしがっているからです。しかし、より注意を払って多くのおもちゃのなかから煉瓦を選んで、それを使って遊ぶようになれば、古い人形に対する関心はなくなっていきます。実際、この場合、人形は、生命なき消極性と無気力によって特徴付けられた亡霊のようなものです。そしてこの消極性と無気力の亡霊は、私たちの祖先にとりつき、今は私たちにとりついているわけです。(私たちは、この亡霊が生活する民衆にとりつくことももちろん知っています。彼ら民衆は自分たちが持ち運ぶ家の中に隠れているカタツムリのような人びとです).
[中略]
私は、あらゆる瞬間に、今まさに、現在追及する任務を見いだすことのできない人びとの消極性に異議を唱えているだけです。どのような派閥に属しているかに関わりなく、自身と、自らが創造しようとしているものとの間に何も関係を作らないアナーキストは永久に何も作り出しません。私はいかに限られていたとしても、チャンスがある限り「ここがロドスだ、ここで飛べ」(注2)という原則に従います。
[後略]
心からのあいさつを送ります
グスタフ・ランダウアー
(注1)ランダウアーは1911年5月19日付けの手紙で協同作業を提案した。この往復書簡はアムステルダムの国際社会史研究所のマックス・ネットラウ文書に保管されている。
(注2)「ここがロドスだ、ここで飛べ」ということわざは、「話したあとで歩け」と対照的な意味合いがある。起源は、ロドス島でのジャンプ競技での成績を誇らしげに語る競技者に対して、その場にいた人物から、そのことを証明するためにここで飛んでみてくれといわれて、自慢話をしなくなった、というギリシャの逸話にある。
今ここでの革命 ランダウアーからズスマンへ Letter from Landauer to M. Sussmann, January 13, 1919
グスタフ・ランダウアーからマルガレーテ・ズスマンへの1919年1月13日付け書簡より
To Margarete Susman, Krumbach (Swabia), January 13, 1919, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.321-322.
Translated in Japanese by Hikaru Tanaka
マルガレーテ・ズスマンは、ドイツの左派系の評論家で詩人である。ランダウアーは彼女のパンフレット『革命と女性』(1918年、フランクフルト・アム・マインで出版)に対して感想を送っている。この手紙の中にはドイツで起きている革命に関するランダウアーの簡潔な評価も示されている(注1)。
親愛なる友へ
あなたの美しいパンフレットは厳しい試験をパスしました。バイエルンの最初の議会選挙の結果をちょうど受け取ったあと、私はあなたのパンフレットを読みおえました(注2)。選挙は、すべて私が予測していた結果となりました。しかしながら、このことはいかなる喜びももたらしません。私たちが孤立の中に居続けた時代、寂しかった時代に、私たちを戻すものです。
革命では投票や議会に信頼を置いてはいけません。革命においては、大衆を新たに形作り教育するために新しい社会構造を活用しなければなりません。私たちが恐れているのは、古くさくなった政党政治にまたもや関わらなければならないということです。すなわち、反革命とやりとりをすることにならないかということです。民衆が、もうこれ以上受け入れられないと思うところまで悲惨な状況になるまで、この反革命は長い間続くでしょう。
[中略]
あなたのパンフレットの中で一箇所については誤っているところがあります。6頁から7頁にかけてのところには加筆が必要です(注4)。革命とは、あらゆる点で、人びとに幸福をもたらすものです。そして、革命は、今ここでの実感の伴った救済を人びとにもたらすのです。私たちがここで関わった革命は、数時間、あるいはおそらく数日間、偉大で現実的でした。なぜなら革命は、解放、身体的な喜び、そして我々の兵士に救済をもたらしたからです。しかしそのあと、どのように進行するか、ということはわからなかったし、人びとに対して現実的なものを提供することができませんでした。すなわち、人びとが苦境から脱することができる何ものかを提供しなかったのです。これで革命の発展が中断しました。この中断はいまだ続いています。
救済は、新しい経済によってのみもたらされます。危機の際にのみ社会主義は私たちが望むものを提供することができます。社会主義は自由な行動と絶望的な必要性の組み合わせから生まれます。以上のことについて、いくつかは『社会主義への呼びかけ』の新版の序文で述べています。すぐに一部お送りしましょう。他にもたくさんのことをおつたえしなければなりませんが[中略]
親愛なる グスタフ・ランダウアー
(注1)ズスマンはランダウアーの死後彼を追悼して二つの評論を発表している。二つともタイトルは「グスタフ・ランダウアー」である。発表されたのは Masken, 1918-1919およびDas Tribunal, June 1919.
(注2)バイエルが1918年11月に共和国樹立を宣言してから最初に行われた1919年1月12日の選挙で、革命を主導したアイスナー率いる独立社会民主党は社会民主党と保守のバイエルン人民党に大きな差をつけられて敗北した。
(注3)省略 工事中
(注4)ズスマンは「革命の基本的な意味」との「和解」を主張し、革命とは「未来のことであり、現在のことではない」と書いている。Margarete Sussman, Die Revolution und Frau, Frankfurt am Main: Das Flugblatt, 1918, pp.6-7.
To Margarete Susman, Krumbach (Swabia), January 13, 1919, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.321-322.
Translated in Japanese by Hikaru Tanaka
マルガレーテ・ズスマンは、ドイツの左派系の評論家で詩人である。ランダウアーは彼女のパンフレット『革命と女性』(1918年、フランクフルト・アム・マインで出版)に対して感想を送っている。この手紙の中にはドイツで起きている革命に関するランダウアーの簡潔な評価も示されている(注1)。
親愛なる友へ
あなたの美しいパンフレットは厳しい試験をパスしました。バイエルンの最初の議会選挙の結果をちょうど受け取ったあと、私はあなたのパンフレットを読みおえました(注2)。選挙は、すべて私が予測していた結果となりました。しかしながら、このことはいかなる喜びももたらしません。私たちが孤立の中に居続けた時代、寂しかった時代に、私たちを戻すものです。
革命では投票や議会に信頼を置いてはいけません。革命においては、大衆を新たに形作り教育するために新しい社会構造を活用しなければなりません。私たちが恐れているのは、古くさくなった政党政治にまたもや関わらなければならないということです。すなわち、反革命とやりとりをすることにならないかということです。民衆が、もうこれ以上受け入れられないと思うところまで悲惨な状況になるまで、この反革命は長い間続くでしょう。
[中略]
あなたのパンフレットの中で一箇所については誤っているところがあります。6頁から7頁にかけてのところには加筆が必要です(注4)。革命とは、あらゆる点で、人びとに幸福をもたらすものです。そして、革命は、今ここでの実感の伴った救済を人びとにもたらすのです。私たちがここで関わった革命は、数時間、あるいはおそらく数日間、偉大で現実的でした。なぜなら革命は、解放、身体的な喜び、そして我々の兵士に救済をもたらしたからです。しかしそのあと、どのように進行するか、ということはわからなかったし、人びとに対して現実的なものを提供することができませんでした。すなわち、人びとが苦境から脱することができる何ものかを提供しなかったのです。これで革命の発展が中断しました。この中断はいまだ続いています。
救済は、新しい経済によってのみもたらされます。危機の際にのみ社会主義は私たちが望むものを提供することができます。社会主義は自由な行動と絶望的な必要性の組み合わせから生まれます。以上のことについて、いくつかは『社会主義への呼びかけ』の新版の序文で述べています。すぐに一部お送りしましょう。他にもたくさんのことをおつたえしなければなりませんが[中略]
親愛なる グスタフ・ランダウアー
(注1)ズスマンはランダウアーの死後彼を追悼して二つの評論を発表している。二つともタイトルは「グスタフ・ランダウアー」である。発表されたのは Masken, 1918-1919およびDas Tribunal, June 1919.
(注2)バイエルが1918年11月に共和国樹立を宣言してから最初に行われた1919年1月12日の選挙で、革命を主導したアイスナー率いる独立社会民主党は社会民主党と保守のバイエルン人民党に大きな差をつけられて敗北した。
(注3)省略 工事中
(注4)ズスマンは「革命の基本的な意味」との「和解」を主張し、革命とは「未来のことであり、現在のことではない」と書いている。Margarete Sussman, Die Revolution und Frau, Frankfurt am Main: Das Flugblatt, 1918, pp.6-7.
1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期まで(G.クーン、S.ヴォルフ) 1870-1892 Childhood and Youth of Gustav Landauer
1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期まで(G.クーン、S.ヴォルフ)
Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1870-1892: Childhoood and Youth: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.18-21.
Translated by Hikaru Tanaka
グスタフ・ランダウアーは1807年4月7日、南ドイツの都市カールスルーエで、世俗的なユダヤ人の家庭で生まれた。父親のヘルマンと母親のローザは、靴屋を経営していた。グスタフには兄がふたりいた。1866年生まれのフリードリヒと1867年生まれのフェリックスである。1868年にはいとこのフーゴーが生まれる。彼はその後リベラルな考え方を持つ企業家として成功し、しばしばグスタフを支援した。フーゴーはグスタフが死去するまでずっと親密な関係を維持した。
Gustav Landauer 1892 |
ランダウアーの青年時代についてはわかっていることは少ない。父親が設定した職業選択に対して抵抗したようであるが、そういった表だった反抗に関する報告はどこにも見当たらない。「25年前 ヴィルヘルム二世の記念日に寄せて」というエッセーでランダウアーは、フラストレーションを抱えていた高校時代について次のように述べている。「青年時代は一人っきりで」、「劇場、音楽、特に本」に逃避して、たくさんの時間を過ごした、と。
1888年から1892年まで、ランダウアーは、ドイツ文学とイギリス文学、哲学、美術史を、ハイデルベルク、ストラスブール、そしてベルリンの各大学で学んだ。何度かの中断を除けば、ベルリンは彼が1917年まで住み続けていた場所であった。大学時代に知り合った人物として最も重要なのは、チェコ系オーストリア人の文筆家で言語哲学者のフリッツ・マウトナーだった。彼はランダウアーの知的発展において重要な影響を与えた。
Fritz Mauthner 1849-1923 |
ランダウアーが生まれたのは、近代ドイツ国民国家の誕生とほぼ同時だった。1870年から71年までの普仏戦争後、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはドイツ諸領邦国家と大公国を皇帝ヴィルヘルム一世のもとで統一させることに成功した。この事実は重要である。ランダウアーは、いわば新生ドイツ帝国によって産み落とされた子どもだったのである。なぜなら、彼の思想において中心的なテーマは、国家、国民、民衆であり、これらはいずれも、一般的な意味でも特別な意味でも、ドイツ人のアイデンティティに関わていたからである(注2)。ランダウアーはしばしば国家構造の欺瞞生と、国民および民衆の可能性を区別していた。こういった点に注目して、極めて少数ではあるが、彼に関して英語で論評した人びとの中には、彼の思想が「フェルキッシュ運動」と関わっているということをほのめかす者もいるが、こういった指摘は不適切である。
「フォルクVolk」という名詞と、そこから派生する「フェルキッシュ」という形容詞は、ドイツ語では「民衆」という意味と同義である。19世紀において、民衆は政治的な意味合いを持たされるようになり、一方ではこれは民族主義者によって用いられ(フォルクと外国の支配者の対立、という文脈で)、他方では社会主義者によっても用いられた(フォルクと貴族・王党派・資本家の対立という文脈で)。19世紀半ばにおいては、こういった多様な用法は矛盾しているとは思われなかった。1960年代と70年代における反植民地運動においてと同様に、ヨーロッパの19世紀のナショナリストと社会主義の闘争はしばしばかさなっていたのである。
統一され強大になったドイツ国民国家という文脈においてのみ、「フォルク」の民族主義的な意味合いが次第に、外国人嫌悪と人種主義のイデオロギー、そして、反セム主義イデオロギーの中に取り込まれていった。この文脈において、フェルキッシュ運動は、「ゲルマン人であること」を理想視する、ほとんどがブルジョワによって占められる運動として登場した。したがって、ランダウアーの著書『社会主義への呼びかけ』(英訳タイトル『社会主義者の呼びかけ』)の英訳者であるバーマンとリュークがその序文で以下のように述べているのには驚かされる。「伝統的マルクス主義は・・・フェルキッシュ運動にある潜在的な左翼の力を獲得することに失敗した」と(注3)。以上の記述は不適切であると思われる。むしろ、論理的な帰結として、わずかな穏健な潮流を除けば、フェルキッシュ運動は、1930年代、ナチスによって吸収された、と考えられねばならない。
しかし、この出来事は、のちにフォルクという考え方を社会主義者に導入させるような衝撃をもたらさなかった。今日では、ドイツにおけるフード・ノット・ボムズに類似した運動であるVolxKu"che、すなわち民衆キッチンという運動があるぐらいだ。ランダウアーが「民衆劇場Volksbu"hne」の運動に加わったということ、「民衆の自決Selbstbestimmung des Volkes」(注4)を主張し、バイエルン革命の時に「民衆代表Volksbeauftrager」(注5)として行動した、ということについては、すべてにおいて「フォルク」という語に特別の意味があったことではなかった(注6)。「フォルク」について書くということは、「フェルキッシュ」である、ということをすぐさま意味するものではない。
たしかに1890年代までにはフェルキッシュ運動は重要な政治運動になっていたとはいえ、ランダウアーがフェルキッシュ運動を肯定的に評価したことは一度もない。他方、フェルキッシュ運動を明確に非難した、ということもない。むしろ彼が単に運動をさして深刻なものとして考慮する、ということがなかった、ということだけのようにも見える。彼の著作の中にフェルキッシュという語が出てくることはほとんどない。
ここまで述べてきたことから、ランダウアーの思想を「フェルキッシュなロマン主義」と表現することは誤解を招くということが言える(注7)。とりわけ、「ロマンティック」というレッテルは、ランダウアーの思想における「非合理性」を示唆することになってしまいかねないが、そういったものは彼の思想には含まれていない。「25年前」というエッセイのなかでランダウアーは、自分が十代の時に好んでいたロマンティックな考え方をその後克服したのは、彼の個人的そして政治的な発展において決定的に重大な瞬間だったという点を極めて明確に説明している。その後ランダウアーが神秘主義を重視するようになったということについても、非合理主義とは一切関係ない。本書に収録されているパンフレット『革命』とそれ以外のいくつかのテキスト、とりわけ「分離を通じてコミュニティへ」は、この点を明確にしている。ランダウアーの文学に関する関心という観点からも「ロマンティック」というレッテルが不適切であることがわかる。文学に関する記述の中でも、ロマン主義に言及することはほとんどない。むしろランダウアーはそれ以上に自然主義の演劇に関心を持っていたようである(注8)。
もう一つ、若きランダウアーに決定的な影響を与えたのは、ビスマルクによって制定された、いわゆる「社会主義者鎮圧法」である。同法はドイツ帝国において運動を組織する社会主義者を1878年から90年までのあいだ非合法にした。ただし、結果的に同法は、アメリカ合衆国における労働運動を強化する上で役立つことになる。なぜなら、多くのドイツの社会主義者たちはヘイマーケット事件が起きた1887年頃のアメリカに移民したからである。こうしてドイツ系移民は、アメリカにおけるラディカルな労働運動において重要な存在となった。実際、アメリカ社会を構成する大多数の人びとが、ヘイマーケット事件における爆弾爆発の下手人であるとしてドイツ系移民の子孫を非難したほどである(注9)。
社会主義者鎮圧法が廃止された直後、1890-91年という年はとくに重要であった。ドイツ社会民主党は、エアフルト党大会で以前の「社会主義労働党」から党名を変更するという議題について話し合った。その後、同党は、数十年間にわたってドイツにおける社会主義運動を支配し続けた。ランダウアーはこの頃にベルリンに転居し、社会主義労働党の若いラディカルなメンバーたちのサークルに加わった。彼らは新たに設立された社会民主党のメンバーであるということが否定された。彼らが集うサークルは、独立社会主義者協会Verein der unabha"ngigen Sozialisten あるいは単純に青年派として知られている。
改良政党の方針、もしくはマルクス主義にうんざりして(当時のヨーロッパにおける社会民主主義者の間では盤石な地位を築いていたイデオロギーであったが)、不満を抱いた社会民主主義者としてアナーキズムへと向かった他のラディカルな社会主義者と異なり、ランダウアーは一度たりとも社会民主主義者の運動に加わったことはない。「25年前」においてランダウアーは次のように述べている。「私は社会主義者になる前にアナーキストになっていた。社会民主主義を経由しなかったアナーキストというのは、極めてまれな事例である」と。
ランダウアーはドイツ社会民主党を、残忍な政敵としてしかみていない。死の数週間前、彼はバイエルン革命の期間に議会の会合で次のように述べている。「あらゆる歴史のなかで社会民主党ほど嫌悪感を抱かせる存在は他にない」と(注10)。
注 工事中
登録:
投稿 (Atom)