2016年5月20日金曜日

1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望 1908-1914: Socialist Hopes: ‘Introduction of Gustav Landauer

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1908-1914: Socialist Hopes: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.31-35.
Translated by Hikaru Tanaka 

「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」へ
  
1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望 

 1907年の『革命』の刊行は、ランダウアーが政治的なアジテーションと運動に復帰するきっかけとなった。同年、彼は「社会主義の30の命題」(注73)を発表している。これは数年後に『社会主義への呼びかけ』のなかで形作る主張の輪郭を描いている。

 1908年5月、ランダウアーは社会主義連合 Sozialistischer Bundの設立を主導した(注74)。連合の目標は「社会主義の実現を真剣に考えるあらゆる人びとを結びつける」(注75)というものだった。「社会主義者連合の解説」という文書においてランダウアーは、「私はどうすれば社会主義連合のメンバーになれるのですか」という質問に対して「自分の周囲にいて同じ考えを持っている人びとを探して下さい。そして、その人たちと一つのグループを作ってください」と回答している(注76)。

 社会主義連合の中心的な思想は、知識人による活動、職人による活動、芸術家による活動を結合させ、小規模で独立した様々な組織と様々な共同体(協同組合、居住地など)を創設する、というものであった。これらが新しい社会主義の文化と社会における基本的な細胞になる、というのが連合の考えであった。社会主義連合は中心的指導者や指導部を作らないで、ドイツとスイスで結成された自律的な様々なグループから構成されていた組織だった(注77)。オーストリアでは、ピエール・ラミューのような著名なアナーキストからの支援を受けることができず、ランダウアー本人も、オーストリアへの入国を禁じられていた(注78)。マルティン・ブーバーとエーリヒ・ミューザームは連合の初期のメンバーであった。その最盛期には加入者は約800名を数えた。

 連合を支援するために1909年、ランダウアーは『社会主義者』紙を再刊したが、今回は「社会主義者連合の機関紙」という副題がつけられていた。同紙の刊行は2週間に一度であり、ランダウアーは基本的に一人で編集に従事した。ただし再刊から数年間は、スイスのサンディカリストであるマルガレーテ・ファース=ハルデッガーから強力な援助を受けていた(注79)。

 1908年の夏、ランダウアーはファース=ハルデッガー[1882-1963]と出会い恋に落ちた。ヘルトヴィート・ラッハ
Margarethe Faas-Hardegger
マンとのとじられた生活のことがあったので、ランダウアーはファース=ハルデッガーのことを「世界への架け橋」と呼んだ(注80)。ランダウアーは共に生活し続けた自分の家族とのロマンティックなつながりを追及し、家族はこれを受け入れた(注81)。ファース=ハルデッガーとランダウアーとの関係は、核家族に疑問を呈し、共同体による育児に関する彼女の論説を(注82)、ランダウアーが批判した1909年4月に、極めて冷却することになった。1913年、ふたりの関係は完全に終結した。

 こういった情熱的な関係を除けば、ファース=ハルデッガーへのランダウアーの手紙は、高慢な態度によって特徴付けられていた。ランダウアーは、自分から関わっていく一方で、人との協同作業をすることが難しい人物であるとしばしば見なされている。1909年6月、ランダウアーはファース=ファルデッガーが彼から繰り返し批判されていることに動転しているという手紙に対して次のように答えている。「あなたは私を残酷なまでに厳しいというが、あなたは私に対して同じことを十分やってきたのです」と(注84)。

 ランダウアーが参加した共同の行動を除けば、社会主義連合や「第3期」『社会主義者』紙の刊行のような活動のように、自分がほぼ統制権を独占している活動において、ランダウアーは極めて優れた役割を演じた。1916年にミューザームに当てて出された手紙の中で、ランダウアーは次のように認めている。「私には、他人の考えと計画を受け入れて実行することが常に難しいのです」と(注85)。このような彼の性格から考えれば、ランダウアーが共同体や居住地の革命的な重要性を常に主張していたにもかかわらず、それえらの設立に決して加わらなかった、ということが説明できるかもしれない。ミューザームはこのような明確な矛盾について次のように要約している。「決然として恐れを知らない闘士で、日常的な関係ではやさしく柔和で、寛大である一方で、重要な問題に関して尊大な態度を示すところでは、不寛容で厳しく頑固である、というようにランダウアーを見ている人しか、彼が本当にどういう人物だったのか、ということを理解できない」(注86)。

 しかし一般的には、ランダウアーは礼儀正しく平和的で熟慮する人として描かれる。アグスティン・ズーシーは次のように描いている。「グスタフ・ランダウアーの人格は、彼の本や評論集を読んでから思い描いたイメージと一致していた。彼の長くやせた姿と細面の顔はキリストのような髭に覆われ、精神を感じさせる額、洞察力のあるまなざしは遠くにあるユートピアを展望していた。こういう彼の容貌は極めて特徴的なものであり彼を見た者には強い印象を残した」(注87)。

 ランダウアーの人格や友人との関係、彼の愛人に関してより深く語っている資料は驚くほど少ない。彼の手紙はそういった彼の人格の片鱗を見せているが、さらなる検討の余地があり、多くの手紙は散逸してしまった。ブーバーがランダウアーの基本的な手紙を集め出したのは1899年であり(注88)、ランダウアーの私的なメモや日記における記述に関しては、今後の専門的な分類や分析が待たれるところである。こういったランダウアーの文書のほとんどは、アムステルダムの国際社会主義研究所に保管され、それよりもずっと少ない分量の資料はエルサレムにあるユダヤ人国立大学図書館に保管されている(注89)。

 ランダウアーはこの時期に「社会主義」について検討し始めたが、それは、アナーキズムの理想を放棄したということではない。ヴァルター・フェーンダースとハンスゲオルク・シュミット=ベルクマンは以下のように指摘している。「社会主義とアナーキズムはランダウアーの言語の中では道義である」と(注90)。1908年9月にランダウアーからファース=ハルデッガーに宛てた手紙の中でこのことが確認できる。この手紙の中では『社会主義者』の編集者グループで提案された呼び方について述べられていた。「次に挙げるどれでも好きな呼び名を選んだらどうか。「社会主義・アナーキスト(これが私が一番好きな表現である)、「社会主義者」、「アナーキスト」、あるいはもっと簡単に「同志」というのもある」(注91)。(ファース=ハルデッガーは「革命サークル」を選んだ(これはすぐに新聞の見出しからなくなった)。ランダウアーはアナーキズムと社会主義を「社会主義連合の12命題」の第二版の中で最も明確に述べている。「アナーキーとは社会主義の別名である。アナーキーは、残念ながら、否定的な意味あいがあることと、しばしば誤解されることで、使い勝手が悪い言葉だ」(注92)。

 ランダウアーが活動を再開したとたんに、昔から敵対していたドイツアナーキスト連合(AFD)との衝突がまたもや始まった。AFDは1903年に1890年代の『社会主義者』紙刊行グループの中の「プロレタリアアナーキスト」派によって創設されている。このグループは、階級闘争が革命の重要な手段であるといまだに考えていた。これに対して、革命的主体としての労働者の役割に対するランダウアーの懐疑は、これまでの数年の間にますます強まっていくばかりであった。ランダウアーが、AFDの機関紙『自由な労働者』に『社会主義者』の広告が掲載されていたにもかかわらず、『自由な労働者』の広告を『社会主義者』に掲載することを拒否したときに対立は頂点に達した(注93)。

 プロレタリアートに関するランダウアーの評価は混乱しているように見える。『社会主義への呼びかけ』の中で彼は「今日存在する社会グループのほうが、工業プロレタリアートなどよりも、革命が起きたときに何をすべきかをずっとよくわかっている」と記載しているのはよく知られているところである(注94)。しかしながら、この記述が、ドイツの労働者階級の多くが陥っている無気力に対するいらだちの表現である一方で、ランダウアーはその重要な評論文で(「自由な労働者評議会」として本書で収録されている)「自由な労働時間」という文章の中では次のように述べているのである。「活発な社会的で文化的な発展に関していえば、我々は他の社会階級に比べて労働者階級に期待することはない。しかしながら怒り、拒絶、感情、力強さという点からみれば、異なる評価をすることになる。こういった特徴は、効果的な抵抗のために必須条件だからである」(注95)。

 ランダウアーのプロレタリアートに対する批判は常に、労働者たちが特権化された革命の前衛であるという抽象的で理想化された考え方に焦点を当てていた。しかしそのような批判は、労働者の窮状について深刻に受けとめていなかった、ということではない。労働者による闘争に関与することをランダウアーはやめはしなかったし、効果的な民衆蜂起において労働者が重要な役割を果たすということをランダウアーが否定していた、ということではない。ランダウアーは労働現場での運動を支持していた。それはそういった運動がマルクス主義、アナーキスト、あるいはその例外の狭量な教義に結びついていない、と感じていれば、そうしていたのである。一例を挙げれば、1913年に、彼はオーストリアのアナーキストのヨーゼフ。ポイケルトの『あるプロレタリアの革命的労働運動についての回想録』を刊行するために社会主義者連合の資金を使い、情熱的な序文を書いている、という事実がある(注96)。

 「プロレタリアアナーキスト」とランダウアーの違いは、「アナーキスト社会主義」の中心的な考えにある。ランダウアーによれば、プロレタリアも含め、いかなる人も単なる政治と経済状況の「外的」な変容だけで解放されはしない、彼らは「内的」変容と新しい共同生活の創造のための活動を通じて自己を解放するのである。

 ランダウアーは、『社会主義者』で使われる言葉がプロレタリアの読者向けではない、と常に非難された。1909年にファース=ハルデッガーに宛てた手紙の中でランダウアーは次のように書いている。「『社会主義者』に掲載された記事は労働者に全くわからないというわけではありません。目の前にあるものをみるために努力が必要だということを労働者が理解しなければいけないというそれだけのことです」(注97)。マックス・ネットラウは、そのような要求は社会主義者連合を拡大する上ではランダウアーにとって利益になるとは限らないと考え、次のように述べていた。「投票や募金以上のことを要求せずに大衆を綱領の周囲に集めるのは簡単であるが、それが不可能である場合、個人として本当に独立した行動を遂行していくことは、極めて困難である」(注98)。

 ランダウアーは、あまねく敵意に満ちた左翼的な環境の中で厳格でありなおかつ孤独な声を代表していたことが良くあった。このことはたしかに真実である。しかしながら、いくつかのイメージは誇張されているようである。とくに1901年から1906年まで、そして、妥協のない反軍国主義を堅持した第一次世界大戦中は、ランダウアーが相対的に孤立していた時期であったのはたしかである(注99)。同時に彼は決して尊敬と支援を失わなかったのまた事実である。チューリヒとロンドンにはアナーキストの代議員として旅行をし、マルティン・ブーバーから『革命』執筆依頼をされ、そしてクルト・アイスナーが彼を1918年にミュンヒェンに招聘した。このように、ランダウアーを理解し同じ考え方を共有した人びとはいたのである。

 皮肉なことではあるが、実際にはランダウアーに魅了されていたのは、対立する「プロレタリア・アナーキスト」たちではなく、労働者階級であった。ランダウアーの思想はリバタリアンの知識人に訴えるものがあった、という指摘が良くあった。しかしながら、バイエルン革命の期間、ランダウアーの思想について労働者たちの間でかなりの支持があった。ウルリヒ・リンゼが指摘するように、バイエルンで「ブルジョワの背景を持つランダウアーとミューザームという文字通りの友人であった2人は、アナーキストの行動という可能性を作り出したが、プロレタリアアナーキストは孤立していたのは明らかであり自己中心的なセクトでしかなく、いかなる運動に加わることもできず、そのことすら望んでいなかったのである」(注100)。ランダウアーの死後、彼の遺産をドイツで引き継いだのは、アナルコサンディカリストのドイツ自由労働者連合であり、ミュンヒェンのアナルコサンディカリスト協会が提案することで1925年に彼の墓所に記念碑を建設することになったのである(注101)。

 ランダウアーは自らの社会主義思想について最も分かりやすいパンフレットとして1911年に『社会主義への呼びかけ』を刊行した(注102)。同書の英訳『社会主義のためにFor Socialism』は、はミヒャエル・パレントによる英訳でテロス・プレスから刊行されている。ランダウアーの社会主義は以下の中心的原則を基礎にしている。a)内的再生と「共同の精神」との同一、b)直接で即時の行動。ミューザームは、この点について、「「はじまり」「実現」「行動」という言葉は、それ以外の学術適用後よりも革命家ランダウアーにとってずっと重要であった」(注103)と要約している。ディエゴ・アボバド・デ・サンティリヤンにいわせれば、ランダウアーの要求は「あらゆる瞬間における下からの革命」であった(注104)。c)協同組合や居住地その他の形態による共同組織(注105)。

 おそらくラディカルな思想史の文脈の中でみれば、ランダウアーの思想で最も際立っているのは、そして最も核心的な部分は、国家と資本を「ひっくり返す」のではなく「離脱する」ことで克服しなければならない、という彼の信念である(注106)。このことは、社会主義とは行動である、というランダウアーの考えを強調することになる。1909年、彼は次のように書いている。「社会主義は求めることや待つこととは全く関係ない。社会主義は行うことを意味するのだ」(注107)。
 
 ランダウアーは、自らの必要と能力に従って社会主義共同体を創造する人びとの能力に信頼を置いていた。「アナーキズム共産主義に関する一通の手紙」という論説でランダウアー発議のように述べている。「社会主義連合に集う私たち社会主義者と共産主義者との違いは、未来社会について異なるモデルを描いている点にはない。両者の違いは、我々がいかなるモデルも持っていないという点にある。私たちは未来の開放性を重視し、未来を決めつけることを拒否するのだ。私たちが望むのは社会主義の実現であり、そのためにできることは、その実現のために、今、行動することである」(注108)。
 
 研究者たちは、ランダウアーのこのような社会主義を表現するために様々な言葉を使ってきた。幾人かの研究者たちは、彼の社会的な展望の基盤に焦点を当てて「協同組合社会主義 Genossenschafts-Sozialismus」と呼んだ(注109)。あるいは、「自治社会主義 Gemeindesozialismus」、「農業社会主義」(注111)などと呼ぶ人びともいる。(『社会主義への呼びかけ』の中でランダウアーは「社会主義への闘争は土地に向けた闘争である。社会問題は農業問題である」と述べている(注112))。それ以外の研究者の中には、「実現の社会主義 Verwirklichungssozialismus」という言葉に結びついたランダウアーの即時性や日常的行動の強調に焦点を当てている(注113)。さらに、「マルクス主義の「科学的」社会主義に対抗しているランダウアーの社会主義にみられる「ユートピア的」な性格を強調している者もいる。しかし、もっともよくある評価は、「文化的社会主義 Kultursozialismus」である。『社会主義への呼びかけ』の中で、「社会主義は文化運動である。美しさ、偉大さ、豊かさを求めた民衆の戦いである」というランダウアーの言葉が良く取り上げられている(注114)。

注 工事中
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