2018年8月18日土曜日

大逆事件がアナーキストをつくりだす:山鹿泰治の場合

 幸徳事件の秘密裁判で日本政府は幸徳秋水一派が「二重橋に迫り明治天皇を殺して、社会革命を企てた」と判決し、世界を偽って明治44年(1911)1月24、25の両日に12人の男女アナキストを市ヶ谷監獄の絞首台(今の新宿区富久町の富久児童遊園の東南隅)で次々に縊り殺した。
 当時私は19歳で、内幸町の日本エスペラント協会の無給書記として宿泊し、築地活版の欧文工見習いだった。
 夜はブース大将の創立した救世軍の本営が銀座三丁目の天狗タバコの隣にあってそこの銀座小隊の兵士になり、あの辻で角あんどん、たいこ、クラリネットで「神の恵み、主イエスの愛」という軍歌を歌い、辻説教をやり、廃娼運動、水害救援、年末の慈善鍋の募金にも献身していた。
 小隊長はモントゴメリー中将というイギリス女で、紺服赤リボンの軍装でタンバリンを振り回す。同志社女学校出身の出口なかという妙齢美人の流ちょうな通訳だから聴衆の中から「アイ・ラブ・ユー」なんてやじまで飛んだ。
 山室軍平がまだ大佐で時々銀座小隊でも説教した。彼の著「平民の福音」は名文だった。彼の18番の「神は愛なり」という雄弁な説教に人はつり込まれた。
 その下の矢吹少佐が説教のなかで「幸徳秋水の最後に立ち会った人から聞いたが幸徳の態度は誠に見苦しかったそうです。無神無霊魂を唱える者には当然のことである・・・」といったのに僕は強く刺激されて、この事実を調べてみたい気になった。
 ちょうどその頃、工場で僕の隣の仕事台へはいってきた熟練工の原田新太郎君が僕の救世軍の帽子を見て話しかけてきた。はじめはいつもの手で「あかし」といって兵士が信仰の経験を話したり「すなどり」といって聴衆の中のめぼしい人に近づいて勧誘をして悔い改めの祈りをさせるあの要領でやったが、原田君は舌鋒鋭く「猛者」と自信していた僕もたじろいだ。
 「国家の権力をどう思うか」と切り出されて、僕は聖書に「権力を持つ者になんじら従うべし。それはすべての権力は神より出でてなればあり、とある」と答えたが、たちまちやり込められてしまった。
 その筈で原田君は幸徳一派の残党だったのだ。ひそかにかしてくれた「パンの略取」や平民新聞などを見せてもらって僕はむさぼり読んで感激した。
 続いて大杉栄が出獄したのでエス文の手紙で打ち合わせて原田君とともに密会してアナキズムの話を聞き、次に横浜の日曜学校をやっていた石川三四郎と渡辺政太郎も同席であって、神やキリストの問題について教えられた。
 当時、四面楚歌のなかで厳然と主張を曲げず、幸徳らの無政府主義を信奉するこの人々が、みな神を信じないで正義と自由のために生命を投げ出して戦っているのを見て僕は断然決心した。
 次の銀座小隊の兵士会で僕は壇上に立ち、「今夜限り僕はキリストと別れて、幸徳秋水の後に続くアナキストになるのだ」と宣言した。女の士官や兵士は泣き出し、「この兄弟は悪魔のとりこになりました。おお神様、彼をキリストに戻るように助けてください」と祈った。
 悲痛なその声をあとにして僕は暗い銀在の柳の下を力強く立ち去った。
 あれからもう50年になる。
 山鹿泰治「大逆事件の影響―救世軍がアナキストに転向―」『クロハタ』第49号、1960年1月1日、3頁(『戦後アナキズム運動資料』2,緑蔭書房、1988年、199頁)より。

1 件のコメント:


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