グスタフ・ランダウアーからマックス・ネットラウ宛て1911年6月7日付け書簡より
To Max Nettlau, Hermsdorf near Berlin, June 7, 1911, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.309-311.
1890年代にはじめて出会って以来、ランダウアーは著名なアナーキズムの歴史家マックス・ネットラウと定期的に手紙のやりとりをしていた。この書簡は、『社会主義者』の刊行において積極的な役割を果たすことを辞退するネットラウからの回答への返答である(注1)。ランダウアーは自分の社会主義思想を要約し『社会主義への呼びかけ』の刊行を予告している。
親愛なるネットラウ
[中略]
国家とは人と人との関係のことです(これは資本についても同様です)。この関係とは、世代から世代へと引き継がれた(積極的なものも消極的なものも含んだ)行為と忍耐の形態です。エティエンヌ・ドゥ・ラ・ボエシがこのことを簡潔に述べています。
私は国家の権力を握っている人びとと国家に従う人びとを分断することは受け入れません。人間関係は、人間の行動や態度次第で変わります。アナーキーを実現できるかどうかは、自分たちの行動をいつでも変えられる、という信念を人びとが持っているかどうか次第です。 私たち自身を変え、社会状況を変えるためには、私たちが現在手にしている、限られた自由を活用しなければなりません。そのように私たちが行動できるのか、より多くの自由と結合を私たちが作り出すことができるのか。これらはすべて、他ならぬ私たち自身がどうするか次第です。私たちが使える可能性を、私たちがこれまでほとんど活用してこなかったということは、はっきりしていると思われませんか。
私たちは、遊ぶためにおもちゃになるようなものをたくさん持っている子どものようなものです。いま、子どもたちはそういう多くのものを使うことをかたくなに拒否します。どうしてかというと、年上のきょうだいたちが使ってきた古い人形をほしがっているからです。しかし、より注意を払って多くのおもちゃのなかから煉瓦を選んで、それを使って遊ぶようになれば、古い人形に対する関心はなくなっていきます。実際、この場合、人形は、生命なき消極性と無気力によって特徴付けられた亡霊のようなものです。そしてこの消極性と無気力の亡霊は、私たちの祖先にとりつき、今は私たちにとりついているわけです。(私たちは、この亡霊が生活する民衆にとりつくことももちろん知っています。彼ら民衆は自分たちが持ち運ぶ家の中に隠れているカタツムリのような人びとです).
[中略]
私は、あらゆる瞬間に、今まさに、現在追及する任務を見いだすことのできない人びとの消極性に異議を唱えているだけです。どのような派閥に属しているかに関わりなく、自身と、自らが創造しようとしているものとの間に何も関係を作らないアナーキストは永久に何も作り出しません。私はいかに限られていたとしても、チャンスがある限り「ここがロドスだ、ここで飛べ」(注2)という原則に従います。
[後略]
心からのあいさつを送ります
グスタフ・ランダウアー
(注1)ランダウアーは1911年5月19日付けの手紙で協同作業を提案した。この往復書簡はアムステルダムの国際社会史研究所のマックス・ネットラウ文書に保管されている。
(注2)「ここがロドスだ、ここで飛べ」ということわざは、「話したあとで歩け」と対照的な意味合いがある。起源は、ロドス島でのジャンプ競技での成績を誇らしげに語る競技者に対して、その場にいた人物から、そのことを証明するためにここで飛んでみてくれといわれて、自慢話をしなくなった、というギリシャの逸話にある。
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