2018年8月2日木曜日

2018年8・6ヒロシマ集会 資料4:1990年代の『自由意志』紙上でのアナーキストたちの論争。スピリチュアリズムかアナーキズムか? "Spiritualism or Anarchism?: Dispute between anarchists "S" and "Wada" in the 1990's in the anarchist paper "Free Will "

「スピリチュアリズムから見たアナーキズムの可能性」『自由意志』66-67号、1994年12月15日、8-11頁。by S.
(読みやすさを考慮し、大幅に省略・改変) 
・・・死後の世界があるかどうかは、アナーキストにとって重大な意味を持っているのである。
 モーゼスへの霊界からの通信に、「共産主義と社会主義は悪の勢力です」というのがある。
 もし同じことを統一教会に言われたら、無視して相手にしない人も、あの世でさらに修行を重ね、より深い叡智と、地上の人間の視野をはるかに超えた広い角度から人間世界を観察している相手からの指摘となると、それを無視し続けることができるのであろうか。
 死後の世界があれば、モーゼスの通信はそのような相手からのものとなるのである。それは極めて重い真実ということになる。
 そしてその言葉はアナーキズムにも当てはまるのかもしれないのである。
 「アナーキズムは左翼ではない」とか、「われわれはアナーキストもマルキストを悪の勢力としてみてきた」といったところで、その言葉の重さの前では、私には両足とも悪の世界に突っ込んでいるか、片足だけか、程度の違いでしかないように思われるのである。
 われわれこそ人類の理想主義を体現し、正義そのものであるといった、アナーキストのプライドなど、何の意味もなかったことになる。
 マルキストのように悪そのものにもなりきれず、といって悪から両足とも洗うこともできず、せいぜい悪と善との境目あたりをうろちょろしている、というのがわれわれアナーキズム運動の実態だったのではないだろうか。
 私自身は、死後の世界はあると思っている。
 では、なぜアナーキストをやめないのかといえば、まだ少し心に引っかかるものがあるからである。
 どうしてあんなにストレートに、あるいは直感的に「やるならアナーキズムだ」と思ったのか、その体験にどうしてもこだわってしまうのである。
 ある瞬間からアナーキストになることが当然のことであり、アナーキストとして生きることが、自分にとってほとんど天命のようなものであった。
 それがなんだったのか、何を意味していたのか、その意味が了解できるまで、全く個人的な問題であるが、おそらくアナーキストをやめられないであろう。
 それに、霊界通信でもアナーキストであること、あるいは共産主義者や社会主義が完全に否定されているわけでもないのである。
 「私は決して世に言う社会改革者たち―義憤に駆られ、抑圧されたものや弱気ものへのやむにやまれぬ同情心から悪と対抗し、不正と闘い、物的な神の恵みがすべての人間に平等に分け与えられるようにと努力している人々をないがしろにするつもりは毛頭ありません。ただその人たちは問題の一部しか見ていない―物的な面での平等のために戦っているにすぎないということです。もちろん精神的にも平等であるべきことも理解しておられるでしょう。が、人間は何もよりもまず「霊」なのです」とシルバーバーチ霊は言う。
 また共産主義のみんなで分け合うという理念はとても結構なことです、とも述べている。
 霊界からいえば、問題はそれらの運動が霊的真理を無視して展開されてきたということであろう。それゆえ、求められていることは霊的真理にしたがった運動ということになる。
 ただ、それはわれわれが想像する以上に困難なことなのかもしれない。
 モーゼスへの通信では、「社会主義、共産主義、無神論、ニヒリズムーこれらはみな同じ陰湿な病弊を別の呼び方をしているにすぎません。それが今地上に蔓延しつつあります。こうした勢力も、秘められた力を出し尽くせば善の方向へ利用することも可能でしょうが、現在のところは混乱の原理を操る邪霊集団に振り回されております。われわれの大事業を阻止せんとしているのです」ともいわれているからである。
 しかし、その困難を克服したとき、アナーキズムも人類の霊的進歩に、多少の貢献が可能なわけである。・・・・

 シルバーバーチによれば、真理はきわめて簡単であり、それは「人生を霊的摂理が支配していること、お互いが助け合うことが一番大切であること」であるという。
 このことから、まずアナーキズムに求められているのは、アナーキズムの理念でもある相互扶助の実践であろう。・・・
 クロポトキンは『相互扶助論』で相互扶助に進化論的意味を見いだしているが、シルバーバーチによれば、たしかに相互扶助は霊的進化の原動力であるとともに、生物学的にも進化の原動力である。・・・・
 シルバーバーチは、自然すなわち神の摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると、混乱と無秩序が生じ、必ず破綻を来すといい、また、地上のいかなる組織・団体もそこに霊的実在の認識がない限り真の進歩は得られないという。
 問題は、理念や目的の立派さではなく、その手段・方法の内容と運動的実態である。・・・
 アナーキストもマルクス主義の前衛党や労働者階級による独裁といった手段を批判し、目的と手段の一致ということを主張してきた。
 しかしアナーキズムが目的と手段の一致という自らの原則にどのぐらい忠実だったかは、はなはだ疑問であり、・・・アナーキズムには霊的真理に反する、様々な要素があることも事実なのである。・・・
 そのようなものの一つに暴力主義がある。・・・
 アナーキズムの革命主義も、霊界から見れば清算しなければならないものの一つである。
 たとえばシルバーバーチは「進歩は突発的な改革のような形でなされるものではありません」「霊的成長はゆっくりとした歩調でなされねばならないからです」と述べている。
 この主張の奥には、真理というものは一人一人が納得していくことによって広がっていくものであり、霊的成長は他人から与えられるものではなく、自分を改造するのはあくまで自分出会って、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないという霊的摂理がある。
 霊界の革命主義の否定は、社会へのアナーキストの態度の変換を迫るものである。例えば、善悪二元論から来る対立・対決姿勢と、全的存在としての自己の絶対化とそれに伴う押しつけがましい態度、などといったものである。
 この善悪二元論はマルクス主義から市民運動まで広く見られるものであり、アナーキズムもクロポトキンが人間の歴史を自由と権力という二つの傾向の対立としてみたように、その内部に含むものである。
 それに対し、霊界は相手への村長と寛容を強調する。・・・
 これはまた、左翼主義的前衛主義の否定でもある。・・・
 そこから出てくるのは、社会に対する対立・対決ではなく、社会への参加であり、善として悪を糾弾することではなく、時には一緒に悪に手を染めることである。・・・
 そうすると、当然国家への考え方も変えなければならない。霊界は国家をこれまでのアナーキズムのように、頭からは否定しない。・・・
 霊界についての通信を見ると、霊界はプルードンのいうアナーキーそのものではないかという気もしてくる。
 霊界は誰に強制されるのでもなく、各人が自分の望む世界で自動的に生活するのである。・・・
 それはプルードンのいう、「各人による各人の統治」というアナーキーそのものとも言えよう。・・・

 人類の霊的進歩へ向けた一つの力にアナーキズムがなるためには、革命主義、暴力主義、反国家、反抗・反逆主義といったものを含んだままのアナーキズムではなく、相互扶助と自由、そして個人こそ社会の単位であるという意味での個人主義のアナーキズムへと、一種の純化されたアナーキズムとならなければならない。
 革命主義や反国家主義はアナーキズムの命とまで考えられていたのであるから、すべてのアナーキストがすぐにもそれらを破棄するとは思われない。・・・
 私自身は現実的にはっきりと分裂すべきではないかと考えている。アナーキズムが社会主義や共産主義と同じように、霊界からは悪の勢力と見なされかねないのが現状だとすれば、とてもそのような余裕はないということである。・・
 では、二つに分裂したとしてそれからどうなるのであろうか。
 霊界から見れば、アナーキズムでなければならない理由は何もないし、相互扶助がアナーキズムを通しての見なされるというわけでもないのであるから、結局心霊的アナーキズムは新しい参加者もなく、じり貧状態に陥り、やがて消滅していくかもしれない。もっとも、心霊的アナーキズムにとっても、それならそれでいい問題であるが。
 しかし、もし心霊的アナーキズムというものが確立されるなら、そこからアナーキズムにも一つの役割が与えられる可能性が出てくる。・・・
 アナーキズムもまた結局は一つの政治運動であるとすれば、心霊的アナーキズムは政治と霊的知識を結びつける役割の一翼を担うということで、人類の霊的進歩における一定の一を占めることができるかもしれないのである。

和田久次郎「S氏はアナキストか? アナキスト連盟の思想的無原則性をただす」『自由意志』第68・69号、1995年2月27日、6-8頁。
 ・・・・結論から言ってしまえば、S論文とはオカルティズム(スピリチュアリズム)にかぶれたもとアナキストのたわごとであり、単にそれだけだ。
 かの文章がアナキズムの衣をまとわずに(かつ、より平易な表現をもって)他の雑誌媒体―例えば学研の『ムー』あたりに発表されたのであれば、それはそれで正当な事態であり、なんの問題もない。
 ところが、あろうことか氏は、アナキストを自称し、「心霊的アナーキズム」なるものを開陳する。
 「私自身は、死後の世界はあると思っている」「霊的真理を取り入れた政治運動があるかといえば、それはまだ存在していないといえよう」。当然だ。そんなものが存在したら、それはもはや政治運動ではなく宗教運動である。
 そもそも「アナーキー」の語源たるanarchosというギリシャ語は「支配者のない」という意味であり、そこから派生した反権力・反権威の思想がアナキズムなのである。
 そこにおいては当然のことながら「国家」「宗教(絶対的真理としての神)」といったこの自律的存在を脅かす概念、事象は否定・打倒の対象でしかなく、個人の主体的自覚、自由意志による無政府主義社会の建設こそが目的意識的にめざされるのである。・・・・
 確実にいえるのは、アナキズムとは個に敵対するいかなるものも認めず、絶対自由を追求する思想運動であるということだ。・・・・
 そもそも「霊界通信」による「シルバーバーチ霊」なる者のお言葉を無条件に真理であると疑わず、それをもってアナキズムなり共産主義なりを裁断せんとする氏の姿勢からして、アナキズムに背理している。敵対している。
 「神の摂理」だとの「霊的真理」だのを担ぎ回って現実社会の思想や運動に介入することが許されないのはアナキストにとって自明である。
 なぜならば、個人の思推の内にしか存在しない「絶対的真理」=「神」の幻影を利用して他者に自己の思想を押しつける方法論は、支配的宗教であるキリスト教を使って民衆を抑圧した歴史上の支配者たちの思考回路と全く軌を一にするからだ。
 明白な権力・権威主義だからである。
 バクーニンら、アナキストの先達の苦闘を氏はなんと持っているのか?
 また、「相互扶助」についていえば、本来、われわれがこの語の使用するのはあくまでも科学的学説としての「相互扶助論」をめぐる文脈の中である。・・・「お互いが助け合うことが一番大切」(シルバーバーチ霊)なる一般的道徳観念ゆえにその可否が論じられてはたまらない。・・・
 ここまで見れば、明らかであろう。
 S氏はアナキストではあり得ず、その「心霊的アナーキズム」なるものも本来のアナーキズムとは似ても似つかぬ反動思想だということが。
 「ただアナーキズムの拡大を求めることは、逆にアナーキズムを悪の勢力の一つにするだけの結果しかもたらさないであろう」。
 よくいった。ここに氏のアナキズムの拡大を否定する反アナキストとしての本質がある。・・・
 ナントカ霊の前に両手を挙げて拝跪し、権力を、そして国家を認める恥知らずな輩にアナキズムを説かれてたまるか。
 S氏は今すぐ「心霊的アナーキズム」なるナンセンスな言辞をもってのアナキズム戦線撹乱策動を中止せよ。
 死後「多くのアナキストをたぶらかした罪」で裁きにあっても、俺は知らんぜ。

「和田久次郎氏への反論」『自由意志』第70・71号、1995年4月15日、7-8頁。by S.
 ・・・スピリチュアリズムでは、霊界では各人の自由意志が最大限に尊重され、アナーキーともいえる世界がすでに実現されている、ということは述べているはずである。
 さらに、スピリチュアリズムはこの地上でも、そのような世界は実現できるし、実現されなければならないと主張しているのである。アナーキズムから見て、このどこが問題なのであろうか。・・・
 その手段として暴力を否定し、何よりも相互扶助を強調することが問題なのであろうか。
 しかし、このどこが目的と手段の一致というアナーキズムの原則に照らしても、否定されなければならない問題を含んでいるのであろうか。・・・
 スピリチュアリズムの手段のどこがアナーキズムから見て問題なのか、私にはさっぱりわからない。
 スピリチュアリズムは別にその信仰を押しつけているわけではない。・・・
 重要なのは他者への奉仕であり、相互扶助であって、問題はそれを実践しているかどうかだ、といっているのである。・・・
 ようするに、私にはアナーキズムからみてスピリチュアリズムが排撃されなければならない理由がどこにあるのかわからない。
 少なくとも霊界においてはアナーキーな社会が実現しているというスピリチュアリズムは、その非現実性を絶えず指摘されるアナーキズムにとっては強い味方ではなのか。・・・
 アナーキズムはイエスをアナーキストの一人として数え上げてきたのではないのか。イエスが語った言葉はスピリチュアリズムそのものであり、イエスは一人のスピリチュアリストにすぎない。とすれば、スピリチュアリズムとアナーキズムの結合に、なんの問題があるのだろうか。・・・
 相互扶助を通じて、アナーキズムの目的が実現できるなら、すべてのアナーキストにとってそれに越したことはないのではないか。
 ただ、多くのアナーキストにはそのことに確信が持てないだけである。だからといって、そのことに確信を持ったアナーキストがいたとして、そこのことをもってそのアナーキストを排撃することはできないであろう。その可能性もまた誰も否定できないのだから。
 ましてや、その確認から来る姿勢に対し、それが反国家のスタンスに欠けるとして、非難するとすれば、そのアナーキストは手段でしかない反国家を目的とするという、目的と手段の関係を逆転させていることになる。
 問題がここまで来ると、反国家的国家依存主義について考えておかなければならない。その特徴は、まず本人はその実態に気がつかないことである。
 気がつかないままに、反国家をいいながら実は自分が否定してやまない対象に依存しているという、その矛盾した姿から自分自身の目をそらせるために、反国家という側面だけを肥大化させたり、反体制としてその立場が確立されている思想に寄生して、それと自己を同一視しようとしたりする。・・・
 和田氏は「対権力闘争における一手段としての暴力を何ら否定するものではない」という。それでは、あらためて和田氏に聞きたいのは、目的と手段の一致というアナーキズムの原則をどう考えるかということである。
 その原則は、アナーキズムの目的内容に一致しない内容の手段は、アナーキズムの目的を実現できない、という意味であり、・・・・すなわち、目的と手段の一致という原則からいえば、暴力はアナーキズムの目的実現にとって、何の意味もないということである。・・・
 和田氏が私をアナーキストとして認めないように、私も和田氏のような目的と手段の一致という原則を否定する人間をアナーキストとして認めない。また、そのような人間をアナーキストとして認める人間もアナーキストとして認めない。・・・
 はっきりと分裂すべきである。そうすれば、反国家的国家依存主義者はみんな相手の方にいってくれるだろうから、それだけでもこの分裂は私から見れば大歓迎である。また、この問題に関して、自己の立場を明確にできないアナーキストは、私から見ればもうどうでもいい存在である。 

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