Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘Landauer’s Legacy’: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.37-41.
Translated by Hikaru Tanaka
G.クーン、S.ヴォルフ「ランダウアーの後世への影響」
ランダウアーの影響が後世にみられる時期としては、大きく分けてふたつある。
一つは1930年代半ばまで続く初期の時代である。もう一つの時期は、ランダウアーのルネッサンスが起きた時期であるが、これは他のラディカルなルネッサンスが起きたのと同様に、1960年代の終わりに社会的な蜂起が始まったのと同時である。『革命』のドイツ語版出版に関する経緯をみればこれが反映されている。1907年の最初の刊行以来、『革命』は1919年、23年(これは最初の出版社リュッテン・レーニングによるもの)、1974年、1977年(これはアナーキズム出版社として老舗のカーリン・クラーマーより刊行)、そして2003年(ウンラスト出版)の5回である。
ランダウアーのドイツにおける同時代の影響としては知的なものと実践的なものがある。エーリヒ・ミューザーム、マルティン・ブーバー、ルドルフ・ロッカー、アウグスティン・ズーシー以外にも、ランダウアーの思想と作品は、ヴァルター・ベンヤミン、エルンスト・ブロッホ、ヘルマン・ヘッセ、パウル・ツェラーン、アルノルト・ツヴァイクに影響を与えた。ランダウアーはバイエルン評議会共和国の存在していた時期に著名な二人の同志に長期的な影響を残している。すなわち、エルンスト・トラーとB.トラーヴェンことレット・マルートである。以上の二人はランダウアーに捧げるエッセーを刊行している。
実践的な領域では、ランダウアーの影響は、ドイツ自由労働者連合のアナルコサンディカリストたちの間に最も強い影響を残した。彼らの中で著名なメンバーとしては、ロッカー、ズーシー、ヘルムート・リューディガーがいた。ランダウアーのテキストはドイツの青年運動(Jugendbewegung)の中で広く読まれた(注147)。ランダウアーの政治的な影響に関しては、これらに比べてあいまいである(注148)。ランダウアーの思想はドイツの共同体運動にも影響を与えた。ベルンハルト・ブラウンは、低ザクセン地域で1919年から23年までに建設されたコミューン、バイエルン地域において1919年から21年までに建設されたコミューンのリストによって、ランダウアーの影響の具体的な例として示している(注149)。1921年にデュッセルドルフで建設されたコミューンの映画がある。労働者は誇らしく大理石の板にランダウアーの横顔を描き「我々は、グスタフ・ランダウアーの精神において、この土地に1921年7月6日に居住地を設立した。そして我々はこの地を「自由の大地」と呼んだ」と記している。「自由の大地」は1923年まで存続した。
マルティン・ブーバーのめざましい努力のおかげで、ランダウアーの著作は1920年代に、本人の死後に刊行されていった。ブーバーは、ランダウアーが選出して翻訳し、序論を書いた2巻の『フランス革命期間の手紙』を編集した。1920年に、『シェイクスピア 講演録』も2巻で刊行された。『生成する人間 生と文筆についての論集』『はじまり 社会主義に関する論集』(1924年)も刊行された。『グスタフ・ランダウアー 手紙にみるその生涯』は1929に刊行された2巻の書簡集である。
「感謝の言葉」という1951年に刊行されたみすぼらしいブックレットを除けば、1960年代まで、ランダウアーに関する新しい出版物は出されていない。この1951年のブックレットは、ランダウアーに捧げられたミューザーム、ロッカー、リューディガー、ディエゴ・アバド・デ・サンティリアンによる文章が収録されている。1949年に刊行された『ユートピアへの道』の一つの章をブーバーはランダウアーに捧げている。同書は、ランダウアーが、とくに国際的に人びとの意識から消滅しなかった主な要因である(注150)。
ドイツ以外では、ランダウアーが最も重要な影響を与えたのはキブツ運動である(注151)。1920年代に社会主義シオニスト、ハポエル・ハザイルの雑誌『労働Die Arbeit』がランダウアー特集を組み、その巻頭文では「本号はグスタフ・ランダウアーの思い出に捧げられている。本号は私たちが抱く彼に対する尊敬の念を表現するものである。・・・グスタフ・ランダウアーは我々を覚醒した人物である。彼は我々の生活を変え、彼は決してこの言葉に言及してはいないとはいえ、シオニズムに新しい意味、新しい力、新しい方向性を与えてくれた。(注152)」。この号はベルリンのユダヤ人民衆の家で1916年5月18日に行った開館式の際にランダウアーが「ユダヤ主義と社会主義」というタイトルで話した内容を収録している。
ランダウアーがそのような賞賛を好意的に受け取るかは議論が分かれる(注153)。ランダウアーは1912年にベルリン西部で活動するシオニストグループの集まりで「ユダヤ主義と社会主義」という講演を行っている。これは公的な場でランダウアーがユダヤ主義について言及する最初の講演である。しかしランダウアーはシオニズム運動と同じ考えを共有しなかった。1916年11月、彼は、評論家で詩人のマーガレット・ズスマンという良き友人によって書かれたシオニズムに関する文章に全面的に同意している。ズスマンはシオニズムの文化的解釈で知られており、この考え方はユダヤ人国家という理念を拒絶している。
キブツの思想に関して、ランダウアーが関心を抱いていたのはたしかである。1919年3月、死の直前、彼は世界ユダヤ人会議の共同設立者で長期間にわたり議長を務めることになるナフーム・ゴルトマンと文通をしていた。その後、1919年4月、ゴルトマンはパレスチナでの入植に関して討議する会議にランダウアーを招待し、また、ミュンヒェンでの「小規模の事前会議」へも招待していた。ゴルトマンはランダウアーに対して、いくつかの経済的な問題についてアドバイスを求めたていた。ランダウアーはゴルトマンと見解を共有し、ミュンヒェンでの会合への出席を約束し、他方、ベルリンでの会議への出席については、ミュンヒェンでの会合の結果次第であると解答していた(注156)。しかしながら、その後の政治的な変動とランダウアーの死によって、会合も議論も永久に不可能になった。
ランダウアーがキブツ運動についていかなる見解を持っていたのか、という点に関しては様々な憶測はあるが、1920年代と30年代におけるユダヤ人の社会主義者による様々なグループに彼の思想が極めて強い影響を与えたのは明らかである。彼の著作のかなりの数がイディッシュやヘブライ語に翻訳された。ユダヤ人労働組合全般連合はグスタフ・ランダウアーを追悼する書物を1939年に刊行している(注157)。
もちろん、ランダウアーの初期のキブツ運動に対する影響は明瞭である。オーストリアの著述家で心理学者、長きにわたり共産党員だったマネス・シュペルバーは、次のように説得力のある証言をしている。
「ランダウアーの殺害と死は恐ろしいものであった。だが、私のような自由なユダヤ人の青年運動のメンバーにとっては、ランダウアーは依然として生き生きとしていた。私たちは、彼が私たちの間で生きている、と感じていたが、それはとくに、遠く離れた古代の土地が、数年後には、自分たちの土地になるという計画について議論したときは、いつもそうであった。私たちは、そういった入植共同体をKwuzahと読んでいたが、その後キブツとして知られるようになった。キブツは、私たち、そしてランダウアーの夢を実現するものであった。そしてキブツは現在でも存続している。今日、キブツは、私的所有も社会的なヒエラルキーもない自由な個人である第3世代、および第4世代が住み続けている場所である。キブツは社会主義を現実のものとした。挫折した多くの革命を生き残った比較的わずかな事例である。キブツを訪問するとき、私はいつもランダウアーのことを考える。そのとき、私は殺害者による拷問を受けた犠牲者の顔を思い出すのではなく、彼の真実の顔を思い出す。それは、預言者の顔である。ランダウアーの生と死とは、私たちの存在を正しいものであると証明する、そういう性質のものだったのだ」(注158)。
シュペルバーによるこの記述は、極めてロマンティックなものである。他方、ランダウアーが設立した社会主義者連合に20代で加わったアウグスティン・ズーシーは、ランダウアーの遺産がキブツにみられるという点について、1951年にイスラエルを訪問した際の体験のなかで、以下のように述べている。
ランダウアーがキブツ運動についていかなる見解を持っていたのか、という点に関しては様々な憶測はあるが、1920年代と30年代におけるユダヤ人の社会主義者による様々なグループに彼の思想が極めて強い影響を与えたのは明らかである。彼の著作のかなりの数がイディッシュやヘブライ語に翻訳された。ユダヤ人労働組合全般連合はグスタフ・ランダウアーを追悼する書物を1939年に刊行している(注157)。
もちろん、ランダウアーの初期のキブツ運動に対する影響は明瞭である。オーストリアの著述家で心理学者、長きにわたり共産党員だったマネス・シュペルバーは、次のように説得力のある証言をしている。
「ランダウアーの殺害と死は恐ろしいものであった。だが、私のような自由なユダヤ人の青年運動のメンバーにとっては、ランダウアーは依然として生き生きとしていた。私たちは、彼が私たちの間で生きている、と感じていたが、それはとくに、遠く離れた古代の土地が、数年後には、自分たちの土地になるという計画について議論したときは、いつもそうであった。私たちは、そういった入植共同体をKwuzahと読んでいたが、その後キブツとして知られるようになった。キブツは、私たち、そしてランダウアーの夢を実現するものであった。そしてキブツは現在でも存続している。今日、キブツは、私的所有も社会的なヒエラルキーもない自由な個人である第3世代、および第4世代が住み続けている場所である。キブツは社会主義を現実のものとした。挫折した多くの革命を生き残った比較的わずかな事例である。キブツを訪問するとき、私はいつもランダウアーのことを考える。そのとき、私は殺害者による拷問を受けた犠牲者の顔を思い出すのではなく、彼の真実の顔を思い出す。それは、預言者の顔である。ランダウアーの生と死とは、私たちの存在を正しいものであると証明する、そういう性質のものだったのだ」(注158)。
シュペルバーによるこの記述は、極めてロマンティックなものである。他方、ランダウアーが設立した社会主義者連合に20代で加わったアウグスティン・ズーシーは、ランダウアーの遺産がキブツにみられるという点について、1951年にイスラエルを訪問した際の体験のなかで、以下のように述べている。
「そこには500名の移民によるグループがいた。彼らは、ドイツでヒトラーが権力を握る一年前にドイツからパレスチナに来ていた。ユダヤ人国民基金は彼らに500ヘクタールの土地を与えた。・・・彼らの中に、かつての私の同志たちがいたことに驚いた。共同体の主導者の一人、ハノーファーから来たシャベール・ブーフアスターたちは、彼と彼の友人たちは、グスタフ・ランダウアーの社会主義から影響を受けたと語った」(注159)。
ルート・リンク=ザーリンガーは、ランダウアーの影響がユダヤ人のラディカルな人々の間にみられが、それはノーム・チョムスキーにさえみられると主張している。チョムスキーはシオニズム学生運動アヴカAvukahを通じて影響を受けたのだという。チョムスキーはアヴカのメンバーだった人びととともに、大学入学後の数年、交流があったからであるという(公式にはこのグループはすでに解散していた時期ではあったが)(注160)。この話はあまりに推測だけに基づいているとはいえ、ランダウアーはユダヤ人社会主義とアナーキストの歴史に強い影響を残したのは事実である。たとえばポール・アヴリッチは、テル・アヴィヴのあるアナーキストのグループが、グループ名にランダウアーの名前をつけたのが、1970年代以降であったと述べている。
ランダウアーの知的な影響は遠く韓国にまで及んでいると示唆している研究者もいる(注162)。こういった見解を裏付ける証拠は存在しない。しかしながら、ランダウアーは南アメリカに影響を残している。とくにスペイン・アルゼンチンのアナーキストであるディエゴ・アバド・デ・サンティリアンである。彼はベルリンに1922念から26年までのあいだに住み、FAUDの関係者と交流していた。彼はランダウアーの論説「民衆の決断を通じて戦争を廃止する」、そして1920年には『社会主義への呼びかけ』をスペイン語に翻訳した。1929年から32年までのあいだ、マックス・ネットラウはブエノス・アイレスで刊行されている『ラ・プロテスタ』紙上、バルセロナで刊行された『白色評論 La Revista Blanca』でランダウアーに関する記事を発表していった。その中でも最も重要な記事は、『ラ・プロテスタ』に1929年7月31日に掲載された「手紙でみるグスタフ・ランダウアーの生涯」である。この記事はランダウアーに捧げられていた。1933年にはヘルムート・リューディガーが『白色評論』にランダウアーに関する評論を発表している。
1934年、サンティリヤンは、スウェーデン語で書かれたランダウアーに関する書物をスペイン語に翻訳している。反軍国主義者のアウグスティン・ズーシーは、第一次世界大戦中にスウェーデンに亡命し、スウェーデン語で『ランダウアー 革命の哲学』という著書を1920年に刊行している。1931年にオランダでは、ヘリエッテ・ローランド=ホルストによって『グスタフ・ランダウアー その生涯と著作』という書物が刊行されている。
その後もサンティリヤンは、数十年間にわたりランダウアーの著作を出し続けた。1947年に彼はランダウアーのシェイクスピアに関する講演録をスペイン語に翻訳して刊行し、1961年、『革命』のスペイン語版が、サンティリヤンの助力により、ついに刊行される。
これ以外の言語によるランダウアーの翻訳は少ない。1973年代にはフランス語で『革命』が翻訳されている 。『社会主義者への呼びかけ』の英訳は1978年に刊行されている。これら70年代の翻訳は当時のランダウアーに対する関心の復活を反映している。定期刊行物でのランダウアーに関する記事の掲載は、これらよりも先行していた。イギリスで発行されていた『アナーキー Anarchy』1965年8月号に発表された記事は、フランスで刊行されいていた『リバータリアン・スタディーズ Recherches libertaires』1966年12月号に、その一部が翻訳されて掲載されている。これ以外にフランスの『リバタリアン・ワールドLe Monde libertaire』1967年1月号、スウェーデンの『労働者Arbetaren』1968年1月23-26日号にもランダウアーに関する記事が掲載されている。過去十年間では、Giannis Karapapasが2000年にランダウアーの評論集、2001年に『革命』のギリシャ語訳を刊行している。Charles Dagetは2008年ととくに09年に、フランス語の評論集を編集・翻訳して刊行している。英語では、2005年にランダウアーの評論を含む『ドイツのアナーキズムとそれ以外のエッセー』というパンフレットが刊行されている。ナフーム・ゴルトマンとランダウアーとの往復書簡集は、2009年に刊行された、ジェイムズ・ホローによる『生きている革命 アナーキズムとキブツ運動』が再掲されている。
現在、ドイツ語以外の言語で書かれたアナーキストの著作に関するランダウアーの翻訳は、今日では、国際的なアナーキズム運動に対する彼の最も重要な貢献であるといわれているが、これは彼の著作自体のドイツ語以外への翻訳が少ない、ということを考えれば、幾分かは皮肉な状況である(注164)。
ランダウアーは、しばしばヘートヴィヒ・ラッハマンと協力しながら、ガイ・アルトレド、ミヒャエル・バクーニン(注165)、バルザック、Allan L. Benson, エティエンヌ・デ・ラ・ボエシ、サミュエル・バトラー(注166)、ヴォルテリン・ド・クレア、マーガレット・フュラー、クロポトキン、ムルタトゥーリ(エヅムンド・ドゥーヴェ・デッカー)、ネットラウ、プルードン、エリゼ・ルクリュ、ジョン・リード、ルソー、タゴール、トルストイ、ホイットマン、オスカー・ワイルドといった著述家や思想家の翻訳を行っている。これに加えて、ランダウアーは、多くの国外の著者をドイツ語しか読めない読者に対して、国外の亡命ドイツ人に対しては、国外で発行されていた機関紙から委託された評論を発表することで、記事を紹介している。ランダウアーによってこのようにして紹介された人物としては、アレクサンドル・ベルクマン、フランシスコ・フェレル、ジャン・グラーヴ、エマ・ゴールドマン、アレクサンドル・ゲルツェン、エルルコ・マラテスタ、ヨハン・モスト、ドメラ・ニューエンハイス、ロベルト・ライツェル、ヴラディーミル・ソロヴィヨフなどがいる。
ラッハマンとランダウアーの翻訳のいくつかはいまだに再刊されドイツでは一つの標準的なものとなっている。 たとえば、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、『社会主義のもとでの人間の魂』、クロポトキンの『相互扶助論』、エティエンヌ・ドラ・ボエシの『自発的隷従について』、フランス革命時代の書簡、マイスター・エックハルトの現代ドイツ語訳などである。
1961年に、野心的だがやや無味乾燥な、トーマス・エスパーによる『グスタフ・ランダウアーのアナーキズム』という学位論文が発表されたのち、英語圏では1970年代に3冊のランダウアー研究書が発表されている。1971年、チャールズ・マウラー『革命への呼びかけ グスタフ・ランダウアーの神秘的アナーキズム』が刊行され、ユージン・ラン『共同体の予言者 グスタフ・ランダウアーのロマンティックな社会主義』が1974年、ルート・リンク=ザーリンガーの『グスタフ・ランダウアー ユートピアの哲学』が1977年に刊行された。今日に至るまで、これらの書物が英語圏におけるランダウアー研究の基本文献でありつづけている。
チャールズ・マウラーは、芸術、神秘主義、そしてランダウアーのフリッツ・マウトナーの著作について焦点を当てている。マウラーの著作は一面的であるが、同書は刺激を与えてくれるものであるし、情報も豊富である。
ユージン・ランの研究は最も分厚く、全般的な概観を与えてくれる。もちろん「ロマン主義的社会主義」というレッテルは、適切であるとは言えない。
リンク=ザーリンガーの著作は、文化的な背景に重きを置いており、人間性に関する分析があり、第4章は、歴史小説の中のグスタフ・ランダウアーを分析している。同書には、今日では時代遅れになったが、かなりくわしい文献目録がある。リンク=ザーリンガーは、ランダウアーの評論とドイツ国内での講演録の選集を刊行している(注167)。
英語圏では、ランダウアーに関心を持つ人びとに向けられたいくつかの短い文章もこれまで出されてきている。推奨できるのは、ロンドンで刊行されていた雑誌『アナーキー』のバイエルン評議会共和国特集号(1965年8月)に掲載されたコーリン・ウォードによる評論である。この号には、「革命に関する思索」というタイトルで『革命』の一部の英訳が収録されてている。また、ラッセル・バーマンとティム・ルークが刊行した『革命への呼びかけ』の英訳『革命について』の序文も推奨できる。ポール・アヴリッチは、1988年に刊行した『アナーキストたちの肖像 Anarchist Portraits』の一つの章をランダウアーに捧げている。短くも美しい文章である(注169)。ランダウアーの生涯と著作に関する概観は、前述したジェイムズ・ホロー『生きている革命』にもある。最近では、ホローは2009年に刊行された『アナーキズムへの新しい視点New Perspectives on Anarchism』のなかに「反抗の再発明 フスタフ・ランダウアーの社会哲学における構築的活動」というエッセーを寄稿している。ヘブライ語によるランダウアーのオスカー・ワイルドの翻訳がオンライン・ジャーナルOscholarsで発表される予定である(注170)。
最も広範な読者を獲得したアナーキズムの歴史に関する書物の中でも、ジョージ・ウドコック『アナーキズム』、ピーター・マーシャル『不可能を要求する あるアナーキズムの歴史』、そしてマックス・ネットラウ『アナーキズム小史』にはランダウアーに関する記述があり、ネットラウの記述だけが、事実関係に関する誤りがなく最も正確なものである(注171)。
注 工事中
英語圏では、ランダウアーに関心を持つ人びとに向けられたいくつかの短い文章もこれまで出されてきている。推奨できるのは、ロンドンで刊行されていた雑誌『アナーキー』のバイエルン評議会共和国特集号(1965年8月)に掲載されたコーリン・ウォードによる評論である。この号には、「革命に関する思索」というタイトルで『革命』の一部の英訳が収録されてている。また、ラッセル・バーマンとティム・ルークが刊行した『革命への呼びかけ』の英訳『革命について』の序文も推奨できる。ポール・アヴリッチは、1988年に刊行した『アナーキストたちの肖像 Anarchist Portraits』の一つの章をランダウアーに捧げている。短くも美しい文章である(注169)。ランダウアーの生涯と著作に関する概観は、前述したジェイムズ・ホロー『生きている革命』にもある。最近では、ホローは2009年に刊行された『アナーキズムへの新しい視点New Perspectives on Anarchism』のなかに「反抗の再発明 フスタフ・ランダウアーの社会哲学における構築的活動」というエッセーを寄稿している。ヘブライ語によるランダウアーのオスカー・ワイルドの翻訳がオンライン・ジャーナルOscholarsで発表される予定である(注170)。
最も広範な読者を獲得したアナーキズムの歴史に関する書物の中でも、ジョージ・ウドコック『アナーキズム』、ピーター・マーシャル『不可能を要求する あるアナーキズムの歴史』、そしてマックス・ネットラウ『アナーキズム小史』にはランダウアーに関する記述があり、ネットラウの記述だけが、事実関係に関する誤りがなく最も正確なものである(注171)。
注 工事中
p.336 「選集Collected Works」より
驚くべきことに、フスタフ・ランダウアーのドイツ語による著作選集はこれまで完結していない。1990年代にいくつか試みられたが、いずれも実現に至らなかった。8巻で計画された選集の第一巻は、1997年にアカデミック出版より刊行された(『詩人、異端者、アウトサイダー 文学、哲学、ユダヤ人に関する評論と講演』)。しかしそのあとの巻は刊行されなかった。
2008年、AV出版から、ドイツのランダウアー研究者として最重要人物ジークベルト・ヴォルフの編集で、選集の刊行が開始された。最初の二巻『国際主義』『アナーキズム』は2008年と09年に刊行され、その後、2010年に『反政治』、2011年に『反軍国主義』、『戦争と革命』、 2011年に『哲学とユダヤ人』、2013年に『文学』が刊行予定である。これに書簡集が加わる予定である。すべての巻には詳細な文献目録が附される予定である。
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