2016年5月20日金曜日

1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死 1918-1919: Revolution and Landauer’s Death


Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1918-1919: Revolution and Landauer’s Death: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.37-41.
Translated by Hikaru Tanaka

「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

G.クーン、S.ヴォルフ「1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死」『グスタフ・ランダウアー 革命とそれ以外の著作』PM Press, 2011, 37-41頁

 ドイツが第一次世界大戦で破滅的な敗北を喫することが確実になると、国民は大混乱に陥った。1918年10月、11月11日に休戦条約が結ばれ、戦争が公式に終了する数週間前に、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍兵士たちが反抗を始め、1918年から19年まで続くドイツ革命を開始した(11月革命としても知られている)。兵士と労働者は国内のあらゆるところで蜂起し、11月9日には社会民主党が、大衆からの信頼を失わないための試みとして、しかし、指導者たちの意志に反して、ドイツ共和国成立を宣言する。これがドイツ帝国の終結をもたらす。しかしながら、ラディカルな人びとは組織的抵抗を続け、ブルジョワの議会主義ではなく、直接民主主義と自決という原則に依拠した社会主義共和国を要求した。すべての権力を評議会へというスローガンはどこでも叫ばれるようになった。社会民主党はすぐに反抗を弾圧するあらゆる手段を講じた。その中には義勇軍(フライコール)という反動的軍事力も含まれていた(注126)。この義勇軍は、あらゆる反抗による脅威を打破することに大いに役だった。粉砕されたのは、1919年1月に起きたベルリンのスパルタクス団の蜂起も含まれる。義勇兵たちはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクというスパルタクス団の中でも最も著名な2人を虐殺した。月末には、2ヶ月前に評議会共和国樹立を宣言したブレーメンの評議会共和国も軍事力で粉砕された。

 バイエルンでは1918年11月7日に、後のドイツ独立社会民主党(USPD)の指導者となるクルト・アイスナーにより共和国の樹立が宣言された。USPDは戦争継続に反対して社会民主党から分裂したメンバーによって1917年4月に創設された政党であった。これがいわゆるバイエルン革命のはじまりである(注127)。

 アイスナーはグスタフ・ランダウアーの友人の一人であり、ランダウアーはミュンヒェン革命の支援のためにアイスナーから招聘された。11月14日付けの手紙でアイスナーはランダウアーに次のように書いている。「君に希望することは演説家として人びとの魂の変容を促進することだ」と(注128)。ランダウアーは、デュッセルドルフの劇場から演劇の指導者として招聘を受けたところであり、すでに劇場の雑誌『仮面Masken』(注129)の臨時編集者として働いてもいた。

 革命の展開についてランダウアーが興奮したのは当然のことである。革命は、彼にとって第一次世界大戦の恐怖のなかで唯一の希望であった。マルガレーテ・ズスマンへの1917年3月24日付けの手紙で彼は次のように書いている。「かつてドイツを通り過ぎてしまった革命が、今回はいくつかの場所で起きている。戦争は第一段階なのだろうか。外的な力が、これまでドイツ人だけではできなかったことをドイツ人にやらせているのではないだろうか」(注130)。

 ミュンヒェンでランダウアーは、革命の手段であり革命を防衛するためのいくつかの評議会のメンバーになった(注131)。彼は、すでに1909年にミュンヒェンに移住したミューザームと再会した(注132)。それ以外にも多くのアナーキストとラディカルな人びとが希望を持ってバイエルンに集まってきた。その中にはエルンスト・トラ-、オットー・ノイハウス、ジルヴィオ・ゲゼル、B.トラーヴェンとしてよく知られているレット・マルートなどがいた。

 独立社会民主党が共和国最初の選挙で敗北した1919年1月12日に革命の展開は大きな転換点を迎えた。数週間後の2月21日、アイスナーは、首相を辞任する手続をするために向かっていた途中で右派の学生に殺害された。ランダウアーは彼の葬儀でアイスナーを賞賛する言葉を述べている(注133)。

 アイスナーが死亡した後に、社会民主党の「多数派」が、新政府を保守派の支持のもとで組織した。ミュンヒェンにおける野党は激高し、1919年4月7日、独立社会民主党とアナーキストによってバイエルン評議会共和国樹立を宣言した。共産党はこの独立宣言の時期は適当ではないと考えていた。ミューザームによるバイエルン革命に関する私的報告『アイスナーからレヴィーネまで』によれば、このことが最初から評議会共和国に敗北の要因を作り出した(注135)。しかしこの宣言は明らかにランダウアーの主張に基づくものであり、共産党の分離があったにもかかわらず、発表されたものである(注136)。ミューザームによれば、ミュンヒェン革命労働者評議会の会合のあと、4月4日の夜、ミューザームとランダウアーは酒場に入って評議会共和国の宣言文の草案を起草したという(注137)。

 なぜランダウアーは単なる「政治的」革命に対してあれほど長い間懐疑的であったにもかかわらず、バイエルンにおいて評議会共和国を支持したのかは不明確なままである。最も可能性が高いのは、自律的な社会主義という自分の構想を広範な規模で実現できる機会がついに到来したと確信した、ということである。ランダウアーは文化・教育人民代議員として指名された。

 一週間後、4月13日、社会民主党政権はバイエルン北部のバンベルクに逃れ、ミュンヒェンに軍を派遣した。共産党赤軍が評議会共和国を防衛するために攻撃を撃退した。ミュンヒェンから反革命家たちが追い出される前に、彼らは夜の会合に出席していたミューザームを含む重要人物を逮捕した(注138)。逮捕された人びとはバイエルン北部に連行された。グスタフ・ランダウアーは危うく逮捕を逃れた。というのも彼はその会合を早めに退出したからである。このときには誰も知らなかったが、これが彼に死刑判決を下す理由となっていた(注139)。

 
1919年ミュンヘン市内のランダウアー(右から二人目)
共産主義者は評議会共和国を統制することになった(歴史家たちはこれを「第二次」バイエルン評議会共和国の開始としている)。ランダウアーは、この一週間、執務室で学校と劇場の遠大な改革の輪郭を描く作業を始めている(注141)。共産主義者の左派の人びとは彼の役割について疑いの目で見ていた。4月16日、彼は、最後の、発送されなかった娘宛の手紙の中で次のように書いている。「お父さんは、ここでは元気にやっています。でも自分が役に立たないように感じ始めています」(注142)。


 2週間後、社会民主党連邦政府はベルリンから軍隊を派遣した。この軍隊は右翼の義勇軍部隊とミュンヒェン郊外で合流した。彼らはともにベルリンのスパルタクスとブレーメンの評議会共和国に攻撃を仕掛けてきた軍隊である。赤軍による必死の抵抗もむなしく、バイエルン評議会共和国は5月1日に敗北した。その代表的なメンバーは、ランダウアーも含め拘禁された。

 ランダウアーは翌日兵士たちによって虐殺される。ルドルフ・ロッカーは、この出来事をいかのように記述している。

「ランダウアーは、第1評議会共和国にその優れて豊富な知識と能力を提供した。共和国が崩壊した後、彼は良き友人だったクルト・アイスナーの未亡人とともに住んでいた。彼が逮捕されたのは5月1日の午後、彼女の家であった。親しい友人たちは数日前に彼に対してにげるように強く求めた。その頃はまだ比較的簡単だったからである。しかしランダウアーはとどまることを決意した。他の囚人たちとともに彼はトラックに乗せられてシュタルンベルクの刑務所に送られた。一日後、そこから他の数名とともに、シュターデルハイムに移送された(注143)。その途中で、人間的な精神を失った兵士どもは、上官からの命令を受け、ランダウアーを身の毛もよだつようなやりかたで虐待した。そのような上官の人であるフォン・ガーゲルン男爵は(注144)、鞭でランダウアーの頭を殴りつけた。これが無防備な犠牲者を殺害するサインであった。ある目撃者が後に語ったところでは、ランダウアーは最後の力を振り絞って殺人者に叫んだという。「やってみろ。人間らしく」。彼は文字通りけり殺された。まだ虫の息であることがわかると、無慈悲な拷問者たちの一人が彼の頭に銃弾を放った。これがランダウアーという、ドイツにおける最大の思想家にして優れた人物の一人の、恐ろしい最後であった」(注145)。

 5月17日、ランダウアーの長女のシャルロッテがやっとミュンヒェンへの旅行を許可された。彼女のねばり強い活動で、ランダウアーの遺体(集団墓地の墓の中で腐敗していた)と没収された彼の原稿は家族に返却された。ランダウアーの遺体は荼毘に付された。遺骨は1923年まで地下納骨堂に安置されていた。その年、主にバイエルンのアナルコサンディカリストたちの努力の結果、ミュンヒェンのヴァルト墓地に墓石が建立された。5月1日、ランダウアーの遺骨はここに移し替えられた。1925年、ドイツ自由労働者連合の募金活動を通じて、ランダウアーの記念碑が墓石に付け加えられ建立された。しかし計画されていた祈念式典は警察によって禁止された。

 1933年、ナチスはランダウアーの墓を祈念碑も含めて破壊した。その遺骨はミュンヒェンのユダヤ人共同体に送られ、第二次世界大戦終結まで、新ユダヤ人墓地の壁に無名の状態で安置された。1946年、ランダウアーの娘グドゥラがランダウアーの墓の再建を主導した。この墓は今日、新ユダヤ人墓地でクルト・アイスナーの墓地と同じ場所にある。墓石は1925年の記念碑の残部を利用したものである。
ランダウアーとアイスナーの墓


注 工事中


「1870~1892年 出生から青年期まで」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

「ランダウアーの死」Ernst Toller, Ein Jugend in Deutschland, Rowolt, 1978, p.142より

「ランダウアーだ、ランダウアーだ」と怒鳴りながら、バイエルン兵とヴュルテンベルク兵からなる一隊がグスタフ・ランダウアーを連れてきました。尋問室の前の廊下で将校がランダウアーの顔を殴りつけました。
  その間、兵隊たちはどなっていました。「扇動家消え失せろ、殴り殺しちまえ」。ランダウアーは銃床でこづかれて、調理場の前を通って中庭まで歩かされました。
 彼は兵隊たちに言いました。「私は扇動家ではない。君たち自身は自分がどんなに扇動されているかわかっているのか」と。中庭でランダウアーと兵隊たちに出くわしたガーゲルン男爵は、棍棒でランダウアーを殴りつけたので、彼は崩れ落ち、倒れましたが、再び起きあがり、話し始めようとしました。
 軍曹が銃を撃ち、一弾が彼の頭に命中しました。まだ呼吸していました。すると軍曹は言いました。
ミュンヒェン市内Amalienstrase 52にある記念プレート
「下種野郎ほどしぶといものだ。まだ生きていやがる」。
 親衛連隊の軍曹が怒鳴りました。「やつの外套をはぎとれ」。

 外套が脱がされました。ランダウアーはまだ息がありました。
 連中が彼を腹ばいの格好にしました。「下がれ、もう一発くれてやる」とどなって、軍曹はランダウアーの背中を撃ちました。体がまだぴくぴく動いているところを、軍曹は足で踏みつけて息の根を止めました。それからランダウアーは着ているものを全部はぎ取られ、死体は洗濯場へ放り込まれました。

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